第二十九話 勝者なき戦い 1/7
エルネスティーネは意識をなくしたティアナの背中を抱いていた。
視線の先には後ろ手に親指の付け根同士を簡単に拘束した紐があった。しっかりと結ばれてはいるが、それでも紐の端を引けば簡単に解けるような縛り方だった。
それはいざとなれば、すぐに拘束を解くことが出来る事を意味している。
ファルケンハインはエルネスティーネにティアナを託したのであろう。
今起こっている事、そしてつい今し方、自分の身に起きたことをエルネスティーネは正しく把握し、自分の立場を理解していた。
突然目の前に仁王立ちになったティアナ。その手に握られた懐剣が首筋に振り下ろされるのを、エルネスティーネはしっかりとその緑色の瞳で見ていたのだから。
「その時」は体がまったく動かなかった。だが、意識は冴えていて、自分の周りで起こっている事は、その細部までしっかりと記憶していたのだ。それはまるで時間の流れが普段の数分の一、いや数十分の一になったかのような感覚だった。
ティアナの懐剣は、エルネスティーネの頸動脈の辺りに正確に振り下ろされた。だが、剣先が首に触れるか触れないかといった微妙な位置まで降りた時、エルネスティーネの懐から強い光が放たれたのだ。
その光はエルネスティーネ自身にはなんの変化ももたらさなかったが、ティアナに対しては大きな反発力を見せた。
ティアナをはじき飛ばしたのだ。
光がティアナに圧力を与えたと言った方が理解しやすいかもしれない。
どちらにしろティアナはその光により意識を失い、エルネスティーネはその光により剣先が首に届くのを防いでもらったのである。
これまでの人生で最大の危機と言える瞬間を、未知の力により回避出来たエルネスティーネはその直後、頭を巡らしてエルデと、そしてエイルの姿を探した。何かの予感を覚えて外に出てきたのかと思ったからだ。
だが、ファルケンハインから手渡されたティアナの懐剣を見て、エルネスティーネは自分を守った光の正体を理解した。
ティアナの懐剣の柄に刻まれた桜花星のクレスト。それがぼうっと光っていた。それを見て、エルネスティーネは自分の懐に手を入れた。
取り出した懐剣。ミエリッタの証しとして一度はエイルに託したそれは、ティアナのものとおそろいの形をしていた。同じ時、同じ刀工によって作られた双子のような懐剣。
そのエルネスティーネの懐剣の柄が、ティアナのものと同じように鈍く光っていた。
まばゆい光芒を放ったのはその柄に違いない。
正確に記すならば、光っていたのは柄ではなかった。ティアナの懐剣の柄に描かれた桜花星のクレストが光っているのと同様に、エルネスティーネの懐剣の柄にも、クレストが浮かび上がっていた。それは桜花のクレスト……すなわちカラティア家のクレストが光の線で描かれていたのだ。
ティアナの者と違って、エルネスティーネの懐剣にはクレストはおろか一切装飾は施されていなかったはずである。他人に見られた時に持ち主の正体がわからぬようにと、アプサラス三世が敢えて何の文様も徴も刻ませず、用意させたものだったのだから。
だが、今確かにカラティア家のクレストが光っていた。
その意味を、アプサラス三世が二振りの懐剣に隠した力を、エルネスティーネは今こそ知ったのである。
「父上……」
アプサラス三世の死後、エルネスティーネは様々な情報を得ていた。父親の死には陰謀の色が濃く影を落としているのは早期に知っていたし、ヴェリーユでカテナと対峙した際に、疑惑は確信に変わった。
そしてエイルやアプリリアージェ達がそうであったように、エルネスティーネ自身もティアナという特殊な存在にとうに辿り着いていたのである。アプリリアージェ達とエルネスティーネの違いは、ティアナが特定の言葉で植え付けられた命令を機械的に実行するという「からくり」を知っているかいないかであった。
だがエルネスティーネはティアナに対して接する際に何ら身構える事は無かった。ティアナがサミュエル・ミドオーバにとってどういう存在であったとしても、エルネスティーネにとってのティアナという存在は、少なくとも彼女の中では変わることがなかったのだ。
そしてエルネスティーネのティアナに対する信頼と友情は、事が起こってしまった後でもまったくぶれることはなかったのである。
それこそがエルネスティーネの持っている類い希な強さであると、もちろん本人は知るよしもないだろう。
エルネスティーネの気持ちは、起こってしまった事に対してではなく、まずは自らを守ってくれた人へ向かった。
(私達の事を知っていて、そしてちゃんと守って下さったのだ)
亡き父王が、どんな思いで二振りの懐剣を用意させたのか……それが今のエルネスティーネには痛い程よくわかった。
自分が父の立場であったとしても、おそらく同じようなことを模索したであろう。
アプサラス三世は、サミュエルの息がかからぬ場所で二つの懐剣を作らせていた。
それはすでにサミュエルを疑っていたからであり、エルネスティーネ暗殺の可能性を想定していたからこそ出来る準備であったろう。
二つの懐剣には、それを携える者同士に何らかの敵対が起こったなら、あるいは片方が片方を攻撃しようとしたなら、その時初めて排除の力が発動するように、ある種の呪法か、あるいはルーンの精霊陣が封じ込められていたのだろう。
そしてたとえサミュエルが手にしたとしても気付かれないほど、それは巧みに仕込まれていたのだ。
エルネスティーネは自分の懐剣を胸に抱いた。
懐剣自体を鍛えたのは行方不明だとされているファルケンハインの父親だということをエルネスティーネは知っていたが、そこに「しかけ」があろうとは今の今まで知り得なかった。従ってその「しかけ」を一体誰が行ったかまでは見当がつかない。だがこれほど高位の「仕掛け」を施せるルーナーはさほど多くないことは簡単に想像できた。
サミュエルが気付かないだけではない。亜神であるエルデでさえ、気付かなかったのだ。ミエリッタの証しとして一度はエイルに託した懐剣である。そこに何かが施されていたとしたら、興味を示して尋ねて来るなりしたはずだ。
いや、気付いたからこそ、出発の時に返したのかもしれない。この懐剣はエルネスティーネにとって大切なお守りなのだということを知ったからこそ、エイルに進言した可能性はあった。
エルネスティーネは、エルデとエイルを今すぐに、ここでもう一度抱きしめたいと心から願った。だが、エルネスティーネは状況を把握していた。今はそんな感傷に浸っている場合ではないことを
手にした二振りの懐剣を鞘に収めて懐にしまうと、エルネスティーネはティアナの指を拘束していた紐を解いた。そしてその背中を強く抱きしめながら、敵に向かっていった元ル=キリアの精鋭三人へ視線を向けた。
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