第二十七話 設計図 3/3
「大丈夫だ。ああ見えてフェルンはけっこうしたたかで腹黒い。小物のペシカレフ公爵を手玉にとるくらいは朝飯前さ」
「ふーん。信頼しておるのだな」
「信頼もあるが、確信だな」
「確信?」
「狙った女は確実に落とす。それがフェルンだ」
「はあ?マルク・ペシカレフは男だぞ。……まさか……」
「大丈夫だ。お前の考えている『まさか』はない」
「べ、別に私は何も考えてはおらぬ……」
ニームはそう言うとまたしてもエスカの頬をつねった。もちろんそっと。
「さっきのお前の言葉を借りるなら、だ。オレが『女たらし』ならフェルンは『女殺し』だ」
「どう違うのだ?」
「お子ちゃまにもわかるように言い換えてやろう。マルクが頭の上がらない相手を意のままに操れる男。それがフェルンだ」
「――」
「わかったか?」
「誰がお子ちゃまだと?」
「そっちに反応かよ!」
「あの、いかがいたしますか?」
船室の扉が開かれた。
エスカとニームは同時に声のする方を見た。そこにはジナイーダが遠慮がちに顔を覗かせている図があった。
エスカとニームはすっかりジナイーダの存在を忘れていたのだ。
「エ、エスカは船酔いがひどくて出席は出来ないそうだ」
エスカに膝枕をしながらその髪を撫でているところを見られたニームは、そう言うと顔を赤くしてジナイーダの視線から逃げ出すように、顔を背けた。
ジナイーダはすぐにいつもの冷たい表情に戻ると、努めて冷静な声で答えた。
「かしこまりました。エスカ様についてはフェルン様にその旨申し上げておきます。それでニーム様はいかがなされますか?」
「行ってこいよ。使節団の面々にはお前の顔を売っておく方が何かとやりやすくなる」
「そうは言うが」
ニームは本人も自覚せずに、口を尖らせると少しすねたような声でエスカにそう言って駄々をこねた。
「私が夜会に出ると、お前は膝枕を失うのだぞ?」
ジナイーダはさすがにそれを聞くと表情を崩さずにはいられなかった。めざとくそれを見つけたエスカは、ジナイーダに目配せをして見せた。
「心配すんな。お前の代わりにジーナが膝枕をしてくれるさ」
エスカのその失言に、ニームは即座に反応した。
「痛て!」
ニームのげんこつが再びエスカを襲ったのだ。しかも今度は大きく振りかぶられ、勢いまで付けられていた。さらに今度はエスカが痛がっても、ニームは慌ててぶった場所をなで回したりもしなかった。
「こ、この!」
目をつり上げてさらに振りかぶってもう一発お見舞いしようとしているニームに、ジナイーダが慌てて声をかけて、来るべき惨劇を止めた。
「おやめ下さい、ニーム様」
「止めるな、ジーナ。この男は、私ではなくお前を」
ニームは拳を振り上げたままの格好でジナイーダを睨んだ。しかし、ジナイーダの顔はおかしそうに笑っていた。
「エスカ様の言葉を真に受けてはなりません」
「なんだと?」
「エスカ様もエスカ様です。今のはさすがに冗談が過ぎます」
「ジーナの言うとおりだ。さすがのオレも言った瞬間に『しまった』って思ったぜ」
エスカはそう言いながらニームに殴られた場所を手で押さえていた。
「ニーム様はエスカ様が思っていらっしゃる以上にその手の冗談に免疫がないのですよ。それよりも自分の気持ちをどうしていいのかわからずもてあまし気味の娘を相手に、今のはほめられた行為ではありませんね。意地が悪いにも程があります。」
「だな」
エスカは素直にうなずいた。多少の反論があるかと思っていたジーナにとっては拍子抜けも甚だしかった。要するに本当に反省をしていると言うことであろう。
「『だな』ではありませんよ。エスカ様の冗談でニーム様に睨まれるこちらの身にもなって下さいませ」
「じ、冗談にも程がある」
振り上げた拳は納めたが、怒り心頭と言った顔のまま、ニームは今度はエスカの両方の頬を引っ張った。
「私は……私は……」
ニームは頬をつまむ指に力を入れた。その目にはうっすらと涙がにじんでいた。
「ひはいひはい」
エスカはさすがに身をよじって抗議した。ニームはすぐに手を離したが、まだ怒りが収まっていないようだった。
膝枕をしてもらったままの格好でエスカはそんなニームを見上げた。自分を睨む茶色の目が潤んでいるのがわかると、そっと手を伸ばしてニームの焦げ茶色の髪を撫でてやった。
「心配すんな。金輪際、俺はお前以外の女に膝枕なんてしてもらわねえよ。何なら、我が四輪の赤バラのクレストに賭けて誓おう」
エスカのその言葉は、まるで劇薬のようにニームに作用した。今も怒りで顔を紅潮させていたニームだが、エスカの言葉は顔だけでなく、夜会服からのぞく首筋から胸あたりまでを一瞬で真っ赤に染め上げた。
「だから、お前も俺が死ぬまでは、俺以外の頭を膝に乗せないと誓え」
ニームの怒りの表情は一瞬で霧散すると、今度は今にも声を上げて泣き出しそうな顔に変化した。
「こんな柔らかくて気持ちのいい膝枕、俺は誰にも渡さねえぞ」
「ジ、ジーナがいるのだぞ。人前でそんな恥ずかしい事を口にするものではない」
「俺は本当の事を言ったまでだ。別に恥ずかしい事なんてねえよ」
「そ、そう言う言葉が恥ずかしいというのだ。この『女たらし』め」
ぺちん。
ニームの平手が、エスカの頬に入った。だが、それは全く痛みを伴わなかった。ただ、掌がエスカの頬にあてがわれただけだった。
ジナイーダは笑いを抑えるのに必死だった。
そこへ背後から声がかかった。
いつまで経っても戻らないジナイーダの様子を見に来たリンゼルリッヒである。
「おい、ジーナ、何をしているんだ?フェルン様が心配なさって……?」
ジナイーダはリンゼルリッヒを振り返ると唇に指を立てて黙れ、と合図した。そして目で船室の中を示した。
リンゼルリッヒはジナイーダに促されるまま、怪訝な顔でそっと船室をのぞき込んだ。そして膝枕をしながら、真っ赤になってうっとりとエスカを見つめているニームの姿を見つけると、頭をかいた。
「これはこれは、ごちそうさま」
「ばか」
ジナイーダはリンゼルリッヒに目配せすると、そのままそっと船室の扉を閉じた。
「男爵『ご夫妻』は、お二人とも船酔いで出席かなわず。後の事はよしなにと、フェルン様にはご報告を」
「合点承知」
リンゼルリッヒはそう言うときびすを返した。
が、すぐに立ち止まってジナイーダを振り返った。
「いいのかね?あれで」
だが、その顔は微笑んでいた。
「とても、いいんじゃない?ただ……」
「ただ?」
だが、ジナイーダは首を横に振って見せた。
「ううん。たがが外れて暴走しないかなってちょっと思っただけ。でもニーム様に限って、それはないでしょう」
リンゼルリッヒは何も言わず小さく頷くと、報告のためにその場を後にした。
一人残されたジナイーダの耳には、船室の中でまだ少し拗ねているニームと、それをなだめているエスカの声が小さく聞こえていた。
二人のやりとりが聞こえなくなるまで扉から距離を取ると、ジナイーダは小さく一つ、ため息をついた。
「妹。いえ、あんな娘が、欲しいな」
思わず口をついて出た自分の言葉にジナイーダは驚いた。そしてそのままそっと手を胸に当てると、リンゼルリッヒが走り去った方へぼんやりと視線を向けた。
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