第二十九話 勝者なき戦い 4/7

 それはほんの一、二秒のことであった。アプリリアージェは自らが置かれている状態を掴んだ。つまり、もはや戦闘力を失った事を認識したのである。

 あとは風のフェアリーとしての力だけであるが、この状態でシーンに雷を落としたとしても、助からないのは自分の方だと言う事もわかっていた。要するに八方ふさがりだった。

「すぐに投降していれば痛い目を見ずに済んだものを。私も手荒な事はしたくはなかったんだが、お前はいささか強すぎる。悪いが動きを完全に封じさせてもらった」

 シーンの言うとおり、アプリリアージェは自分の怪我が相当ひどい事を自覚していた。良くて肋骨が数本と脊椎の単純骨折。最悪の場合、自分の力では二度と立ち上がる事すらできないかもしれない。いや、その可能性の方が高かった。動こうとしても背中の痛みでどこにも力が入らないのだ。首が動かせる事がせめてもの救いだったが、それも誰かに頭を掴まれたままムリに曲げようとしているような重さがあった。しかもそうやってむりやり首を動かそうとするだけで、意識が遠くなる程の痛みが背中に伝わっていくのだ。

 気がつくと、アプリリアージェは自分が涙を流している事に気付いた。涙だけではない。涎と鼻水も顔を伝っているのがわかった。だが、それさえももはや自分の意思ではどうしようもなかった。

 だがそんな状況においても、何よりも重要な事は忘れなかった。息を呑み、思い切って再度首を曲げる努力をした。激痛に耐えながら、テンリーゼンが戦っている音がする方へ顔を向けた。

「リーゼ、逃げて!!」

 大きな声は出せなかった。声を出すこと自体が背中に激痛を生じさせ、意識を奪おうとするからだ。だがアプリリアージェには風のフェアリーの特性がある。小さな叫びは、まっすぐに、そして明瞭にテンリーゼンに向けて放たれたはずであった。


 テンリーゼンはまだ戦っていた。いや、アプリリアージェと同じく一方的な攻撃をひたすら続けていた。

 だが、アプリリアージェの目にも限界が近い事がわかった。もはやいつものテンリーゼンの速度ではなかったのだ。

 離脱が遅い。

 突き出す剣の軌跡が読める。

 今も危うく敵の手がテンリーゼンの服に届きそうだった。

「私にかまわず、あなただけでも逃げろ!」

 それだけ叫んだところで、頬に衝撃を受けた。

「ぐ……」

 再び頬を平手で打たれたのだ。

 無理矢理首を動かされた衝撃が背中に伝わり、アプリリアージェは激痛に耐えきれず、意識を飛ばした。


 アプリリアージェが呼びかけた事で、それまで敵に集中していたテンリーゼンの意識の一部がそちらへ向いた。倒れた状態で敵に組伏されている司令官の姿が視界の端に移った時、テンリーゼンの動きがほんの一瞬鈍くなった。

 そこを相手は逃さなかった。

 ほんの半歩の差で、テンリーゼンは伸ばした相手の手から逃れる事ができなかった。

 テンリーゼンの右手から剣がこぼれ落ちた。握りつぶされたかと錯覚するほどの握力に、非力なアルヴィンは抗う術がなかった。

 テンリーゼンを逃がすためのアプリリアージェの叫びは、皮肉なことにまったく逆の結果を導いた。

 もがくテンリーゼンの動きを止めようと、筋力を強化されたルーナーは掴んだ手を引き寄せ、自由になる左手から打ち付けられる剣をものともせずにその手も封じると、そのまま両腕を掴んで後ろ手に引き上げた。

 無理矢理に曲げられた肩や関節には相当な痛みが走ったに違いない。だが仮面をつけたテンリーゼンの表情は外からはわからなかった。もっとも仮面をとったとしても、入れ墨と化粧で隠された顔から、苦悶の表情は読み取れなかったであろう。

 なおも暴れもがくテンリーゼンの動きを封じる為、相手のルーナーは、まずはその行動力を削ごうと考えた。すなわちシーンがアプリリアージェにしたように、テンリーゼンを地面に叩きつけて潰そうとしたのだ。そうなれば体の損壊は避けられない。即死すればそれもよし、少なくとも行動力は大幅に低下する事は間違いないだろう。


 相手がそんな思惑をもって後ろ手でテンリーゼンを持ち上げたその刹那であった。テンリーゼンの拘束が突然解かれた。

 何かが起こったのだ。

 両手に自由が与えられ地面に放り出された格好のテンリーゼンは、とりあえず全力でその場を離れた。

 その時になってようやくテンリーゼンの耳は馬の蹄の音を認識した。それも複数の。

 全てを把握するには時間が短すぎたが、テンリーゼンはおそらく半分程度はその場で今起こった事を認識していた。

 横合いから槍が、それも炎に包まれた大きな槍がテンリーゼンを拘束していた男の側頭部に当たったのだ。

 相当な威力で当たったのだろう。敵はその反動でテンリーゼンを掴んでいた手を離し、そのまま数メートルは吹き飛ばされていた。

 その勢いと飛来した方向から判断して、槍は蹄の音の持ち主、もちろん馬ではなく騎手が放ったと考えられた。

 同時に炎に包まれていた理由もすぐにわかった。

 馬に乗った新手は、火矢を使って付近を焼き始めていたのだ。


 テンリーゼンは安全な距離が確保出来たと判断すると、敵から見えない位置に体を隠し、至る所で炎を上げ始めた付近の状況を把握する事につとめた。退路を見つける為、そして行動範囲を把握する為に、である。

 同時に新手に注意を払うことも忘れなかった。

 槍が敵を狙ったものなら、馬上の新手は味方だという事になる。

 だが、その可能性がテンリーゼンには思い浮かばなかった。

 理由は簡単だ。エルミナにテンリーゼン達の味方がいる可能性などはないからだ。

 だとすれば、さらなる敵の出現になる。

 あの状況で敢えて攻撃を仕掛けてくるという事は、すなわち新教会以外の勢力と考えるべきであろう。

 そしておそらく目的は同じ、エルネスティーネの身柄の確保、あるいは殺害。

 なぜエルネスティーネの居場所が複数の陣営に特定されていたかは謎だが、今目の前で起きている事実からはそう推論するしかなかった。

 炎が勢いを増し始めた林の中で、テンリーゼンは敵と、そして新手の動きに注意をしつつ、懐剣を手にアプリリアージェの様子が確認できる位置へ移動した。

 情勢は、ほんの少し前と比べても大きく変わっていた。

 風向きのせいもあり、煙が視界を遮っていた。アプリリアージェの姿は有視界にはない。気付けば想定していた退路すら、煙の中に紛れ始めていた。

 事態は一刻を争う状況と言えた。テンリーゼンは決断する必要があった。

 選択肢は四つあった。

 アプリリアージェを助けに行くこと。

 アプリリアージェをここに残したまま、ファルケンハインの加勢に行くこと。

 どちらへも向かわず、エルネスティーネの側へ戻ること。

 そしてこのどさくさに紛れ、一人でこの場から逃げ去り、生き延びることである。

 生き延びる可能性が最も高い選択肢は、もちろん即座に一人でこの場を後にする事であろう。

 たとえアプリリアージェを助けに行ったとしても、アルヴィンの力で動けないダーク・アルヴを背負い、火の海を脱出する事が果たしてできるだろうか?

 テンリーゼンは考えた。

 アプリリアージェであれば、おそらくこう言うだろう。 「一人で逃げろ」と。

 そしてテンリーゼンとアプリリアージェが逆の立場であったとしても、テンリーゼン自身、アプリリアージェに対しては、きっと同じ台詞を口にするに違いない。

 つまり、アプリリアージェを助けるという作戦は、最初に淘汰すべき選択肢である。

 だが……。

 テンリーゼンは懐剣を握り直すと大きく息を吸いこみ、火勢が増した場所へ飛び込んだ。

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