アダム&アダム

「おかえり。今日も遅かったな、お疲れ様」


「ああ、ただいま、雅(みやび)」


 大悟(だいご)と雅が共に暮らし始めて、一年経つ。今日は、ちょうど一年目の記念日だった。保父の大悟の給料だけでやりくりしているから、あまり豪華にはならなかったが、心を込めて作った料理が、いつもより彩りよく食卓に用意されていた。


「大悟……」


「悪りぃ、仕事急に代わってくれって頼まれて、電話する暇も無かったんだ。飯は済ませてきた。明日早いから、もう寝るな?」


 そう言って、雅の頬にごく軽く口付けを落とすと、寝室に向かってしまう。


「あ……」


 今日が、記念日だという事に気付いていないらしい。もっとも、記念日なんかには無頓着な大悟だから、気付かないだろうと予想はしていた。しかしこれでは、余りに冷たい仕打ちだった。


(それに……)


 雅は俯く。今までは三日と開けず雅を求めてきた大悟だったが、ここ一週間ほど、残業続きでまともにキスもしていなかった。おはようのキス、おやすみのキス、行ってらっしゃいのキス、ただいまのキス。いつも触れていた唇が、頬に変わったのもここ一週間の事だ。


 胸騒ぎがした。一年前に出会った時から変わらず惜しみない愛を与えてくれた大悟が、誰かに心を移してしまったのではないかと疑心暗鬼が心を曇らせ、待っていた夕食も食べずに、雅はふらりと外に出た。


    *    *    *


「お願い雅、十日だけで良いから」


 バツイチの姉にそう頼まれ、甥っ子を預かった事がきっかけだった。四歳の甥っ子、太一(たいち)は雅によく懐いていて、快諾するのには何の問題も無かった。仕事は、幼稚園の送り迎え。ふたりで手を繋ぎ、『ロンドン橋落ちた』を歌いながら、道のりは楽しいものになった。


「おはよう先生!」


「おはよう、太一くん」


 意外にも、迎えてくれたのは背の高い保父だった。てっきり女性の先生だとばかり思っていた雅は、若干の驚きを隠しつつ声をかけた。


「おはようございます」


「おはようございます。加藤大悟です。太一くんのお身内の方ですか?」


「はい、太一は姉の子です。旅行に行くから、十日間預かる事になって」


「そうですか。よろしくお願いします」


 大悟と名乗ったその保父に、太一は飛び付くようにして遊びをせがむ。感じの良い人だな、と思い、雅は幼稚園を後にした。




 常と違う生活というのは早いもので、それから数日経ち、男同士という事もあって、大悟と雅は太一の送り迎えの際、たびたび話し込むようになった。太一にとっては、大好きな先生と叔父が仲良くなるのは嬉しい事で、ふたりの顔を見比べては、楽しそうにはしゃぐ。


 そして、子供ならではの感性で、すっかり親しくなった大悟と雅に向かい、こう言った。


「先生と叔父ちゃん、好き同士なの?」


 雅はやや言葉につまったが、大悟は手馴れたもので、


「ああ、そうだ」


 と返す。


 だがこれには、ふたりとも声を失った。


「じゃあ、ケッコンしちゃえば? 好き同士は、ケッコンするんでしょ?」


 目を見合わせ、笑いあったが、雅はやや心臓が早鐘を打つのを感じていた。大悟はと言えば、


「そうだな。でも、雅さんにもう好きな人がいたら、無理だな」


 のらりくらりとかわして笑う。子供の言葉は正直だが、時に大人たちを弄ぶ。


「いないよ! だから先生と叔父ちゃん、ケッコンして」


「太一」


 雅は困ったようにたしなめたが、大悟は言った。


「よっし。じゃあ、ケッコン申し込んじゃおうかな」


「大悟さんまで……!」


 隠しようも無く、頬が紅潮するのが分かった。たわいもない子供の言葉に翻弄されるなんて、と雅は逃げ出したい気分だった。早々に帰ろうとする雅を、大悟がクスクスと忍び笑って見送ってくれた。


「また明日、太一、雅さん」




 翌日から雅は、何となく大悟を意識してしまい、話をするのが気恥ずかしくなった。大悟はいつものように話しかけてくるのだが、雅がドギマギと会話を終わらせて帰ってしまう。雅は与り知らぬ事だったが、そんな背中を、大悟は目を細めて、保父としてとは少し違う顔で眺めすかしていた。


 太一は相変わらず、ふたりが会う度に「ケッコンして」と声高にはしゃぐ。男性に興味などなかった雅だが、いつしかそれが心の内を占め、大悟と会うのが、紅くなった顔を見られるのが、自己嫌悪をもよおすようになってきた。


 だが、幸か不幸か、明日が約束の十日目だった。雅は自宅アパートで、十日分の太一の着替えを纏めながら、感慨に浸る。


 朗らかそうでいて、「ケッコンして」と言われる度に、何処か皮肉めいた笑いを浮かべていた、大悟の顔が浮かぶ。


(大悟さんくらいハンサムだったら、絶対恋人がいるに決まってる……。それに、もう会わなくなるし)


 そう思い、雅はこの正体不明の感情を押し殺し、なかなか眠れなかったが、無理やり瞳を閉じて就寝した。




 送りは、大悟と別れるのが辛くなっている自分に気付き、太一をおいて顔を合わせずに帰ってきた。しかし帰りは、どうしたって話をせざるを得ないだろう。この十日間のお礼もしなければならなかった。


 幼稚園までの道のりを、重い気持ちを引き摺りながら辿る。


「叔父ちゃん!」


 太一は、すぐに雅を見付けて走ってきた。事もあろうに、大悟の手を引っ張って。


「こんにちは、雅さん」


「大悟さん……」


 やはり見詰められると、淡く染まってしまう頬を隠し、雅は俯いた。大悟が、そんな雅の頬に軽く触れ、覗き込んできた。


「雅さん? 顔色が悪い。どうした?」


 この十日間ですっかりフランクな仲となった大悟が、訊いてくる。


「い、いや何でも……」


 触れられたそこを中心に、ますます熱の上がる顔を両手で覆うようにして、雅は後ずさった。だが次の瞬間、予想出来なかった事態が起こる。


 心臓に、刺し込むような激痛が襲ってきた。それは雅の持病だった。激しい眩暈と共にやってくる痛みに、視界の天地が逆転したが、大悟が受け止めてくれたようで、ごく近くに顔が見えた。思わずその名を呼んでしまい、すがり付く。


「大悟、さ……!」


 朦朧とする意識の中で、大悟が自動車の後部座席に乗せてくれ、幾度も名を呼ばれるのだけが分かった。「もうすぐだ」「病院に」。そんな単語も断片的に聞き取れたが、再びの激痛が雅の意識を握り潰した。




 どれくらい眠っていたのか、窓の外はもう夕闇が迫っていた。三度目の大きな発作。慣れたつもりだったが、あの激痛に慣れる事はいつまで経ってもなかった。


 ふと雅は、ベッド横のスツールに誰かが座っているのに気付いた。まだはっきりしない頭で、呟く。


「姉さん……?」


 しかし返ってきたのは、意外な返事だった。


「太一くんなら、お母さんが連れて帰った」


「……大悟さん……!?」


「雅さんが倒れたのを見て、ショック受けてたから、俺が責任持って看てるって言って、帰って貰った」


 いつもの柔らかな笑顔とは違う、真摯な表情を受け止めきれず、雅が戸惑っている間に、大悟は続けた。


「雅さん……アンタ、心臓病なんだってな」


 大悟は、家族以外が知りえる事の無い雅の病状を、聞いてしまった。何故なら、医師に「ご家族ですか?」と聞かれた際、つい「はい」と答えてしまったからだ。自分でも、何故そんな嘘をついたのか分からなかった。


 医師から聞かされた言葉は、衝撃的だった。雅は、重い心臓病にかかっていて、手術をしなければ、今後も発作が起こるだろうという事だった。


 それを聞いた瞬間、嘘をついた理由が分かった。自分は、誰より雅を心配し、そして──。


「雅さん……雅。アンタの事が好きだ。一緒に暮らそう」


「えっ……!?」


「嫌なら、断ってくれて構わない」


 だが大悟は知っていた。太一に「ケッコンして」と言われる度に、恥じらいに頬を染めていた雅を。しばらく、強張った沈黙が落ちた。果たして大悟の予想通り、消え入りそうな声で、


「……はい……」


 と返事が返ったのだった。


    *    *    *


 ふたりの暮らすマンションを飛び出した雅は、電車で五駅ほどの場所にある、元は姉の使っていたアパートに向かった。姉が嫁いでいった後は、物置として利用されており、そこは雑多なもので溢れかえっていた。かろうじて物が無い、セミダブルのベッドに腰掛ける。


 こんな時でも律儀に、姉への郵便物は混じっていないかと大量のチラシ束をポストから取ってくるのが、雅らしい。悲しくて寂しかったが、それを一枚一枚確認する作業に没頭する事で、気を紛らせようと思った。


 と、手が止まる。小さな紙切れには、『アダム&アダム』と書いてあった。『出張ホスト』とも。誰かに話を聞いて欲しかった。『出張ホスト』の意味もよく分からないまま、雅は刹那的に携帯でその番号を押していた。


 住所を告げると、「三十分ほどで伺います」、と言って電話は切れた。後は今日のベッドの準備の為、シーツなどを取り替えていた雅だが、それが終わってしまうと、急に不安になってきた。みも知らない人物が訪ねてきたって、この寂しさを埋めてくれるとは思えない。キャンセルの電話をしようと、雅が再び携帯を手に取った時だった。チャイムが鳴ったのは。


 間に合わなかった。物置になっているこの部屋を今訪ねてくるのは、今しがた呼んだ『出張ホスト』のみだった。何となく背徳感に胸の鼓動を抑えながら恐る恐るドアを開けると──そこに立っていたのは、見た事も無いスーツできっちりと身をかためた、大悟だった。


 目が合った瞬間、ふたり同時に声が上がった。


「大悟……!」


「雅……!?」


 大悟が、顔を歪めて即座に詫びた。


「悪りぃ、雅……! 訳があって……!」


 その必死さに、よく訳が分からないながらも、雅は部屋の中へ大悟を導いた。


「……物置にしてるから散らかってるけど……入って」


「悪りぃ! この通りだ!」


 ベッドにふたり腰掛けると、大悟はうな垂れた。


「その……お前の手術費を、稼ぐ為に……」


「俺の……?」


「ああ、一週間前から始めた……。でも、お前を裏切った事には変わりがねぇ……」


 『裏切り』。その言葉で、雅もようやく話が飲み込めてきた。


「俺にはもう……お前と暮らす資格はねぇ……」


 涙声になる大悟に、しかし雅は優しく言った。


「俺だって……男の人が来るって分かってて、電話したんだ。悲しくて、寂しくて。俺も悪かった……」


「雅……」


「それに、ここ一年、全く発作がないし。好きな人と暮らしてるって言ったら、お医者さんも、それで病状が安定してるんだろうって」


 明るく声を弾ませ話した雅だったが、ふと、話題を変えた。


「誰でも良いから話を聞いて欲しくて、電話したんだけど……もう、本人に聞いて貰った。……後は……どうする……?」


 後悔に涙を浮かべていた大悟だが、その羞恥を含んだ艶っぽい問いに、顔を上げた。


 真っ直ぐに瞳を合わせながら、雅はなおも問う。複雑な表情だったが、大悟を責めてはいなかった。


「もう……俺は抱きたくない?」


「そんな事ねぇ!」


 即座に返したが、必要以上に力んだ台詞がおかしくて、雅は思わず吹き出した。


「あ……いや、その」


 数瞬、どうしたものかと逡巡した大悟だったが、やがて躊躇い無くスーツの内ポケットから携帯を取り出すと、電話帳を表示させた。その番号は先程、雅がかけた番号だった。


「もしもし。大悟です。俺、今日で辞めます」


 そう言って一方的に切ってしまう。そうして、ふたりは見詰め合った。大悟がそっと、雅の頬に触れる。雅も同じようにした。どちらからともなく、ふたりは口付け合った。一週間分の溝を埋めるよう、次第に口付けは深くなる。


 我に返ったように、大悟の携帯が鳴った。ディスプレイには、『アダム&アダム』の文字。しかし、鳴り続ける着信音は、やがて雅の押し殺しきれぬ嬌声に、密やかにかき消されていくのだった。


End.

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