第七十八話 新しい地図 1/4
「しかし参ったな」
ニームの言葉を遮ったエスカは苦笑しながら頭を掻いた。
「お前に会ってからこっち、俺は一体何回人生最大の決断を強いられてるんだか知ってるか?」
それは近い将来間違い無く敵となるはずの人間を前にしてとんでもない事を口にした将軍の言葉とは思えない程穏やかで、そして優しげな声色だった。もちろんトルマではなくニームに投げかけられたものだ。それは自らが口にした人生最大の決断と言う言葉に対する照れ隠し、もしくは日常茶飯事の冗談と同格に堕す事によって誤魔化すためのものともとれた。
しかし言葉そのものは冗談ではないことをニームは当然ながらわかっていた。
だがその事についてニームは何も問いかけはしなかった。代わりに少し顔を赤らめて口ごもりながらつぶやいただけであった。
「あなたは意識していないかもしれないが、私もあなたと出会ってから人生最大の決断を何度か経験した。それもああいうことは相当の決断が必要なのだぞ」
ニームが何の事を言っているのかはエスカはもちろん、リンゼルリッヒとジナイーダにもわかった。だが、エスカとニームの出会いからこっちの出来事を知るよしもないシルフィードの二人にはもちろんわかりようがない。もっともトルマは、ニームの顔がどんどん赤くなっていくのを見て『新婚』という言葉と二人と初めて出会った時の状況をもとに、ニームの微笑ましい羞恥の向こう側を想像することができていた。
どちらにしろトルマとシュクルは、エスカの言葉が嘘ではないと確信できた。そんな二人のやりとりであったのだ。
「男爵、いやペトルウシュカ将軍は勝算があると申されるか?」
先ほどと違い、トルマの声色にはもう気色ばんだものは含まれていない。むしろ穏やかであった。
エスカはそんなトルマの問いかけに対し首を横に振った。
「ならばなぜそんな無謀な……」
エスカの態度にシュクルの方が固い声を出した。だがエスカは強い調子のその問いかけに対して穏やかな声で応じた。
「シルフィード軍は勝てるとわかっている闘いしかしないのですか?」
「そ、それは」
エスカの迷いのない言葉。それは問いかけに対して問いかけで答えたものであったが、シュクルは虚を突かれて言葉を失い、トルマは反対に相好を崩した。
「わっはっは。シュクルよ。見事に一本取られたな。どうやら役者は将軍の方が一枚どころか数枚上のようだ」
腹の底から出るようなトルマの笑い声に、シュクルはのど元でつかえていた言葉を外に出す事なく飲み込んだ。
トルマがここまで屈託無く笑うのを見るのは実に久しぶりだったのである。いや、シュクルは実はもうトルマがこんな豪放な笑い声を上げる人物であった事などすっかり忘れていた自分に気づいて愕然としたと言った方が正しいだろう。彼は楽しそうに笑う上官を見る自分の中に、穏やかな気持ちになる感情が生まれてくるのを噛みしめていた。
トルマは今、手放しで楽しいのであろう。それはもう間違いない。そしてトルマに単純な感情をもたらした人物を、彼自身も認めざるを得なかった。
一方、双方の状況を見て、どちらにせよ険悪で取り返しの付かない事にはならないようだと感じたリンゼルリッヒは胸をなで下ろしていた。
とんでもない、いやあまりに不用意な事をさらりと言ってのけるエスカに対してはもはや驚きを通り越して呆れるしかないと思っていた。
本気なのか嘘なのかわからない。
いや、おそらく本気なのだろう。だがその大それた目的を大それた目的だとは思っていないようなエスカのあまりにも平然とした態度に対し、賢者であるリンゼルリッヒは普通の人間に対して初めて心からの敬意が湧き上がるのを感じていた。
歴史上いわゆる傑物とされる人物とは、まさにエスカ・ペトルウシュカのような人間なのだろうと腑に落ちたのだ。そしてそのエスカを全身全霊で認めるかのようにいかにも楽しげに笑うトルマ・カイエンという人物もまた同類なのであろうと。
そういう人物を実際に目の当たりにした時、そこには好きだとか嫌いだとか、幾重にも理性の扉をくぐり抜けてようやくたどり着くような手垢の付いた感情よりも先に「目が離せない」という裸の衝動が先に立つ事をリンゼルリッヒは初めて知った。
「シルフィードは……いや、私も腹を割らないとならんのだったな」
ひとしきり笑ったトルマは、嬉しそうな顔でエスカに声をかけた。
「さしあたって私は新しい地図というものにはさほど興味はないが、貴殿の描く地図とはまさかデュナンの持つ欲に彩られどぎつい色をし、我々からすると目を覆いたくなるようなそれではないでしょうな?」
エスカは静かに首を横に振った。そしてニームの小さな手を取ると残った左目で強くトルマを見つめて口を開いた。
「おそらく欲にまみれた地図にはなるでしょう」
「ほう」
エスカのその言葉はしかしトルマを挑発するようなものではなかった。トルマ・カイエンという人物をよく知るシュクルは、自分の上官が腹の底から相手を認めた以上、たとえシルフィードそのものを侮辱するような言葉をエスカが口にしようと、もはや全く動揺しないであろうと確信していた。
エスカはまるで壊れ物でも扱うように慎重に、そして手にしたものを二度と離さぬと言わんばかりに力強く、小さなニームの手を包み込んで、ゆっくりと口を開いた。
「私はコイツと面白おかしく暮らせる国を、誰でもないこの手で作ろうと考えています。まあ、正直申し上げてこいつと出会う前までは、お堅いお歴々が満足するようなもっともらしい理想論を、極彩色の修辞で彩っていたものです。ですが今では私の究極の目的はそれだけです」
エスカの言葉にニームの目が見開かれ、そしてその顔はすぐに崩れた。だが、かろうじて泣くのは堪えたようだった。
「ふうむ」
トルマは腕を組むとまじまじとエスカを見つめた。
「私もいろいろな人間を知っておりますが、あなた程の女たらしは見た事も聞いた事もありませんな」
ため息混じりのその言葉には、エスカをからかうような響きはなかった。
(同感だ)
トルマの言葉に、リンゼルリッヒは頷きながらそう囁いた。もちろんジナイーダに宛てたものだ。
(私もあんな言葉を言われてみたいものね)
(無理言うな。あんな台詞はそれなりの人間が言うからこそとんでもない力を持つのさ)
(それもそうね)
ジナイーダはそう頷くと、必死に泣くのを堪えているニームをいとおしそうに見つめた。
(それにしてもバカねえ)
(え? )
(ニーム様よ。ここは思いっきり泣いてもいいところなのに)
(ああ……そうかもな)
(でもダメだわ。今ニーム様が泣いたら私もきっともらい泣きしちゃいそう)
(おいおい)
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