第七十三話 黒い翼のエルデ 1/4

 最初の思惑である精霊陣は、エイルにとって壁でも何でもなかった。何の抵抗もなくエイルはメラクの目前まで近づけていた。

 そう。既に精霊陣などの効力は失われていたのだ。

(神の空間、か)

 手応えのない相手の「結界」に、エイルはその原因を特定していた。

(ご大層な名前だけのことはあるな)

 メラクの二番目の思惑である自らにかけた防御ルーンも、エイルにはそれが存在していようが、あるいはエルデの神の空間の範囲に入っていようが、どちらにしろ用をなさないであろうという確信があった。

 なぜならランディとの戦いで、妖剣ゼプスには敵の纏った防御ルーンをその一振りで無効化する力があることを知っていたからだ。

 まさに今、エイルの手の中にある妖剣ゼプスは青白く光輝き、その刀身にはエーテルの力がみなぎっている。持ち主であるエイルには、握りしめる妖剣ゼプスの内包する力が尋常でない事が理屈抜きにわかっていた。

 エルデの神の空間がここまで届いていなかったとしても、ゼプスの一振りはガーデルが纏う防御ルーンを全て剥ぎ取るだろう。そして返す一振りでその無防備な首をはねることができるのだ。


「ガーデル様!」

 部下達の悲鳴が響いた。

 メラクの盾となってエイルを迎え撃つはずであった剣士達は、自分達が繰り出した剣がエイルの体をすり抜けるのを見たのだ。

 胸と首と腹をとらえたはずの剣はしかし、なんの手応えも与えなかった。高位ルーナーの護衛となる剣士達である。その手応えの意味するところは承知していた。

 六回のうち三回を消費して盾となっていた攻撃を文字通り無効化したエイルは、思わず精杖を構えて防御しようとしたメラクめがけ、上段から大きく一太刀を浴びせた。精杖と妖剣がぶつかる際、メラクの体が黄色く光り、それがはじけた。

 エルデに尋ねるまでもなく、それはメラクの防御ルーンを全て剥ぎ取った証拠であった。衝撃によろけるメラクに、エイルはしかし、二振り目となるゼプスの切っ先をその喉に向けることはしなかった。代わりに体制を崩したメラクの顎を剣の柄の底で正確に狙うと、素早く、しかし思い切り打ち据えた。


「ぐわっ」

 たたき落とされるようにしてその場に倒れるメラクの周りに、指導者の盾であった三人の剣士が集まってきた。

 エイルはかまわず、いつもの無防備な構えで剣士達に向かっていった。

 一人目の剣を避けたものの、二人目の剣はまたしてもエイルの腹に、三人目の剣先は左腕に届いていた。だがそれらもすべて空を切った。エイルは敵の剣にたじろぎもせず、最小限の動きで三人の動きを封じていた。ゼプスで全員の首筋を打ち据えていたのだ。ただし、剣を持ち替えて。

 刃ではなくその反対側、棟の方で打ち据えたのだ。エイルの能力を持ってすれば棟側であろうが刃側であろうが物を切断する事はたやすい。しかしエイルはそれをしなかった。

 切れば、そして刺せば当たり前だが血が出るだろう。しかし、この場に充満する血の匂いと色はエルデの本能を刺激する。それを避けたかったのだ。

 そしてもちろん、一番の理由はこの期に及んでもなお、エイルは人の命を奪いたくはなかった事である。


 エイルは一連の動きを止めると、エルデの様子をみやった。そして大きく息を吐いた。多少の心配はしていたのだが、それが杞憂である事がわかったからだ。

 エルデは自らは詠唱をしながらも、同時に防御を行っていた。

 いや、それは防御ではなく、ほとんど攻撃といって良かった。

 エイルには、精杖ノルンが長く伸びているように見えた。だがよく見るとそれはノルンから生えた蔦のようなものだった。

 その蔦が長く伸び、ムチとなって精霊陣の外側で攻撃ルーンを唱えていたルーナー達を打ち据え、なぎ払っていたのだ。

 まるで細長い蛇が自らの意思でルーナー達をうちすえているかのようだった。もちろんエルデの意識のうちの何分の一かをそちらに割いて、ノルンを制御しているのであろう。


 エイルは視線を地面に横たわるメラクに移すと自分の仕事に戻った。

「部隊を撤退させろ」

 右手、すなわち精杖を持つ手を踏みつけ、妖剣ゼプスの切っ先をのど元に当てると、エイルはできる限りぞんざいな声でそう命じた。

「何度も言わせるな。すぐに命令しろ」

 その頃になると第二陣とも言える敵の剣士が集まってきていた。しかしエイルとメラクの様子を見て、遠巻きにしているだけで手を出そうとはしなかった。


 エイルが動き出してから、まだ一分も経ってはいなかった。だが形勢は逆転していた。

 たった二人が、数十人以上の部隊をほぼ制圧していたのだ。


(よし)

 エイルがそう思って気を緩めた時に、それは起こった。

 真っ白な光……光線と呼ぶにはあまりに太すぎるとエイルは思った……上半身を全て飲み込む直径を持つ白い光の筒、いや柱のようなものが真横からエイルを直撃すると、そのまま後方にいるエルデさえも飲み込んで反対側へ突き抜け、大きな音を立てて消えた。

 エイルにもエルデにも衝撃は伝わらなかった。

 二人ともエルデがかけた六回まで防御できるルーンで守られていたのだ。だがその光の衝撃が持つ力が尋常でないことはあまりに太い光の束が着弾した場所を見れば、誰の目にも明らかだった。

 つい今し方までそこにあったはずの建物……おそらくはハイデルーヴェン城の離れのような付随建築物なのだろうが……そこに穴があいていた。

 何かを切り取ったような大きな穴は、構造物の強度限界を超えた損壊であったのだろう。エイルが視線を変える前にさらに大きな音を立てて瓦解し、大量の埃をあたりにまき散らした。


「私の部下の手を踏んでいる、その小汚い足をどけろ」

 光の束が来た方向から大きな声が飛んだ。

 エイルは反射的に声のする方へ顔を向けた。もちろん剣の切っ先は微動だにせず、ただし自分の一瞬の油断にギリギリと歯噛みをしながら。

 エイルが言葉で反応する前に、声の主が続けた。

「奇妙な結界を作ってるようだが、私はその外にいる。試しに今ルーンを放って見たが、ここからならそっちを狙い放題のようだな。迂闊なのか油断していたのかは知らんが、どちらにしろ今現在、お前達の生殺与奪は私の手の中にある」

 エイルとエルデが防御ルーンを纏っている事は今の一射で相手には把握されている事は言うまでもない。まともな指揮官であれば、おそらく次に発するのは強化ルーンを剥ぎ取るルーンだろう。もっとも、エイルの防御ルーンの限度である六回は、今の光の柱による攻撃で、すでに使い切っていた。

「おっと、妙な動きをするなよ。私も聖職者のはしくれだ。無駄な殺生は本意ではないからな」

 相手の声からその性格を把握するのはエイルにはまだ荷が重かったが、その声が落ち着いたものなのはすぐにわかった。さらに本人の言うとおり今は優位に立っているはずだが、それでも注意深さを失っていない……そんな「感じ」すら伝わってきた。

 もっとも防御ルーンがかかっていなければ、さきほどの一射でエイルもエルデも消滅していたことは間違いない。警告にしては相当に手荒である。

 つまりそれは新たな相手が必要であれば容赦のない攻撃を仕掛ける性格である証明といえた。

 消滅したらそれでよし、防御ルーンをかけていたならば充分な脅しになる。おおざっぱではあるが、相手の力量がわからない場合はきわめて効果的とも言えた。

 中途半端にただの警告程度のものを仕掛けたならば、相手であるエイルの不興を買いメラクの首が胴体と分離した上に、とりあえずの反撃が行われる可能性が高いと判断したのであろう。そうなれば結果として戦いに勝ちはしても、味方も無傷とは行かない。

 要するに新手の指揮官はそれなりに「切れ者」なのだ。少なくともメラクより指揮官としての器量は上であろうと思われた。


 そこまで考えた時、エイルの予想通り何かのルーンが放たれ、エイルは体全体に軽い衝撃を受けた。

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