~~~

 すぐ後ろまで奴等が迫っているような気がする。


 こっちだよ。


 懐かしい声が聞こえた気がして、わたしはキィともつれるように社に転がり込んだ。


 入れたんだ、ここ。

 子供のころ、海斗かいとたちと遊んでいても、のぞことはあっても入ろうとは思わなかった。


 教えられなくても、入ってはいけない場所だと知っていたからだ。格子からのぞくと、小さな台にお神酒みきと何やらがそなえられているのが見えたものだが、今はただ二畳ほどの板間にほこりが積もっているだけだった。


「大丈夫?」


 声をひそめてキィの様子を見る。わたしと違って息一つ乱していない。

 逃げるのに必死でそれどころじゃなかったが、臭いでキィが精液まみれなのを思い出した。触れてしまった嫌悪感で鳥肌がたつも我慢する。この子はもっと酷い目にあったんだ。


 せめて顔や髪だけでもと、ハンカチでぬぐってあげる。キィが茫洋ぼうようとした表情のまま、悲壮な様子を見せないのがわずかな救いだった。



 このままもりを抜けて神社のほうへ逃げようか。やしろこもった今となっては、扉を開けて外へ出る勇気も出ない。

 わたしは携帯を取り出すと、一番最初の連絡先を呼び出した。


「海斗……いまやしろ、すぐ来て」


 からからに渇いた喉でつかえながらも簡潔に告げる。説明しても信じて貰えるとも思えない出来事だし、自分でもどう説明して良いか分からず混乱している。待ってろと一声だけの返事だったが、放り投げるような無愛想ぶあいそな言葉が、今はとても心強く思えた。


 胸に抱くキィはわずかに瞳を動かし、不思議そうな顔で私を見ている。

 精液の臭いやぬめる感触のいやらしさより強く、伝わる温もりがわたしを安心させてくれた。


 ふと、虫の声が止んでいるのに気が付いた。

 耳鳴りがしそうな静寂せいじゃくの中、耳を澄ます。

 高鳴る鼓動こどうが邪魔だ。やしろの周りを何かがまわっているような気配がする。


 かり。


 扉の方から引っ掻くような音が聞こえた。

 呼吸も忘れ身を強張らせていると、格子から差し込む月明かりに影が落ちた。


 風で樹の枝が揺れたんだ。

 そう思い込もうとする私の耳に、どこかでかえるが鳴く声が響く。 


「開けろ……」


 扉越しのささやき声に、びくりと身をすくめる。どれだけの時間動けずにいたのか。


 ……海斗?


 音を立てぬようひざい、外の気配をうかがう。

 扉に手を掛けた瞬間、不意に怖い考えが浮かんだ。


 ――もしも、海斗じゃなかったら?

 携帯を取り出し、光がもれぬよう手のひらで隠しながら操作する。


 すぐ側で呼び出し音が鳴り響いた。

 溜息と共に全身の力が抜ける。


「自分で開けなさいよう!」


 助けに来て貰って何だが、今まで晒された緊張の反動で、怒ったような口調になってしまう。


「ッ!」


 ささくれで引っかけでもしたのか、左手の指先を気にしながら海斗は扉を引き開けた。


「無事か?」


 辺りをうかがいながら中をのぞき込み、私に安堵の表情を向ける。だが、奥にもう一つ人影を認めると、その顔はわずかに歪んだ。

 私一人だと思い込んでいたからか。あるいは立ち込める性臭のせいか。嗅覚が麻痺した私と違い、海斗にはやしろこもった悪臭は耐え難いものだろう。


「説明はあと……すぐにここから逃げよう」


         §


 魚人は追って来なかったようだ。やはり浜辺から離れたくないのだろうか。

 キィを連れたわたしは、拝島家の離れ、海斗の部屋にかくまわれた。家人に知られぬようカーテンを締め切り、十二畳ほどの室内を照らすのは常夜灯の薄明かりのみ。


 日付をまたぐ頃に始まるおこもりに参加するため、遅くても11時頃には水天宮すいてんぐうの社に向かうよう言い付けられている。今の時刻は7時過ぎ。一刻も早く町を離れなければならないと主張する海斗は、思わぬ事態に苛立いらだっている様子だ。


「その前に、シャワー貸してよう」


 魚の頭の怪物のことも、本宮ほんみやに関する海斗の言動も解らないことだらけだが、キィとわたしの身体を洗わなければならない事だけははっきりしている。


「何を呑気のんきな――」

「のぞないでよう?」


 海斗の不満の声を封じ込めると、私はユニットバスの扉を閉めた。 

 手早く服を脱ぎ、それをタオル代わりに、キィの身体にこびり付いた精液をき清める。どのみちもうこの服は着られない。


 暑苦しい拘束着こうそくぎを脱がせにかかるが、留め具だと思っていた黒いパーツは、外せる構造をしていない。金属のようにも陶器のようにも見えるそれは、簡単には壊せそうもなかった。


 白いエナメル革のほうも、破ったり裂いたりできる強度ではなかった。バスルームから手だけを出して海斗にハサミを要求したが、切るどころか傷を付けることさえできなかった。


 拘束着の本来の目的を考えれば当然か。だけど、キィはなぜこんな物を着せられているんだろう?


 ――薬を飲まされてるのかな? 

 ぼんやりとしたままのキィの表情で思い当たる。暴れたり、自傷癖じしょうへきがあったりするのだろうか? それならなぜ同行しているのが医者や看護師ではなく、自称素人民俗学者の青年なのか。


 ――ひょっとして、薬漬けの少女を監禁かんきんして連れまわすサイコパス?

 気弱そうな宗也そうやさんの顔を思い出す。なんとなくだが、やっぱり違う気がする。私やユリカに車内のキィを見られてもあわてた様子はなかったし、なによりこうしてキィに逃げられてしまっている。犯罪者としても介護者としても失格だ。


 考えても分からない。とりあえず服を脱がすのはあきらめた。幸いな事に首周りはぴったりとしていて、服の中に精液が流れ込んだ様子はない。

 濡らしたタオルで顔を拭ってあげてから、シャワーで拘束着ごとキィの身体を洗い清めた。


 ボイラーの音で気付かれると、海斗からお湯を使う事は禁じられているが、火照ほてった身体には冷たい水がむしろ心地良い。逆にお湯のせいで生臭い匂いが狭いバスルームに立ち込めてしまったらと、考えただけでだけで吐き気がする。


「はい、ここ。頭のせて」


 お風呂いすに座って太ももをとんとん叩くと、素直に頭を乗せてくる。

 小さい頃はおばあちゃんによくこうして貰ったっけ。


 長い髪を流水ですすぎ、シャンプーで繰り返し洗う。表情は変わらないが、水を掛けるとき目をぎゅっとするのが可愛らしい。リンスが無いのが不満だが、トリートメントをしている余裕もなさそうだ。自分の髪と身体を手早く洗い、バスタオルで身体を拭く段になってようやく、着替えがないことに気が付いた。


 下着もなしで海斗の男物の服を着るのはどうにもためらわれた。少し迷ったが携帯で美魚みおに連絡し、こっそり着替えを持ってきて貰うよう頼んだ。



https://kakuyomu.jp/works/1177354054884676877/episodes/1177354054884678538

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