第三十二話 エコー・サライエ 4/5

 そんなことを考えているさ中、エコーはかわいらしい音を聞いた。

 ニームの腹がちいさくグウ〜っと鳴ったのだ。

 沈黙がその場を一瞬だけ支配した後、お約束のようにニームは立ち上がり、言い訳をした。

「こ、これは別段恥ずかしいものではないぞ。内臓が、胃が、活発に活動をしている証拠だ。つまり私は元気だという証明でもある」

「わかったわかった。そんなことを偉そうに言うから意味不明な子供だと言われるんだ」

「私の事を子供扱いするのはお前だけだ。しかも意味不明とは何だ、意味不明とは」

「わかったわかった。さて……」

 そう言って腰を浮かしかけたシーレンに、エコーはおそるおそる声をかけた。

「あの」

 シーレンの動きが止まり、緑色に輝く二つの瞳がエコーに向いた。

 ニームも大きな茶色い目で同じくエコーを注視した。

「ご、『ご朝食』が『おまだ』でございましたら、ご用意『させていただきますでございます』ですが?」


 自分でもそこまで緊張しているとは思わなかった。はっきり言えばエコーは自分がどういう言葉を口にしたかすら耳に入らない有様だったのだ。

 ただ簡単な朝食ならあっという間に用意できると言いたかっただけなのである。

 しかし「賢者」とその「供」である。

 エコーの知識では賢者は正教会の一番偉い人よりもさらに偉い人だという程度のおぼろげな位置関係しか持っていなかった。それがどれくらい「偉い」のかはまさに「計り知れない程」だと感じていた。つまり漠然としたものだけである。そしてそんな賢者と対等、いやエコーの見たところ明らかにニームを見下したような態度をとる「供」のシーレンも相当な地位にある人物であるとしか思えなかった。


「そう緊張するな」

 シーレンが複雑な表情で先に声をかけた。

「は、はい……」

 エコーは消え入るような声でそう答えると、真っ赤な顔を下に向けた。

「娘よ、お前は確か『オジョウ』といかいう名であったな?」

 これはニームである。

「え?」

 エコーは思わず顔を上げたが、訂正役はシーレンであった。

「まったく世間知らずのお子様はこれだから世話が焼ける。いいか、『お嬢』 というのは名前ではない、一般的には普通名詞の一種だと言っていいが、あだ名と呼ばれる類のものとして使用されることも多い呼称だ。要するにあのデュナンの娘から見るとこの娘が上位にある場合に用いられる名称だ。要するに『お嬢様』という言葉がくだけたもので、庶民語の一種だと理解しろ。しかし、そんなことも知らぬとはな」

「お前はバカか? 私とてそれぐらい知っておるわ」

「何だと?」

「お前こそ相変わらず無粋なヤツだな。私はこの娘をからかってみただけだ。言ってみれば軽口を使うことでこちらに敵意はないどころか親愛の気持ちがあるのだということを示したのだ。そもそも『お嬢』が『お嬢様』の略でなくて何の略なのだ? ドジョウの上位版か? それはウナギだろうが。これだから剣と弓矢以外に友のいない武人は愚かしいと言われるのだ」

「よく言った。表に出ろ。そのこしゃくな口を頭ごとムダに発達した胴体からサックリと切り離してドジョウとウナギの餌にしてやる。だが案ずるな。私にも情はある。痛くはしない。一瞬だからな」

「そっちこそよく言う。私を誰だと思っている?」

「素っ裸同然で外を歩く、頭のおかしいただのチビだ」

「チビはチビでもただのチビではない。いや、そうではない。私の事をチビと言うな! と言うか、姿を見せるつもりがなかったから寝間着のままで外に出たのだ。素っ裸ではない。確かに透けてはいるが……。って、ああ! 確かに結構透け透けじゃないか? いや、そうじゃないそうじゃない。いいか、シーレン? 私がこの結布に触れたとたん、お前は眉一つ動かせなくなるのだぞ? その後、着ている服を全部剥ぎ取り文字通り素っ裸にした後で、このデュアルの娘と二人で体中を思う存分まさぐり……ではなく、くすぐりまくってやる」

「ほう。お前こそ私を誰だと思っている? その手が結布に触れた時にはお前の目は私ではなく空しか見てはいないだろうよ」

「ふ。試す勇気もないくせに」

「よく言った。望むところだ。不用意にアルヴィンを徴発するという事がどういう結果をもたらすかをその身をもって知るがいい」

「ならば三つ数えろ。その間だけ待ってやる。三つ数える間に我が強化ルーンがいかに堅固なものかを思い知るがいい。そしてその後我がルーンで空間に貼り付けられたまま、私に足の裏や足の裏や足の裏を思う存分くすぐられ、お前は耐えきれず私にこう懇願する。『いっそ殺してくれ』とな。だが心配は要らん。殺しはせん。気を失うまでくすぐってやる。気を失ったら覚醒させ、さらにくすぐり続けてやる」

「貴様というヤツは……」

「どうした、怖じ気づいたか?」

「いや、自分の弱点を自ら晒し出すとは本当に愚かなヤツだと言いたかっただけだ」

「え? 足の裏は誰でも弱点であろう?」

「お前が足の裏をくすぐられた時の喜び方は異常な程だぞ」

「だ、誰が喜んでいるものか、アレは」

「わかったわかった。ちょうどいい機会だ。お前には一度きちんとしたしつけをしてやらねばと思っていた。今すぐ表に出ろ」

「よく言った。一つたずねるがお前は蛮勇という言葉を知っているか?」

「ち、ちょっと待って下さい」


 会話の内容が思いの外険悪な雰囲気になってきたので、エコーは慌てて二人の間に割って入った。

「心配するな。お前の部屋を汚さぬよう、コイツの首は外に出てからハネてやる」

「そうだな。体中をまさぐられてお前が悶絶する際、あふれるよだれでこの娘の寝具が汚れるのを見るのは私も忍びない。むろん外でやらせてもらう」

「いえ、そうじゃなくて……」

 エコーはとっさにあたりを見渡した。見渡すと言っても馬車の客室を改造した狭い部屋だ。一目で全てを把握できるし、そもそも目を閉じていてもどこに何があるかは分かっているのだ。だが、人間というのはそれでもとっさの時には無駄な行動を取ってしまうものなのだ。

 だが、その一見無駄に見えた行動は、結果として無駄にはならなかった。部屋の隅に設(しつら)えたテーブル代わりの小さな台の上に置かれてあった夢のようなものを発見したからである。

 それはエコーがすっかり忘れていたもの……というわけではなかった。最近はむしろずっと頭の中の多くの部分を占領していたものだった。カノンに対する心配や、ここまでの一連の騒ぎで一時的に失念していたに過ぎない。

「こ、こ、こ」

「こ・こ・こ?」

 今にも恐ろしい戦いがはじまるのではないかと焦り、言葉がうまく出ないエコーを見て、ニームとシーレンは顔を見合わせた。

「これをどうぞ!」

 手を伸ばせば届く小さなテーブルの上から、エコーは陶器製の小瓶を取り上げると、それを両手で恭しくニーム達に差し出した。

 ニームとシーレンは、エコーの唐突な態度に再び互いに顔を見合わせた。

 思い切り眉尻を下げるニームに、シーレンは小さく首を横に振った。おそらく「これは何だ?」と問われ、「私にも分からない」と答えたのであろう。

 要するに二人は表情である程度の会話が出来る程の人間関係ができあがっていたのである。つまりエコーは二人のケンカを真に受ける必要などなかったのだ。

 エコーとてこれが普通の人間の口げんかであれば笑って成り行きを見守っていたに違いない。だが賢者という言葉はエコーのあらゆる常識と感覚と思考回路をずたずたに分断させるのに充分な力を持っていたということなのである。

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