第四十六話 知恵の輪 5/5

 ゾルムス・アルダー少佐については正確な記録がほとんどない。従って人物像を詳らかにする決定打に欠けるわけだが、後期ベーレント軍、すなわち「月の大戦」開戦後にドライアド大陸に展開した部隊章を持つベーレント軍の幕僚名簿に常にその名が上がっている唯一の人物である事は間違いない。

 ベーレント軍はその成り立ちと経緯から幕僚の入れ替わりが非常に激しい。もとより戦争の混乱の中でどれほど正確な幕僚名簿が更新されていたかは大いに疑問であるが、現存するその記録には全てゾルムス・アルダーという名が上がっているのは事実である。

 年齢は不詳ながら当時で既に五十歳を超えていたとする説が有力であるが、アルヴの血が入っているために年齢よりは若く見えたという。

 アルダーという族名を辿っても、ファランドールの歴史には彼に通じる有力な手がかりは見つからない。つまり貴族でもなし、著名な軍人の家柄の出でもないと考えるのが普通であろう。

 不思議なのは、食客として幼少期から青年期までの長い時間を過ごしたはずのキャンタビレイ家にも彼の背景に関する記録がほとんど無いことである。有名なキャンタビレイ文庫にある膨大な記録にはもちろん、丸めて捨ててあったような反古(ほご)にさえゾルムスの過去にまつわる情報はない。

 これが何を意味するのかは定かではない。ただ、そうなると歴史好きの人間は様々な妄想を抱くものである。曰く、戦争孤児などの身寄りの無い赤子を育てたという説、曰く、ガルフ自身の血を引く非嫡出の子あるという説、果てはフォウから訪れた異世界人であるという説、等々である。

 もとよりゾルムスは歴史という舞台に於いては派手な役者ではない。ヘルルーガ・ベーレントという強い個性を持つ媒体に隠れて紛れて、相当に希釈された存在だと言っていい。だが、ガルフが指名した人物であり、最後までヘルルーガ将軍と行動を共にした幕僚である。どちらかと言えば猪突猛進型の性格であるヘルルーガが、ドライアド大陸に於いては「らしくない」戦いを何度もしている事から、幕僚である彼が凡百な戦略家・戦術家でないことはうかがい知れるのだ。


 なお、この時には既にゾルムスはヘルルーガにとって極めて有能な補佐官という地位を勝ち得ていた。ただし、それぞれ部隊を率いていた司令官の手前もあり、幕僚としては末席という位置に変更はなかった。それは能力主義を徹底するヘルルーガの主義に反する事ではあったが、ゾルムス自身の強い進言を受け入れる形で、不承不承ではあるが受け入れる事にしていた。

「将軍の主義はご立派です。しかし我々にとって今は特殊な状況にあります。主義を貫くより前に寄せ集めた部隊を最も効率よく動かして、目の前の戦いに勝つことが最優先のはず。その為の小官の基本的な立ち位置は将軍からもっとも遠い場所だというだけです。彼らが将軍の顔を仰ぐ時に私の姿がその視界に入ってはならないのです。なに、竜巻部隊を再編成する時には、小官のささやきですら閣下にはよく聞こえる位置に置いていただけるようには努力いたしますよ。色々な意味でね」

 司令官同士にはお互いの間にそれなりの敬意が存在する。

 ドライアド軍とは違い、シルフィード軍には相手……この場合は自軍の言わば仲間のことであるが……を出し抜くなどという考え方はない。しかし、軍を率いて最前線で剣を振るった事のない下級左官を自分達と同列と見なす程柔軟で鷹揚な性格を有していないのもまた確かである。

 将軍にノッダから連れてきた補佐官がいるのはいい。だがその人物が自分達より将軍に近い位置にいる事を認められない可能性の方が高いということである。

 だからサラマンダに上陸する前に、ゾルムスはヘルルーガに強くそう進言したのである。


 少佐という高位の階級章を持つゾルムスだが、作戦で小隊の指揮を執ったことはあっても、今までに独立した自らの軍を率いた経験はなかった。

 師であるガルフはゾルムスにはリーン・アンセルメとは違い、補佐官ではなく司令官の資質を見ていたのだが、本人はその役回りに興味を示さず、定石と言われる戦術を再構築し、新たな可能性を探る作業に傾倒していた。

 要するに奇策好きなのだ。

 だがゾルムスがいわゆる机上の空論を主張する、ただの頭でっかちの秀才と明らかに一線を画すのは、彼は自分自身のそんな嗜好を客観的に捉える事ができていたということである。戦場に於いて司令官が独創的な戦術ばかりを唱え、強引にそれを実行に移していたらどうだろう? たとえ戦いに勝利しても大規模な軍隊を制御し続ける事は難しい。そこには必ず人間関係が存在するからだ。だから彼の奇策は「ここぞ」という場合だけでよいのである。言い換えるならば、そういう「ここぞ」という時の為に彼は自らの才能を捧げていたのである。

 しかしひとたび司令官という立場になってしまえば、ゾルムスは自らの欲望を封印したまま作戦の指揮を執らねばならない。兵をただのコマ、道具と捉えるならば独裁的な軍事行動もできるのであろうが、彼はそういう人間ではなかったのだ。しかしやや偏った性格を持っていたとされるゾルムスにとって、その立ち位置を維持する事は水中に身を置くのと同疑義である。つまり息をするなと言われているようなもので、拷問に等しい。

 ガルフはそんなゾルムス・アルダーを「立派な」指揮官にする事をあきらめると、尉官に昇進した機に海軍に入れた。送り込んだ先は海戦に於ける「定石の生き字引」と呼ばれる老元帥の末席幕僚という立場であった。

 海戦は陸上に於ける戦いとはまた違う能力や思考力を求められる。陸軍と海軍では価値観もかなり違うともされている。ゾルムスにとっては新たな世界とも言える海軍で揉まれることで彼自身がどう変化するか、あるいは変化しないのかをガルフは期待を込めて観察することにしたのである。

 ゾルムスを託した老元帥の名はトルマ・カイエン。以来、彼はカイエン元帥直属の参謀という身分のままで、出向扱いとして幾人かの指揮官の幕僚を歴任していた。

 そしてアプサラス三世崩御の直後にゾルムスはいったんエッダのカイエン元帥の下へ戻り、そのまま休暇の申請をして受理されていた。

 もちろんノッダ行きは何らかの方法でガルフ、いやリーンからの招集がかかったからに違いない。どちらにしろ、大葬の前にゾルムスはすでにノッダ入りしており、ラクジュ街道の戦いに際しては海岸線に出たイエナ三世一行を引き上げるノッダ艦隊の旗艦に搭乗していた。

 長く海軍にあって、ゾルムスは奇策と定石との境目を埋める手法を見い出しただけでなく、海軍と陸軍との有機的な軍事展開などにも一家言を持つようになっていた。言葉にするとたやすいが、要するに味方には奇策と映らず、敵にとっては奇策としか思えぬような、そんな作戦の遂行方法を編み出していたのである。



 そのゾルムスが待機命令を全軍に伝え終わって本営に戻ってきた。少し時間がかかったのは命じられた以上の仕事をしてきたことを意味すると考えていいだろう。

 入り口に垂れ下がった幕を上げ陣内に一歩踏み込んだとたん、ベーレント司令官といきなり目が合った。

 一目でそれとわかるヘルルーガの不機嫌そうな顔を認めたゾルムスはしかし、いっさい表情を変えなかった。

 彼は瞬時に自らの役割を理解したのだ。

 用意していたいくつかの奇策のうち、最も有効なものを提案するべきはまさに今なのだ。しかし彼がやるべき事は単にその作戦を口にすることではない。現状に沿った、極めて合理的と思える理由という名の皿の上に、その料理を美しく盛りつける器量が求められていた。

 報告を終え、ヘルルーガの表情と周りの幕僚達の様子を一通り見渡すと、ゾルムスはのんびりした口調で、こう付け加えた。

「そう言えば、夕食には久しぶりに新鮮な魚が出るそうです。打ち合わせが煮詰まっているようでしたら、少し早いですが食事になさってはいかがでしょうか、ご一同?」

 ヘルルーガはその言葉を聞くと、目を細めた。

 そしてガルフから預かった「知恵の輪」の表情を、探るような瞳でじっと見つめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る