第五十七話 深紅の綺羅(しんこうのきら) 2/4
だが確かにエルデの様子を見ても、取り巻くエーテルに乱れは感じられない。現時点では本人が言うように「大丈夫」らしかった。
自分の血は大丈夫だというエルデの理屈はわからないでもない。自分の血でも駄目だという人間の方が多いだろうが、自分の「匂い」と他人のそれとは全く違うものに感じる事はよくある事だろう。エルデの場合はそれにあたるのだ。
だが、この部屋に充満する匂いが血に似ている事を認めつつ、でもこの匂いは大丈夫だというエルデの言葉には多少なりとも違和感を覚えていた。いや、軽い疑問のようなものと言った方が適切だろうか。
それよりもこの匂いが血だとするなら、いったい何の血なのか? そしてなぜキセン・プロットの研究施設に血の匂いが充満しているのか。
そちらの方が気になってエルデの言葉はすぐに意識の向こう側へすり抜けていった。
「エイル……」
長い階段がようやく尽き、キセンに続いてエイルが地下の巨大空間の床に足を下ろした時だった。エルデは最後の一歩を踏み出さず、階段に留まったままエイルの手を引いたのだ。
振り向くエイルにエルデはささやいた。
「やっぱりこの女は信用できへん」
「どうしたんだよ?」
今更? という思いを込めてエイルがそうささやき返すと、エルデは首を小さく振って目を伏せた。
「ここはなんか変や。強力な結界が張ってある。それになんか嫌な感じがする……」
「何だって? まさか『エア』か?」
エイルが思わず発した声は、ささやきと言うには大きなものだった。案の定キセンがそれに反応して青緑色の長い髪をなびかせながら二人を振り返った。
「そうそう。言い忘れてたけど、ここではあなたのルーンは発動しないわよ」
キセンの言葉に敵意のようなものは感じなかったが、エイルは一応周りを見渡した。
だが人の気配、いや、少なくとも敵意や戦意を持つ意思の存在はまったくなかった。エイルが感じる限り、広い空間にいるのはおそらくキセン・プロットとエイルとエルデの三人だけのようだった。
「白状するとエアを作り出すスフィアや石を製造する事は出来ても、私にはなぜそうなるのかという仕組みがわかっていないのよ。実に興味深いと思わない?」
キセンはそう言うとその空間をぐるりと見渡した。
「だからこの空間がなぜエアになっているのかを私に尋ねてもムダよ、瞳髪黒色のルーナーさん」
「作り方はわかってるけど、仕組みはわからへん、やて?」
「そうよ。正確に言うと『どうすればそうなるかはわかるけれど、その現象を論理的に説明できない』と言う事ね」
キセンはそう言うと大げさに肩をすくめて見せた。
「さっき私が使って見せたエーテル体も同じよ。私はあれを作り出せるし訓練したからかなり精密に動かせる。でも、なぜそんなものが存在できるのかなんて理解は出来ていないのよ……。正直言うと、研究者としてはこれ以上の屈辱はないわ」
キセンがそこまで言ったところで、エルデはようやく床に下りた。
上から見ると土のように見えた床は、暗い茶色をした石のタイルが敷き詰められていた。その表面は綺麗に平らになっており、まるで磨き込まれた硝子のようになめらかであった。
「くどいようだけど、もう一度だけ言うわ」
キセンはエイルとエルデに向き合うと、腰に腕を当てて胸を反らした。
「私は被害者。ええ。敢えて被害者面をするわ。そして『これ』があるから、私はここから動けないのよ」
エルデは目を細めてキセンを見やった。キセンからすればゾッとするような冷たい視線だったろう。教授長はその視線を長く受け止めている事ができず、すぐに目を逸らせると踵を返した。
「こっちよ」
そう言ってキセンが二人を案内したのは緞帳のような分厚い黒い布がかけられた、例の球状と思しき主貯蔵槽のような構造物の前だった。貯水槽を覆う布は一部が天井から吊られているようで、まるで舞台の緞帳のように上下動が出来るように仕掛けが施されていた。
「今からこの覆いを引き上げるけど、何を見てもくれぐれも冷静に頼むわよ」
キセンがそう言って近くにある棒に手を伸ばそうとした時であった。鋭い声が部屋に響いた。
「動くな!」
エルデだ。
彼女は短くそう怒鳴ると、次に早口でルーンの認証文を唱えた。
「ディファーダル・クリュナシフ・キュリク!」
「え?」
エルデの詠唱は相変わらず早口だった。しかも例によって前文や詠唱文は唱えない。エルデが操るのは認証文だけのルーンである。
つまりそれはキセンにとっては一瞬の出来事であった。
球状の貯蔵槽を覆っていた覆い布が緑色の炎を上げて空中にふわりと浮いたかと思うと、即座に細かい灰になって辺りに散っていった。
「なぜ?」
キセンはそれを見てあっけにとられていた。それはそうである。キセンの理解ではこの空間は『エア』のはずであった。ルーナーがルーンを使えない空間。それだけではない。フェアリーすらその能力を失う……あらゆる精霊波が存在しない空間。それがエアであるはずだったのだ。
しかし、現に瞳髪黒色のピクシィが唱えたルーンは発動したのだ。
その事実を目にして驚きを隠せないキセンは、目を大きく見開いてエルデの姿を凝視していた。だがそのエルデは、キセンの姿を見てはいなかった。エルデと、そしてエイルの視線の先はキセンを通り越したその向こう側……すなわち覆いが取られ、姿を現した球状の貯蔵槽と思しき物体に向けられていたのだ。
「うぐぅっ……」
エルデは言葉にならない声をのどの奥で発した。おそらく何かを叫ぼうとしてそれを押し殺したのだ。
だがエイルはこみ上げてきた言葉を飲み込む事はしなかった。すぐさま視線をキセンに移すと、睨み据え、そして怒鳴った。
「これは何です? !」
エルデを見つめたまま呆然としていたキセンだが、エイルのその怒鳴り声で我に返る事が出来た。キセンはすぐに目を閉じて少しうつむくと、数秒間静止したが、すぐに顔を上げ、エイルに向かってはっきりとした声で叫んだ。
「もう一度言うわ。私じゃない!」
「だったら!」
エイルも同じく叫び返した。顔を歪め、球体を指さして。
「だったらこれは……こんな事をいったい誰がやったんだよっ」
そう言ってエイルが指し示す先。そこにあったものは、まさしく硝子でできた貯蔵槽であった。水槽と言い換えた方がよりふさわしいのかもしれない。
この施設に設置されている他の貯蔵槽はすべて円柱で、どれも中が見えない金属で出来ていた。だが唯一の球体貯蔵槽だけは硝子で出来ていたのである。硝子自体にいったいどれくらいの厚みがあるのかはわからない。確かな事は球体には何らかの薄桃色の液体で満たされおり、その中に一人の人間がいるという事であった。
硝子の球体の中にいる人物は動かない。そもそも空気がない。容器にあたる硝子の球体全体が薄桃色の液体で満たされているのだ。
その球体に浮遊している人物は何一つ纏ってはいない。腰あたりまである長い金髪と白い肌を持つデュナン。それも若い女性だという事は、ガラスを通してもわかった。そして目を閉じてはいるが、その人物が相当な美貌の持ち主であることも。
――目は閉じられている。
だが、眠っているのではない。
意識が無いだけの状態でもない。
死んでいるのだ。
なぜそう確信するのか?
もちろん二人が瞬時にそう結論を出したのは、そこにわかりやすい理由があったからだ。ガラスの水槽に満ちた薄紅色の液体越しでもわかるそのふくよかな均整を描く肢体の持ち主は、自分の身長よりもいくぶん長い一本の槍で、背中から心臓を貫かれていたからである。
いや。
それは槍ではなかった。
若いデュナンの女を貫く棒の先には刃がない。ただ先に向かって細くなっているだけの木の棒であった。そして反対側、つまり上部には彫像のような物が取り付けられていたのである。大きな翼を広げた獅子が、その鋭い爪で球……おそらくスフィアと呼ばれる水晶を掴んでいる彫像であった。
それを見たエイルはその棒状の物体が何であるかを理解した。
精杖。
それは間違い無くスフィアを取り付けた長い杖、ルーナーが持つ精杖であった。
「あなたでなければ、いったい誰がこんな事を……」
エイルの叫びは、絞り出すような声に変わっていた。だが、その言葉は途中で止まった。
エルデがエイルの前に腕を出して遮ったのである。
エイルの言葉を引き継ぐように、エルデはキセンに向かって問いかけた。
「答えろ、キセン・プロット……いや、フォウからの異世界人ヴェロニカ・ガヤルドーヴァ!」
エルデの声はエイルの予想に反して低く静かだった。だが決してそれは冷静な状態を表していない事はエイルにはわかった。エイルを制した腕の先で握られている拳が、小刻みに震えていたのだ。
「言え! 《深紅の綺羅》を背中から刺した虫けらの名を今ここで余に告げよ」
「あれが……《深紅の綺羅》?」
エイルの問いに小さくうなずいたエルデは、次の瞬間、自らの精杖であるノルンを取り出した。そしてその頭頂部をキセンに向けると続けた。
「教えへんならウチがこの忌まわしい施設もろとも焼き払うたる!
エルデは言い終わると手にした精杖ノルンをくるりと一回転させ、その尻で床をドン、と強く突いた。分厚い石のタイルという頑丈な床材が敷き詰められた床ではあったが、エルデの力に抗うほどの強度は無かったようで、音と同時にノルンを中心に大きなヒビが三方に走った。
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