第十六話 黒(アイリス)の少年 2/5

 港を離れたエスタリア船籍の快速軍船はいったん外海に出て東に進路を取ったが、半日程して小さな港へ寄港した。どうしても必要だからと、とある食材を得る為にベックが寄港をねだったという、ラスダという名の漁港であった。

 下船したのはベックだけで、彼が戻るまでのほんの数時間の寄港予定であった。

 一行はベックの帰りを、つまりは再出港を待ちながら、思い思いの場所で時間を潰していた。

 出航前に船室のベッドに倒れ込むようにして横になったエルデは、自室でそのままの姿で規則正しい寝息を立てていた。

「入るよ」

「ええ」

 船室の外からの声に、エルデのベッドの横にいたエルネスティーネが小声で答えた。

「どこに行っていたのですか? あ」

 声の主はエイルだった。

 エルネスティーネはそのエイルが大事そうに抱えてきた物を見て、思わず声をあげた。

「しっ。まだ眠っているんだろ?」

「ええ。目をつむってこうしてると、普段のあのエルデとは思えないですね。本当に奇麗で優しそうに見える」

「まあ、普通の人間から見たら、コイツが色々恐ろしいのは確かだけど、見た目よりはよっぽど優しい奴なんだけどな」

「わかっていますとも」

 エルネスティーネはそういうと、寝返りによってずれた毛布をかけ直してやった。

「サクランボの花、なんですね」

 エルデの服の柄のことを言っているのだろう。寝顔を見つめながらエルネスティーネがそう言った。

「私の気のせいでしょうか? エルデってなんだかサクランボの花の香りがしますね」

「うん」

 エイルは勿論その理由を知っていた。

 だがそれは体臭というよりは、残り香のようなものだった。

 かといって香の類ではない。

 エルデはエイルと同じ体を共有している時から、清潔さを維持するために頻繁に体表の洗浄ルーンを使っていた。

 宿に泊まれる時はいざ知らず、旅先では汗を流すこともままならない。水浴はおろか風呂に入れる日の方が少ない。だからエルデは水浴代わりに洗浄ルーンを使い、老廃物などを全て「焼いて」いたのだ。

 その時の副産物として生まれるのが、サクランボの花の香りに似た匂いである。

 それはかすかなもので、エルデがエイルの体を使っていた時には嗅覚がなかったために気付かなかったのだ。

 だからエルデの体に近づくと、いつでもほのかにサクランボの花の香りがするのだ。だからある意味エルデの体臭だと言っても間違いではないのかもしれない。

 エルデがその事を話すと、エルネスティーネは妙な顔をして胸のあたりをつまみ、くんくんと鼻を鳴らしてそこの匂いをかいだ。

「便利でうらやましいです。ルーナーって」

 エイルはそういうエルネスティーネに笑って返した。

「いやいやいやいや。ネスティは臭くないって」

「そうでしょうか……自分ではわからないのですが」

「ネスティはとってもいい匂いだよ」

「え、本当?」

「本当本当、なんだか森の中にいるような、それでいて甘い、いい匂いだった……って、オレ何言ってんだか」

 エイルは途中で自分がまずい記憶をなぞっている事に気付いて、慌ててエルネスティーネの胸元から目を逸らした。

「私も、あの時はエイルの匂いにくらっとして、頭の奥の方がジーンとしてしまいました」

「いや、だからその話は今はやめよう。な?」

「ふふ。そうですね。でも、エルデが起きたら、二人でお互いの体臭について仲良く感想をかわしていた、という話をしますね」

「いやいやいやいや!」

「お互いにお互いの体臭が大好きだっていう結論に達しました、って……」

「絶対に駄目!」

「なぜですか? 本当の事じゃないですか。それともエイルがさっき言ったことはお世辞だったんですか?」

 エルネスティーネはそういうと悲しそうな顔をしてうなだれた。エイルは慌ててご機嫌をとりにかかった。

「いや、いい匂いだったって。嘘じゃないよ」

 そして、それがエルネスティーネの罠だと知った。

「ふふふ。大丈夫ですよ、そんなに必死な顔をしなくても」

 すぐに顔を上げたエルネスティーネは、そう言っておかしそうに笑って見せた。

「ずるいぞ、騙したな!」

「人聞きが悪いですよ、騙してなんかいません。それよりサクランボと言えば」

「サクランボと言えば?」

「カラティア家のクレストをご存じですか? サクランボの花が意匠なのですよ」

 エルネスティーネはそういうと改めてエルデの寝顔に視線を移した。

「これはこじつけかもしれませんが、サクランボ繋がりなんて、何となく、因縁めいたものを感じてしまいます」

 エイルはカラティア家のクレスト、すなわちシルフィード王国の国旗の意匠を思い出した。さすがのエイルも、各国の国旗は知っている。シルフィード王国のそれは、桜花旗と呼ばれる、サクランボの花を意匠としたものであった。

「そうか、言われてみればそうだな。だったらオレはさらに因縁を感じるよ」

「え?」

「オレの国……フォウで暮らしていた国は、別名サクラの国って言われててさ。あ、こっちのサクランボの花の事をオレの国ではサクラっていうんだけど、何しろ国中にその木がたくさん植えられてて、それが春になると順番に咲いていくんだ。そりゃあ見事でさ」

「へえ……サクランボの花であふれる国、ですか。すてきですね」

「花だけはね」

「微妙な言い回しですね」

「ははは。まあ、そういうわけだから、エルデとネスティの二人ともがサクランボの花に縁のあるっていうのは、オレにとっては結構感慨深いものがある」

「なるほど、なるほど。縁、ですね」

 エルネスティーネは「縁」という言葉を噛みしめるようにつぶやくと、柔らかい微笑を浮かべた。

 エイルはエルネスティーネに微笑で答えると、その隣に腰を下ろし、持ってきた深皿を膝の上に置いた。

「さてと」

 深皿には赤く色づいた大振りの林檎が一つ入れられており、エイルはかけ声と共にそれを取り出した。エルネスティーネはそれを見て、改めて感嘆の声をあげた。

「大きな林檎です。それに真っ赤だわ。部屋に戻った時、やけに機嫌が良かったのは、これを手に入れたから?」

「え? オレってそんなに機嫌が良さそうに見えた?」

「出て行った時とは別人のような、本当に嬉しそうな顔をして帰ってきましたよ」

「ははは。そっか」

 エイルは頭を掻くと、手にした大ぶりの林檎をそっと撫で回した。

「勝手にとってきたらベックに叱られませんか?」

「ちゃんと本人に許可をもらったさ。ちょうど帰ってきたところだったんだ。エルデに何か食べさせたいって言ったら、ベックが樽から選んでくれたんだ。これでもないあれでもないって、結局あいつ、林檎樽を二樽全部、床にぶちまけちゃってさ」

「ああ」

 エルネスティーネは合点がいったようにうなずいた。

「それで戻ってくるのが遅かったのですね。私はてっきり……」

「てっきり?」

「どこかで一人で泣いているのかと……」

「いやいやいや」

「冗談ですよ」

「今日は冗談が多いな。だいたい最近のネスティは悪い冗談が多い」

「困りますか?」

「そりゃあ……」

 エイルはそこで言い淀むと、強引に話題を転じた。もちろん、そこに罠の匂いを感じたからである。取り越し苦労なのか直感が正しいのか、それはわからない。だが怪しいものに近づかない方がいいことを、もうエイルは体で知っていた。

「そうだ。林檎もそうなんだけど、もう一つびっくりすることがあってさ。あ、でもそっちはまだ内緒だな。ま、そういう事でナイフも厨房に手頃なのがあって助かったって事」

 エイルは懐から折りたたみ式のナイフを取り出すと、刃を引き出して部屋の灯りに透かすようにした。

 何の装飾もないクルミ材の柄と、同じく何の変哲もない鋼でできた細身の片刃。ただ丁寧に磨がれ、手入れされている事は、並んで座って同じように眺めているエルネスティーネにもわかった。

「厨房の備品、ですか?」

「うん。切れすぎるから気をつけろって言われたよ」

「ベックに?」

「ああ」

「なるほど」

「あ、ネスティもそう思った?」

「ええ」

 エルネスティーネはうなずくと、嬉しそうにエイルに笑いかけた。その表情を見たエイルは少し顔を赤らめると、慌てて視線を林檎に戻した。


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