第七十四話 エスカの誤算 3/6

「気立てのいい、私好みの器量よしなんだよ、これが」

「フレクトの気苦労がわかる気がするぜ」

「冗談がきつい。あの兄が気苦労などするものかい。私が思うに、彼は数字が書かれた帳面さえ与えておけば、恍惚の世界に入り込むに違いないよ」

「わかったわかった。さすがに俺もそこまで野暮じゃねえ。今日はこれで戻るさ」

「そいつはありがたい。それはいいんだけど……」

「ジーナとリリの話か?」

 フェルンは頷くとテーブルに置かれた三本目のワインを持ち上げて、それをエスカに手渡した。

「私が思うに、エスカはジーナとリリにはめられたのかもしれないね」

「はめられた、か」

「あんなに懐いていたじゃないか。私が思うに、今回の事はニーム様の意志ではないんじゃないかと。たぶん、だけどね」

「なるほど……」

「そして、彼らの善意からくる陰謀はそれなりの成果があったようだし、どちらにしてもこの辺にしておいてくれないかい」

「そうか」

 エスカは三本目のワインを抱きかかえると、椅子から立ち上がった。

「俺とした事がなあ」

「そうだね」

 フェルンはうなずいた。

「向こうはともかく、エスカともあろうものが本気になってしまうとは、ね」

 エスカはそれには答えず、フェルンに軽く手を挙げて見せると、その事務官の部屋を後にした。


「ん?」

 エスカは扉を開けた時、廊下を走り去る人影の後ろ姿を見つけた。それは彼の記憶が正しければ、その階層の部屋の掃除を担当している、グェルダン付きの侍女であった。

「なるほど」

 エスカは所在なげに髪をボリボリとかくと、自室とは違う方向へ足を向けた。

 そしてその夜、ワインを抱いてニームの部屋を訪れたエスカに、ジナイーダはにっこり笑いながら尋ねた。

「何のご用でしょう、閣下?」

 エスカは苦虫を噛みつぶしたような顔でジナイーダの顔を見つめながら答えた。

「わかった。俺の負けだ。会いたくてしかたねえんだよ」

 ジナイーダはさらににっこりと笑いかけると、黙って大きく扉を開き、エスカを招き入れた。

「お前達にはまんまとしてやられたよ」

「あら」

 横を通る際、ワインを手渡しながら小さくそうつぶやいたエスカに、ジナイーダも同じように小さくつぶやき返した。

「お忘れなく。我々はあなた方お二人の味方です」

 エスカはそれには答えず、ただ小さくうなずいた。

 部屋に入ったエスカに、いきなり飛びかかってくる焦げ茶色の影があった。

 とっさの事でエスカはなすすべもなかったが、よく見ると焦げ茶色は結布(ゆいふ)を解いたニームの髪だった。

 エスカは懐に飛び込んできた小さなニームをしっかりと抱きしめた。同時に背中で扉の閉まる音を聞いた。もちろんジナイーダが部屋を出て行ったのである。

「会いたかったぞ、ニーム」

 エスカが先に口を開いた。

 ニームはその言葉を聞くと顔をあげて、エスカを見上げた。

「本当か?」

 その目は真剣だった。

 おそらく一週間振りに見るニームの顔は、エスカにはやけにまぶしく見えた。結布を解いた髪型のせいもあるのかも知れないが、普段よりも大人びて見えた。

「本当だ」

 エスカがそう言うと、ニームは満面の笑みを浮かべてその胸に顔を埋めた。

「私もだ」



 そんなグェルダンでの一件を思い出しながら、エスカはニームの肩を抱いたまま、ゆっくりと広間の中心部へと移動していた。

「ファランドールで爵位を持ってる貴族連中は、全員ここに集まってるんじゃねえのかってなくらいのそうそうたる眺めだな」

 エスカにニームが相づちを打つ。

「まあ、そこまでは大げさだとしても私が知った顔もかなりいる。ドライアドの王宮で見かけた事があるウンディーネの領主どもも結構来ているようだな」

 エスカはそう言うニームに顔を寄せると耳元で囁いた。

「向こうの壁際で美女を従えてふんぞり返ってる青服のじいさんが誰だかわかるか?」

「いや。だが、一癖ありそうな人物だと言うことはわかる」

「ウンディーネのノスデの首領、メラール候アレクシスだ」

「ほう、あれが『豪商貴族』か」

「驚くのはこれからだ。メラール候の後ろの美人だが……」

「む。側室ではないのか?」

「に、しちゃ気品ありありだろ? ありゃ、タルガの首領、リュック・ラジアー男爵の正室、アレット・ラジアーだぜ?」

「ええええ?」

「声がでけえよ」

 エスカはニームの口を慌ててふさいだ。

「メラール侯爵の事は、女好きで有名だからお前でも名前くらいは知ってるだろ?」

「それはそうだが、まさか堂々と他の首領の正室とこんなところで逢い引きとは……」

「気の毒な事に旦那のリュックは病弱でな。巷じゃアレットが毒を盛ってるんじゃないかっていう話もまことしやかにささやかれてるらしいぜ」

「まさか」

「まあ、メラールもアレットに毒を盛られなきゃいいがな」

「それより、あそこでさっきから偉そうに自説をぶってるハゲは?」

「ああ、ありゃサラマンダの東部のクニルド地方にちょっとした領地を持ってる奴で、エズモンド・ゲーヴ。ドライアドのゲーヴ子爵って言やあ、わかるか?」

「つまらない事にいちいち軍やバードを派遣しろと言ってくる口うるさいゲーヴ子爵とはあんな奴だったのか」

「きっとサラマンダの委嘱軍がクニルドにあんまり派兵されてないとか言ってるんじゃねえか? あいつにかかれば、クニルドが世界の要衝なんだろうさ」

「なるほど。じゃあ、あっちのテーブルにいる飾り立てたご婦人は誰だ? さっきからこっちをチラチラ見てるようで落ち着かん」

「ありゃ、お前、ベルマン伯爵夫人だ。って、おいおい、そんな顔して伯爵夫人を睨むんじゃねえよ、後がうるさいぞ」

「ベルマン伯爵というと、ミュゼの中心部に無意味にでかい屋敷を建てて付近の公園の日当たりを蹂躙したという、あのベルマン伯爵だろう?」

「あの屋敷はカルロス・ベルマン伯爵の家じゃなくて、あのルイズ用の別宅だ。旦那のカルロスの家は町外れにあって、あれの三分の一もない」

「奥方専用の屋敷だと?」

「ルイズはもともとドライアドのアサンダ公爵の娘で持参金も多く、カルロスは頭が上がらないらしいな。で、わがままいっぱい、好き勝手やってるっていう噂だ。あっちの方の噂も後をたたん」

「あっちの方の噂?」

「俺はいろいろと理由をつけられてベルマン伯爵家に招聘されてるんだが……」

「ふーん。で、いろいろと理由をつけて断り続けている、と」

「人気の楽師や俳優などを呼びつけて何日も帰さないってな女だぞ? たかが男爵風情の俺が行ったら、立場の違いをかさに着て何をされるかわかったもんじゃねえからな」

「なるほど。ルイズ・ベルマンの名はよく覚えておこう。エスカがあの屋敷に向かうような事があったら……」

「いや、だから頼むから睨むなって」

「さっきから失敬だぞ。これは地顔だ」



「勘弁しろよ。それより、見たところ教会関係者も結構来てるんじゃねえのか?」

「さすがに座守は来ていないようだ。あそこにいる一団が座守代行だろう。導師会から命を受けた一団のようだな。だが、知っている顔は一人いるきりだ」

 ニームが顔を向けた方角には二十人ばかりの団体があった。黒い僧服に交差する蛇と精杖の正教会のクレストが縫い取りされているので、所属組織は一目瞭然だった。

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