第十九話 真赭の頤(まそほのおとがい) 1/2

【真赭の頤(まそほのおとがい)】ことシグ・ザルカバードはもちろん実在した人物である。

 エイル達だけでなくアプリリアージェ一行が追い求めるこの人物は当時の各国の上層部にとってマーリン正教会の賢者として名前付きで認識されているほぼ唯一の人間であった。それは先の千日戦争において教会側の交渉人として表舞台に出てきたからであるが、その姿を見た人間はほんの一握りと言われている。

 文献によればシグ・ザルカバードは禿頭の大柄なアルヴで、自称二百歳だという。見た目は壮年にして周りを震わすほどの大きな声と若々しい笑顔が印象的で、物腰は柔らかいが、しかし一切の主張を曲げることなく諸国との折衝に臨んだとある。

 そのシグ・ザルカバードが突然謎の書簡をシルフィード並びにドライアドの国王宛に送りつけた所から彼を捜す動きが出たのである。シルフィードではル=キリアを鬼籍に入れるという手間までかけて秘密裏にこれに当たらせ、ドライアド側はスプリガンという諜報・特務組織を使って同様に探索に当たらせた。


 シルフィード、ドライアドの各国に宛てたこの「ザルカバード文書」と呼ばれる書簡は現存しておらず、従って内容は推測の域を出ないが、緊迫状態にある二国にとって極めて重要な事が記されていた事は間違いがない。両国が彼の身柄を求めたのはすなわち【真赭の頤】がマーリン正教会内にはおらず、野にあると判断したということも容易に推測できる。

 しかし、それにさかのぼること数年前にマーリン正教会本部が公に各地の教会宛に発布した通達の一部が今日までに発見されている。それによれば【真赭の頤】がマーリン正教会内で事故により死亡した事になっており、だからこそ「ザルカバード文書」が怪文書と呼ばれる訳である。

 最近の研究では各国が【真赭の頤】が生きており、しかも正教会にとって著しく不利になる事柄を漏洩しようとしたのではないかと判断した上で調査にあたらせたというのが定説と言っていい。さらに【真赭の頤】が握っていた物とは、「宝鍵」の一つであろうというのも大方の意見が一致するところである。

 ここで思い出していただきたいのは、エイルが蒸気亭で手に入れた、エルデの知人の少女がルドルフに預けたという「宝鍵」である。

 宝鍵はファランドールに四つしかないと言われる宝物であるが、その存在自体を知るものは少なく詳細はわかっていない。ただ、各地の伝承に「宝鍵は四龍の呼び玉である」というような内容のものがあり、四という数字からエレメンタルと深く関わりのあるものと考えられていた。

 つまり、【真赭の頤】は何らかの理由でマーリン正教会が所有していた「宝鍵」を持ち出し、破門・追放され、さらに正教会側からはもちろんザルカバード捜索隊が各地に散らばったと考えられている。賢者の死亡通知をわざわざ各国の協会へ通知したのはその為だというのである。シルフィード・ドライアド両国はザルカバードが所有する宝鍵を狙って教会側より早くザルカバードを発見・確保することがこの世界情勢では自国に有利になると考えていた事は容易に想像がつく。いや、むしろマーリン正教会に発見されるのはまだいいとして、両国にとって絶対に避けたかったのは相手国に先んじられる事であった。

 【真赭の頤】が宝鍵を持参してどちらか一方の国につくことは容易であったに違いないが、それが発覚する事すなわち正教会との戦闘になることは想像に難くない。未知数とはいえ、百五人の賢者を有する正教会を敵に回す事になれば、二つの勢力を相手に不利な戦争を始めなくてはならない羽目に陥るのは必至である。

 また、ザルカバードの身になって考えたとしても味方になるかどうかがわからない相手の懐に転がり込むのは早計であろう。頼みとする国がマーリン正教会と通じていないとは限らないのである。それはすなわち自分の身の破滅に繋がる。


 要するに両方に書簡を送った【真赭の頤】の意図は両軍の出方を観察するものであったと考えるのが妥当であろう。

 いきおい、シルフィードとドライアドはザルカバードの居場所を血眼になって探すことになったのである。

 もちろん、書簡に交渉の場所が明記されていないのは当然と言えた。【真赭の頤】としては教会側に見つけられる事は絶対に避けたいのである。自らを見つけることができる能力をまず問うたというところなのであろう。


 その事情を含められているアプリリアージェ一行が、エイルを教会の賢者と知ってなお、共同歩行をとろうとしたのは一見奇異な行動に見える。

 【真赭の頤】を探すマーリン正教会の賢者とはすなわち目前の敵と言えた。だがここにアプリリアージェの確かな状況把握能力の高さと戦略の妙味がある。

 アプリリアージェはエイルをいわゆるマーリン正教会の【真赭の頤】討伐隊ではないと見ていたのである。それは最初の頃のエイルとの会話から確信していたと考えられている。エイルが賢者であることには間違いなく驚いたであろうが、一行の正体がエイルにはすでになぜか見破られていたにもかかわらずアプリリアージェの目的がエイルにはわかっていなかった事が決定打となった。エイルは教会側の賢者であったとしても、討伐隊とは一切関係なく、おそらくは私事で【真赭の頤】に会うために旅をしているとアプリリアージェは確信したのである。賢者の組織や詳細を知らないアプリリアージェだったが、人物を見抜く目については、彼女の人事登用の足跡を辿れば疑いようがない。彼女はエイルを「敵」とは見なさなかったのであろう。むしろ「駒」として利用しようと考えたのは戦略家の面目躍如と称えるのは簡単であるが、おそらくアプリリアージェにしてみれば、エイルとそのまま別れる訳には絶対にいかなかったと言う方が正解ではないだろうか。エイルが他の賢者と連絡をとったが最後、アプリリアージェ達が教会の討伐隊の標的になることは火を見るよりも明らかなのだから。

 アプリリアージェはだから、自分たちの任務の多くをエイルに情報として提供していくつもりでいた。ただし、そこは駆け引きである。いざとなればエイルを亡き者にして障害をなくしておきたかった。だからこそ細心の注意力でエイルの弱点を探ったつもりのアプリリアージェであったが、その無防備ぶりにむしろ面食らっていた。つまりはアプリリアージェにとってエイル・エイミイは「こちらから手を出さない限り当面命のやりとりをする相手にはならない」という存在なのであった。

 自らの背中の入れ墨を見せるという、極めて無防備な姿をエイルの前に晒したことも、そう考えるとアプリリアージェの周到な確認手順であったのかとさえ思える。おそらく最終確認のようなものであったろう。無防備な姿を晒したとはいえ、それは賭のような運に任せたものではなく、裏打ちされた……つまり隣の部屋では弓を番えたテンリーゼン・クラルヴァインがエイル・エイミイを的に据えて居たに違いないとはこの物語だけにある想像記述に過ぎない。そしてもちろん、今ではそれを証明できる術はない。


「賢者エイル・エイミイは敵にあらず、か」

 テーブルを挟んでアプリリアージェの対面に座したハロウィン・リューヴアークは髭を撫でながら独り言のようにつぶやいた。

「で、その彼は?いったんここに帰ってきてた様だけど」

「きっと大市でしょう。エリー……ネスティ達も向かったのでしょう?」

「ああ、すごく楽しみにしていたからね」

「一応、ファルケンハインとアトラックも向かわせてはいます。もっとも護衛ではなくて市を楽しんでこいと伝えましたが」

「ファルはまた例の?」

「ええ」

 アプリリアージェは小さくうなずいた。

「骨董屋巡りでしょうね」

「ああ、例のリリスの飾り物探しか」

「店を持つのが彼の夢ですからね。いつか叶うといいと思います」

「そうだね」

 

 アプリリアージェの部屋には大きな居間がある。そこには外側に開く窓があり、明るい日差しに満ちあふれていた。その居間にはこざっぱりした木のテーブルと椅子が四脚置かれていて、午後のお茶を窓の下を行き交う人々を眺めながら楽しむにはうってつけだった。

 部屋には別に附室があって、そこにも椅子とテーブルがしつらえてあったが、窓がないので暗かったのだ。


 テーブルには三人。

 ハロウィン・リューヴアークとアプリリアージェ・ユグセル、そしてテンリーゼン・クラルヴァインが思い思いに熱い紅茶の入ったカップを口に運んでいた。

「彼の能力のすべてはそれこそ未知数ですが、今のところどう考えても私たちに敵意を持っている存在とは考えにくいのです」

「やはり、討伐隊ではないと言うことか」

「彼の口から賢者だと名乗られた瞬間には身の凍る思いがしました。あの恐怖の感覚は初めての経験かもしれません。今まで積み上げてきたものが次の瞬間にすべて灰に帰する事への絶望感というか……」

 アプリリアージェの言葉をハロウィンは左手を少し挙げて制した。

「君はどんな時でもそんな弱音を吐いてはいけないはずだ。そうだろう?リリア」

 アプリリアージェはハッとしたように顔を上げると、口元をすこしほころばせた。

「私としたことが……先生の前だとつい甘えが出てしまいました」

 ハロウィンはそんなアプリリアージェにウィンクをしてみせると椅子を立ち上がってアプリリアージェの横に立ち、窓から通りを見下ろしながら、そっとアプリリアージェの肩に手を置いた。アプリリアージェは少しうつむき加減でその手の体温と重さを実感しているようだった。

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