第四十八話 芽生える疑惑 2/4

 どうやらそれは一年以上前に起こった惨殺事件についての噂話のようであった。アプリリアージェの記憶によれば「クナドル事件」とは、サラマンダ侯国の西部にあるクナドルと呼ばれる小さな山村で起こった惨殺事件の事である。村といっても数十人程度の集落で起こったその事件は、ほとんどの村民と、そこに駐留していたと思われるドライアドの委嘱軍の小隊が惨殺死体で発見されたというものであった。数人の生き残りの証言によると、犯人は子供という事であったが、なにぶん証拠もなく、そもそも目撃証言の主も何らかの原因による精神混濁を起こしており、証言そのものに疑問があるという理由でその後はまともな調査もないまま「未解決事件」となっていたはずである。

 だが、彼らのその噂話に割り込んできた知人と思われる別のテーブルの青年の一言がアプリリアージェの眉を吊り上げた。

「子供じゃねえよ。アルヴィンに決まってるだろ。薬物だってアルヴの『つて』で手に入れたのさ」

 隣のテーブルの青年はそれにうなずくと、さらにそれを補足するように

「その犯人が昨日、ハイデルーヴェンで見つかったっていう話だ」

 そう続けた。

「やっぱりあんな事をやるのはアルヴ連中だと思ってたぜ」

「目撃情報じゃあ、金髪の女アルヴィンだっていう話だ」


「様子がおかしいな」

 当然ながら同じ話を聞いていたアキラは、片方の眉を吊り上げたままのアプリリアージェにそう言うと、それとなく店内の様子を伺った。

 アキラとアプリリアージェはテーブルを挟んで向かい合って座っていた。つまり、二人は頭を動かさないで、両方が互いの死角を補う形になっていた。

 二人だけでなく、もちろんティアナやファルケンハイン達も既に気付いていた。ただ、エルネスティーネだけは、アプリリアージェ達の警戒を意に介さず、席に着いてから、首を伸ばして店内を物珍しそうに見渡していた。

 アプリリアージェがそんなエルネスティーネを制止しようとした時、彼女はアプリリアージェに顔をむけて、

「この店のお客様はデュナンばかりですね」

 そう言った。

 その言葉はアプリリアージェの脳を突き抜けた。さらに脊椎を通り、全身に電撃のような衝撃を走らせた。

 この町の雰囲気はともかく、目抜き通りを歩いていた時の違和感の理由を、やっと理解できたのだ。

 ここへ来るまで、少なくともアプリリアージェはアルヴ族とおぼしき人間を一人も見なかった。エルネスティーネの言葉は、まさにその違和感の原因を見事に示したと言ってよかった。

 そしてアプリリアージェには一つ思い出した事があった。「クナドル事件」の被害者は村人も委嘱軍の兵士も全てデュナンであった。

 注文をとりに来た給仕の様子を思い出すと、アプリリアージェは二つの現象から一つの仮説を導き出した。

『アルヴ族が排除されている町』

 ハイデルーヴェンはそういう町なのだ。

 理由はわからない。だがその仮説を証明する一つの事象が今ここにあった。アプリリアージェ達の耳に次のような言葉が飛び込んできたのだ。

「今までのデュナン殺しの多くはアルヴ族だって言ってるだろ。あいつらはフェアリーなんだぜ?デュナン殺しは得意なんだよ」


 以前はそうではなかったはずだ。そうでなければアキラやメリドが知らぬはずがないのだ。

 こんな異常な町を。

 そしておそらく、この変化はフリストも知らなかったに違いない。もちろんフリストの言う「主(あるじ)」とやらも。

 ハイデルーヴェンは何かをきっかけに急激に変わったのだ。

 そして、もし本当に急激に変化したのだとしたら、それは極めて危険な状況であると言えた。

 急激な変化とは、すなわち激しい変化である。過激な変化だと言い換えてもいい。

 どう考えても、平和的にアルヴがこの町を去ったとは想像できなかった。


(去ったのか?)

 アプリリアージェは最悪の事態を想定した自分に愕然とした。

「アモウルさん……」

 一刻の猶予もない。

 アプリリアージェが数秒で出した結論がそれだった。

「うむ。とりあえずここは早々に出た方が良さそうだ」

 アキラもほぼ同時に同じ結論に思い至ったに違いなかった。言い換えるならば、エルネスティーネの何気ない言葉が、危機が現実のものだと認識させる為の引き金となったのだ。

 エルネスティーネは物珍しさからこの町を行き交う人々一人一人を熱心に観察していたに違いない。だからこそ気付いた程の些細な違和感は、目立たぬように神経を注いでいた「専門家」達には見えなかったものである。


 アプリリアージェとアキラ。その二人が交わした視線に、そんな会話が込められていたかどうかはわからない。とにもかくにもアキラはアプリリアージェの一声で全て合点したという風にうなずくと、そっと立ち上がった。

 無言で立ち上がったアキラに一行の目が集まると、アプリリアージェは全員を見渡しながら小声で告げた。

「とりあえずマントを。それから髪で覆うなりして、できるだけ耳を隠して下さい」

 隣のテーブルにも聞こえない程度の小さな声ではあったが、その言葉はその場の人間には極めて明瞭に聞こえた。高位の風のフェアリーが使う例の話し方であった。

 自分の言葉に全員が集中している事を確認すると、アプリリアージェは続けた。

「これは命令です。質問は後でいくらでもききます。非常事態と認識して下さい。何事もなく店を出られたら目立たぬように今来た道を戻ります」

『何事も無く出られたら』という部分を、アプリリアージェは声を落として告げた。それは突然の「命令」が意味する危険性を表現するのに充分な効き目を持っていた。いつもなら必ず何かを言いかけるティアナですら、何も言わず頷くとエルネスティーネの手をとり、ギュッと握りしめた。

「『食い逃げ』扱いされると面倒ですから、私は勘定を済ませてから後を追いましょう」

 そう言うアキラにアプリリアージェは、再びうなずいた。

 勘定などは卓の上においておけばいいはずだった。つまりアキラは皆の最後尾の壁になる。そう言ったのだ。いや、少なくともアプリリアージェはそうとったのである。

 デュナンのアキラがその役を引き受けてくれると言う事は、いろいろな意味でありがたかった。

「感謝します」

 アプリリアージェはその一言でアキラの意図を理解した事を伝えると、ファルケンハインに向かい、先導を命じた。細かい指示をせずとも簡単な合図で素早く次の行動に移る事ができるファルケンハインとテンリーゼンの動きは、長い時間を供にしているル=キリアの仲間ならではであろう。

 アプリリアージェはジャミールの里で既に白面を捨てていた。しかし、今はその捨てたはずの「白面の悪魔」に戻っていた。


 突然襲ってきたピリピリとした雰囲気の中、ティアナはエルネスティーネの手を引いてファルケンハインの背中を追った。彼女には店の奥まったところにあるテーブルから、店の出入り口までのほんの数メートルが、もどかしいほど遠いものに思えた。

 マントについたフードで髪を隠しているが、店にいる全員が自分を見ている気がした。「耳を隠せ」と言ったアプリリアージェの一言で、ティアナもその含むところは合点していた。耳、すなわちアルヴ族の特徴であるやや細く、先が尖った耳はデュナンの丸いそれとは一目で違いがわかる部分である。それを隠す。すなわちデュナンの振りをしなければならないと言う事。

 しかもアプリリアージェは普段使わない「命令」という言葉を敢えて使った。説明する時間的な余裕など一切無いと言う事であろう。ただ「従え」と言う訳である。

 それはつまり、命に関わるかも知れないと言う事なのだ。


 ティアナは音をたててゴクリと唾を飲み込むと、思わず早足になり出入り口へ駆け出す格好になった。

 アプリリアージェは急げと言ったが、走れとは言わなかった。ファルケンハインも走ってはいない。大股ではあるが、逃げ出すような雰囲気ではない。だが速い。

 ティアナにはファルケンハインに遅れまいという意識が強く、それが無意識に歩みを走りに変えさせてしまったのである。

「おわっ」

 ティアナは何かにぶつかった。正確に言えば何者かがティアナにぶつかってきた。その誰かがぶつかった際に、その大きな声を出した。

 そこに人が来るとは思わなかったのだろう。店の中で走る方がおかしいのだ。

 ビールを両手に持ち、普通に歩いていたデュナンの若者は、ティアナとぶつかった拍子に、手に持っていたビールのグラスを床に落とした。

 ティアナも衝突の衝撃で体勢を崩した。倒れる体を支える為に反射的に手を出したが、その先には客のいたテーブルがあり、運の悪い事にティアナの手はテーブルの上に置かれていた陶器製の大きなビールジョッキを数本、まとめて払い落とす事になった。

 ティアナに引っ張られていたエルネスティーネもただでは済まなかった。突然止まったティアナの背中に顔ごとぶつかると、その場に尻餅をついて倒れる事になった。その衝撃で、懐から丸い茶色の物体が飛び出して、エルネスティーネの頭に昇ろうともがいた。

「マナちゃん」である。マナちゃんにはしかし、残念ながらアプリリアージェの命令は届いていなかったようだった。可愛そうなマーナートは突然の事に驚き、慌ててご主人の頭によじ登ろうとして、その拍子にエルネスティーネの被っていたフードを脱がしてしまったのだ。

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