第三十五話 月白の森羅(げっぱくのしんら) 3/5

 件の賢者は自分の容姿や目印については一切触れていなかったとエルデは言った。つまりそれは相手がエルデを知っている事の証明とも言えた。

 辿り着いたその「一番賑やかなカフェ」のテラス席にはそれらしき人物はいなかった。

「新しく設置された怪しい精霊陣はたぶんなし。妙なエーテルを垂れ流しているヤツも店の中にはいてへんと思う」

 エルデがそう言うので、二人は店内へと進んだ。

 外の席と違い、店内には数カ所空きがあった。それも昼食時には埋まってしまうだろう。素早く店内に目を走らせたエイルは、一人でワインを飲んでいる黒ずくめのデュナンの女に目をとめた。

 濃い金髪と灰色がかった青い目をした若いデュナンの女は、その目をまっすぐエイル達に向けていた。

 それが目的の相手である事は、ほぼ間違いなかった。

 例の存在感を消すルーンで身を包んだ二人を、迷い無く特定出来る人間はそういない。まるでそんなルーンなどかかっていないかのようにその姿を捕らえる事ができるのは、相当に高位のルーナー、たとえば賢者でも上席や次席の地位にある者でなければ困難なのだ。

 二人は無言のまま黒ずくめの女の席へ向かい、そして微笑で勧められるままにテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろした。

 黒ずくめの服を着た女賢者は、やや吊り上がった大きな目を持つ、結構な美人であった。一見するとエイルやエルデ達よりも年上に見えた。二十代の初めいったところであろうか。化粧が薄いのは、元々の肌に艶があり、頬の血色も良いからであろう。整った顔に小ぶりな鼻の取り合わせが、つり上がった目を持っているにもかかわらず、冷たい印象を遠ざけていた。

 若いデュナンの女性が好む耳飾りや首輪などの装飾品の類はほとんど無く、唯一白く輝く三日月型のリリスの首飾りが胸でゆれているだけであった。


「これは驚いたな」

 二人が席に着くとすぐに相手が口を開いた。

「こんな美人は初めて見るよ。しかも瞳髪黒色とは二重の驚きだ」

 黒ずくめの女は、まるで少年のような言葉遣いでそう言った。

 エルデはその言葉を聞いても、目を細めただけで、口を開こうとはしなかった。

「なるほど。自分からは名乗らないぞという態度だね。用心深いのはいいことだ。では私から先に名乗る事にしようかな」

 黒ずくめのデュナンの賢者は、そう言うとテーブルの上に左の拳を突き出して、それをゆっくりと開いた。そこには小さなスフィアが赤い光を鈍く放っていた。

「初めまして。私の名は《月白の森羅(げっぱくのしんら)》 もちろん正教会の賢者の一人だよ」

 それだけいうと、スフィアを握り締め、そのまま手を引いた。

 じっとスフィアを見ていたエルデは、相手の名乗りを聞いて初めて口を開いた。

「《月白の森羅》」

 そう言うエルデの表情を見れば、それが既知の名ではないとエイルにも想像がついた。エルデが知らない名という事は、エルデが知りうる最新の名簿が作られた後に「授命の儀」を受け賢者の名を得たものであろう。

「大丈夫」

 怪訝な顔をしているエルデに、《月白の森羅》はにっこりと笑いかけた。

「あなただけじゃない。私の名前を知っている人はほとんどいないから。でも本当に賢者だから信じてよ」

「余は全ての賢者名を知る者だ。そこには《月白》などという名はない。もう少しマシな嘘をつけ、この痴れ者」

「あらら……。これは驚いたな」

 エルデに指摘されても《月白の森羅》は悪びれずにそう言って、大げさに肩をすくめて見せた。

「だから私は新しい賢者なんだって。言ったでしょ? 私の名前を知っている人は『まだ』ほとんどいないって」

「『まだ』とは言ってない」

「あ、そういう細かい事を言う人なんだ。だったら聞くけど『賢者』って何さ? 賢者の定義って?」

「定義だと?」

「私は賢者の徴をちゃんと持っている」

「精杖ではなく、裸で持っている賢者など聞いた事がないがな」

「精杖に入れなくちゃいけないという決まりはないよ。精杖を持ちたくても持てない理由があるのさ。じゃ、二つ目の定義は?」

 尋ねられたエルデはしかし無言だった。

「三眼である事、だね。賢者ならあの眼を持っていないとね」

《月白の森羅》はそう言うとニヤリと笑った。


 この瞬間は何度見ても妙に落ち着かなくなる……エイルは《月白の森羅》と名乗る自称賢者の額に現れた三番目の眼を見てそう思った。

 真っ赤な目。三番目の眼の出現と同時に全ての眼が血のように赤く染まるのだ。

 今では閉じることができなくなってしまったエルデの眼を普段から見ているから、とうに慣れているはずであった。

 しかし、エルデの三番目の目はラウやその他の賢者のそれとは根本的に違うのだ。

 エルデの眼の場合、その瞳が赤いのは額の一つに限る。後の二つは普段のままで、額の眼さえ隠せば面変わりはない。しかし普段の両の眼まで真っ赤に変化すると、それはもう別人に見えてくる。

《月白の森羅》も、その瞳が全て赤く変化したとたん、いきなり凶悪な人物に見えてしまうのだ。

 だが、《月白の森羅》がただ者ではないということはそれだけでわかった。なぜなら三眼になった瞬間、周りのエーテルが温度を失う。通常はそうなのだ。エルデの場合は顕著で、文字通り瞬間的に氷点下になったと思うほど劇的に変わる。だが目の前の賢者は三つの赤い瞳を晒したにもかかわらず、周りの空気を全く変化させることはなかった。つまり、自分の力を完璧に制御出来る力を持っているということに他ならない。

「さて、改めて尋ねよう。賢者の定義って、一体なんだ? 賢者会の名簿に名前が載っている事かい? 君が知っている名前である事かい? それとも『授命の儀』を受けている事、かな?」

「ネッフル湖の解呪士とやらの居所を知りたい」

 エルデは《月白の森羅》の話には乗らなかった。

「あら。そんな名前は知らない、なんて因縁をつけてきたのはそっちでしょ? ちゃんと相手してくれないと私がバカみたいじゃないか」

「お前が賢者であろうが無かろうが、こちらにとってはどうでもいいこと。我々はその解呪士に会いたいだけだ」

 相手に敵意がない事は、エイルにもわかっていた。当然エルデもそう感じたに違いない。だから、踏み込んでいるのだろう。


 エイルはそれとなく辺りに気を配っていた。殺気があればすぐにわかるが該当する存在はない。視界にそれらしき仲間の姿もなかった。もっともルーナーであれば気配を消すルーンはもとより、その気になれば姿を消すルーンさえ使う事ができるのだから、有視界域の確認に意味があるとは思えなかったが、やらないよりはましというものだろう。

 そうやってエイルが辺りの気配を伺っていることを、エルデは認識していた。出会った当初からエイルが持っている特殊な能力をエルデは十分理解していた。もしエイルが殺気を感じれば、すぐに行動に移すこともまたエルデは信じていた。

 そのエイルが落ち着いているのだ。エイルは目の前の《月白の森羅》と名乗るデュナンの娘に意識の大半を向けることにしていた。

 危険な感じはまったくしない。

 だがキセン・プロットという前例が、エルデを必要以上に臆病にしていた。ましてやほんの三ヶ月前にかけがえのない大事な仲間を失った事が微妙にエルデの行動を変化させていたことも否めないだろう。

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