☆☆☆


 肌で風を感じる、涼しげな夜。

 物騒ぶっそうなくらいに人気ひとけのない公園。草木はそよそよと静かに揺れ、虫たちはささやくように鳴いています。

 公園の噴水広場にはベンチがあり、そこに座る二人を、そばに立つ街灯が明るく照らしています。

 

 「ううぅ、うあぁー」

 「ちょっと待ってね。すぐにティッシュで拭いてあげるから」


 『姫穂ちゃん』と『周輝くん』は、そこにいました。学校から帰ってそのまま塾に行ったらしく、二人とも制服から着替えていません。

 『姫穂ちゃん』の方はひどく疲れた様子で、ぐったりと背中をもたれさせながら、半開きの目で虚空こくうを見つめています。『周輝くん』の方はまだ元気があるようで、二人分の塾の荷物(周輝くんのリュックと姫穂ちゃんの手提げバッグ)をそばに置き、手提げの中にあるティッシュをごそごそと探しています。


 「はい、じっとしててね」

 「んむっ、むうぅ……。ぷはっ」

 「ほーら、お口の周りきれいになった~。お利口りこうさんだね、周輝くん」

 「ぐじゅ、じゅるるっ。お、おりぇ……おりぇは……」

 「ん? どうかした?」

 「おりぇには、もうムリだ……」

 「無理?」

 

 周輝くんは力を振り絞って体を起こし、姫穂ちゃんの目を真剣に見つめて訴えました。


 「もう二度と……あの塾になんか、行きたきゅないっ!! お前のクラしゅ、おかしいよっ!!」

 「クラス? 特Dの教室のこと?」

 「なんなんだよ、あしょこはっ! クラしゅの連中は、常にガタガタ震えてたり、突然大声で叫び出したり、隣のやちゅにいきなり殴りかかったり……●●●かその一歩手前のやちゅばっかりで!! 講師は講師で、すぐ怒鳴ったり、指し棒で叩いたり、脚で蹴ったり……おりぇも答えを言えなかったって理由で、机に押さえちゅけられたりしたしっ……!!」

 「う、うん……」

 「そ、それにっ、おりぇの隣の席にしゅわってたデブなんかは、じゅ、授業中ずっと……その……お、おりぇの胸を触ろうとしてきてっ!!」

 「……」

 「やめりょって言ってるのに、嫌がってりゅのに、それでもハァハァ言いながら掴もうとしてきやがるしっ!! おりぇ、でも、カラダ、女だから、力弱くて、何もできなくて、ず、ずっと怖かったんだ……!! う、ううぅ……!」

 「ひっ、ひめも嫌だった……! あの子おっぱい触ってくるのっ!」

 

 周輝くんは姫穂ちゃんの前で胸中きょうちゅうの想いを吐き出し、心が空っぽになった後は、うつむいてぽろぽろと涙をこぼしました。姫穂ちゃんはその想いに共感を覚えたようで、彼なり……彼女なりに真摯しんしに受け止め、そして泣いている周輝くんの手にそっと自分の手を重ねました。


 「わかるよ。ひめもそう思ってた。周輝くんと同じっ!」

 「ぐずんっ……。ひ、姫穂……も……?」

 「うん! 自分のときは、この嫌な気持ちを誰かに言っても上手く伝わらなくて、独りで我慢してたけど、こうやって周輝くんも分ってくれて、同じ気持ちになってくれるのって、なんだかすごく嬉しいよ!」

 「姫穂……。で、でも、おりぇは……」


 何か言いたげな周輝くんに、姫穂ちゃんはにっこりと微笑みかけました。


 「行かなくていいよ、塾。やめちゃおう」

 「え……。いいの、か……?」

 「だって、ひめもその気持ち分かるもん。別に無理して行かなくてもいいんだよ」

 「でも、姫穂の親がなんて言うか……。今のおりぇは、あんまり上手くしゃべれないし……」

 「ひめのママには、ひめも言ってあげる! 『あの塾はダメなところだから、やめさせてあげて』っていうのと、『これから勉強は共生係がみてあげるから、塾なんて行かなくていいよ』って!」

 「姫穂……!」

 「ごめんね、周輝くん。体が入れ替わっちゃって、急にひめの体になっちゃって、大変だったよね。全部ひめのせいで……」

 「ううぅ、うあああぁーーんっ!! わああぁーーんっ!!」

 

 『周輝くん』がその言葉を言い終わらないうちに、『姫穂ちゃん』は感極かんきわまって大声で泣き出してしまいました。『姫穂ちゃん』は泣きながら、泣き叫びながら、自分の体を『周輝くん』の体にくっつけ、両腕でぎゅーっと彼を……彼女を抱きしめました。突然のことに『周輝くん』は少し驚いた様子でしたが、『姫穂ちゃん』と密着していることに気づくと、男の子の腕でしっかりと彼女を……彼を受け止めました。

 

 「あ……謝りゅのは、おりぇの方だよぉ……! ひぐっ……! ごめん、姫穂っ……! おりぇ、お前がすごく辛かったってこと、全然分かってなかった……!! 本当にごめんっ……!! ううぅっ……!」

 「ううん、もういいの。これでひめと周輝くんは、本当の仲良しになれたから」


 夜の公園のベンチで、周輝くんと姫穂ちゃんは……男女は抱き合っていました。数日前の二人では考えられない出来事です。

 お互いを理解し、お互いを尊重し。神様が二人の体を入れ替えたのは、きっとこんな結末を望んでいたからでしょう。誰もが望んでいた、最高のハッピーエンド……。


 「……」


 いいえ、違います。私はこんな展開を望んではいません。

 この様子を影で見守っていましたが、正直不愉快ふゆかいでしかありませんでした。今まで一番苦労してきた私を差し置いて、無視して、排除して、二人だけの幸せな結末? それはいけません。私の今までの苦労や葛藤が、全て無駄になります。


 周輝くんはもう、救われてはいけない人間なのです。


 * *


 しばらくして、周輝くんは急にモジモジとし始めました。


 「姫穂……。その、おりぇ……」

 「うん? 行きたいの?」

 「う、うん……」

 「じゃあ、連れて行ってあげるね。向こうにあったはずだから」

 

 もう直接「トイレ」とも言わずに、二人は意思疎通いしそつうをしていました。互いの気持ちを分かり合って、とても親密な関係になったようで、今は二人で手なんか繋いでいます。


 この公園の入り口には、確かに公衆トイレがあります。男子トイレ、女子トイレ、そして共用の多目的トイレの3つが設置されています。周輝くんと姫穂ちゃんはきっと、●●●の子でも使いやすい多目的トイレに入るつもりでしょう。私は少し先回りして、女子トイレの影で二人の声を聞くことにしました。


 スーーッ、バタン。カチャリ。

 多目的トイレの引き戸を閉め、カギをかける音が聞こえてきました。二人が中に入ったようです。


 「周輝くん、スカートを広げて?」

 「こ、こうか……?」

 「うん、そのままね。下着を脱がせてあげるから」

 「あぁっ……! ああぁぁ……」

 「はい、準備できたよ。あとは座って……ん? 周輝くんどうしたの? 真っ赤になって」

 「は、はじゅかしぃ……。ひめほに、見られてりゅの、とか、してもらうの、とか、はじゅかしぃ……」

 「大丈夫。全然恥ずかしいことじゃないよ。ひめの体を、ひめが見てるだけだし」

 「ううぅ、そうだけど……」

 「何も考えなくていいから、おしっこに集中してね」

 「あうぅ……」


 おそらく中では、私が今まで姫穂ちゃんにしていたようなことが、り行われているのでしょう。姫穂ちゃんは、いつも私が言っていたセリフを、そのまま周輝くんに言っています。

 

 ちょろちょろ、ぽちょぽちょ。

 唐突に聞こえてきた小さな水音は、やがてさらに小さくなり、しばらくして全く聞こえなくなりました。


 「どう? 全部終わった?」

 「うん……」

 「お疲れ様。周輝くんもひめも、よく頑張ったね!」

 「べ、べちゅにそんな……おしっこくらいで、大げしゃだよ」

 「ううん。ひめの体だと、それが大変なの。ひめはそれを分かってるから、上手くできたらちゃんと褒めてあげたいの!」

 「そっか……。じゃあ、おりぇも素直に受け取りゅよ。ありがとう」

 「えへへ。あとは、お股を拭くだけだね。ひめが拭いてもいい? 周輝くん」

 「あ、ああ。頼みゅ……」

 

 カラカラとトイレットペーパーを巻き取る音、そしてそのペーパーを持った手がガサガサと動く音が聞こえてきます。


 「この辺りかな……?」

 「ふっ、ふわあぁ……」

 「しゅ、周輝くんっ!? 口からいっぱいヨダレ出てるよっ!? 大丈夫っ!?」

 「だ、だいひょうふ……。ひめほに、き、きれいひ、してもらふのが、きもひいい、だけ……。はぁ、はぁ……」

 「よ、喜んでるの? 嬉しくて、ハァハァってなってるの?」

 「うん……。だいひょうふ、だからぁ~、そのまま、きれいひなるまへ、ふっ、つ、つぢゅけて~……」

 「も、もうすぐ終わるからね? 我慢してねっ」

 「うぅ~ん……」


 『姫穂ちゃん』は、のぼせ上がった時みたいな声を出しました。頭がポーッとして、体が熱くなって……きっと、そんな状態なのでしょう。溢れ出るヨダレを止められないくらい、フワフワした気持ちなのでしょう。


 「ふぅ、終わったー。あとはパンツをはかせて……」

 「いっ、いうぅっ。んひいぃっ!」

 「どうしたの? ひめのパンツ、はきたくないの?」

 「そっ、そうひゃ、なくてぇ……。おりぇの肌と、お前の肌が、触りぇ合うたびに、なんか、せ、背中が、ゾクゾクってすりゅんだ……」

 「背中……? じゃあ、頑張って触らないようにするねっ」

 「んっ、うん……。ひ、ひひっ、んひいぃ……」


 どうやらパタパタと暴れているらしく、便座の軋む音が、私のいる場所まで届いています。

 

 「よーし、これで全部おしまーいっ!」

 「ふぅ……」

 「ほら、立って。おうちに帰ろうよ、周輝くん」

 「ひ、姫穂……」

 「手ぇつないで行こ? はぐれないように」

 「……」


 しかし何故か、周輝くんはそこからしばらく黙ってしまいました。そしてようやく口を開いたと思ったら、今度はおかしなことを言い出しました。


 「なぁ、姫穂。もっと、おりぇの近くに来てくりぇ」

 「え? なぁに?」

 「いいから。もっとおりぇの近くに」

 

 ぽつりぽつりと、静かな言葉です。

 

 「これぐらい?」

 「もっと」

 「それじゃあ、これぐらい?」

 「うん……」


 『周輝くん』は無邪気に、どんどん『姫穂ちゃん』へと近づいていきました。全く警戒せず、これから起こることなんて予想だにせず、一歩、また一歩と。そして……。


 「んむっ……ちゅっ……」


 次に私が聞いたのは、二人のくちびるが触れる音でした。


 「……」

 「……」


 とてもとても、浅いキス。

 いいえ、きっとどちらかが唇をすぐに離したのでしょう。


 「ちゅー……したの……?」

 「うん……」

 「ひめに、ちゅーしたの?」

 「うん……」

 

 突然のことに、『周輝くん』はひどく驚いている様子でした。


 「どうして……? どうして、ちゅーしたの?」

 「だって、姫穂が好きだからっ……! きしゅしたいくらい、好きなんだ……!」

 

 また便座の軋む音がしました。今度は『姫穂ちゃん』が急に立ち上がった音みたいです。


 「しゅ、周輝くん……?」

 「もう一度、きしゅしたいっ! 今度はしっかり、ちゃんとしたきしゅっ!」

 「えっ……!? で、でも、そんな、ひめはっ」

 「はぁっ、はぁっ……。もう、抑えきれないんだっ……!」


 『姫穂ちゃん』は心の性別通り男の子らしい行動を、『周輝くん』は心の性別通り女の子らしい反応を示しました。


 「待って周輝くんっ! 待って! とにかく、まずは口から出てるヨダレを拭かないとっ」

 「の……飲んでほしい……」

 「えっ……?」

 「ヨダレ、もっといっぱい出しゅから、全部、姫穂に飲んでほしい……! 口の中ぐちゅぐちゅにして、姫穂を感じたいっ……! おりぇを感じさせたいっ……!」


 『姫穂ちゃん』は、より深いキスを求めていました。体の欲望のままに、突き動かされているようです。


 「でも、周輝くんには、付き合ってる女の子が……」

 「あんなやちゅ、どうだっていい! あいちゅも、友達も、親も、もうおりぇのことを周輝なんて呼ばないんだよっ! 今のおりぇを見てくれりゅのはお前だけだっ! おりぇには姫穂さえいりぇば……!」

 「ひ、ひめのこと、そんなに……?」

 「胸が苦しくなるくらい、好きなんだ……! 分かりゅだろ? すごく痛いんだよっ……!」

 「そんなこと、言われてもぉ……」

 「そうか。じゃあ、その体に教えてやりゅ! ここで、おりぇとお前で、やって……!」


 興奮も最高潮に達し、ついに『姫穂ちゃん』は『周輝くん』に体を求め始めました。これから何を「やる」かなんて具体的なことは、おそらく『周輝くん』の方は分かっていないでしょうが、目の前の女の子が異様な雰囲気であることは感じ取ったのでしょう。


 「い、いやっ! やめて、周輝くんっ!」

 「男の体が、女に何を求めてりゅかは知ってる。しゅこしくらい乱暴にしてくれても、おりぇは大丈夫だから……!」

 「だっ、ダメ……」

 「おりぇの財布の中に、アレ、入ってりゅだろ。お前はそりぇを使って……」

 「ダメだよ周輝くんっ!!! もうやめてっ!!!」


 夜の公園に、その男の子の声は響きました。

 聞く耳を持たず暴走していた『姫穂ちゃん』でしたが、『周輝くん』のその大声により、どうやらピタリと動きを止めたようです。


 「こんなの、ひめ、やりたくないっ……!」

 「で、でもおりぇは……姫穂に愛さりぇたいんだ……!」

 「好きって言ってくれるのはすごく嬉しいけど、いろいろびっくりしちゃって、ひめ、よく分かんないの……。だから、ちょっとだけ待ってほしい……」

 「じゃあ、待ってりぇばいいのか……? おりぇは……」

 「うん。ちょっとだけ、考えたくて」

 「分かった……。姫穂がそうしてほしいなら、そうすりゅ」

 「ありがとう、周輝くん」

 「で、でも……!」

 

 二人は冷静になり、次第に落ち着きを取り戻していきました。しかし、『姫穂ちゃん』にはまだ心残りがあるらしく、最後のお願いを『周輝くん』に持ちかけます。


 「うん?」

 「今日は、このままじゃ、嫌だ……! 苦しい……! も、もうしゅこしだけ、姫穂がほしい……」

 「そ、そっか……。じゃあ、ちゅーだけなら、もう一回……?」

 「うん……。する……」


 * *


 それから数十分後。

 手をつないだ男女の二人は、さっきの公園を出て少し歩き、『姫穂ちゃん』の家の前に到着しました。今日も一日、共生係としての仕事を無事こなした『周輝くん』が、『姫穂ちゃん』に別れを告げています。


 「じゃあな、姫穂。じゅるる……また明日」

 「バイバイ、周輝くん」


 ガチャリと玄関の扉を閉め、『姫穂ちゃん』はお家の中へと入って行きました。去っていく彼女の背中はなんだか嬉しそうでしたが、反対に玄関の前でたたずむ彼は、何か思いつめた様子で、しばらくそこに立っていました。


 「……」


 じーっと、閉まった扉を見る『周輝くん』。どうやら誰かの助けが必要みたいなので、私が手を貸してあげることにします。


 「こんばんは、姫穂ちゃん。それとも、今は周輝くんと呼んだほうがいい?」

 「あっ、寧々香ねねかちゃん……!」


 

 「私が丁寧に教えてあげる。あなたの……その感情が何なのか」

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