駄文2018/03/06

・「楽しい・嬉しい」の供給


今日は調子が優れず、スケッチは1点にとどめ、有料マガジン用のイラストを作った。この定期ブレストを終わらせれば最低限の日課は終わり、あとの時間は期限の迫った図書館の本を読むのにあてる。PCの充電ケーブルも携帯の充電ケーブルも忘れてしまったのだった。何でも忘れ過ぎるのがつらい。帰宅時にはCD-Rを忘れずに持ち帰り、夕食後はまた楽器の練習をするので、サックスのリードを忘れずに持っていくこと。



物事を楽しいと思ったり、嬉しいと思うことも、有限であるか、何らかの消耗をともなうようだ。昨日まで楽しかったことが楽しくない。半日寝ると治ると分かっているので、深刻にはならずに過ごすものの、うまく回っていない部分があるということも事実である。



特にスケッチ・イラスト関係については、SNS上のリアクションに依存しすぎている傾向がある。もちろん、外的要因に動機付けを行うこと自体が悪いわけではないけれど、自分の力でどうにもできないことに頼っていることは、少しずつでいいから減らして、自足の割合を高めていきたい。



油断するとすぐ遅くなる就寝時間については、一日に対する「未練」のようなものが原因なのかもしれない。一日を使い切ったという気持ちがあれば、潔く寝ようと出来るところを、どうも起きて何かをしていなくては気が済まない。それも、たいていゲームをしたり、SNSを眺めたりするばかりなので、明らかに寝たほうがいい。



この「未練」というのが、「楽しい」と思うことについての未練であるのかな、とは思う。一日を使い切るということも、リアクションを得ることも、達成感や承認感として「楽しい・嬉しい」ということに帰結する。だとすると仮に、日課を放棄して、何の制限もなくやりたいことをやった場合、未練が発生する余地のないほど「楽しい」一日を過ごすことになり、これが休暇とかリフレッシュとかになるのだろうか。



ただ、日課を全て投げ出してまで何かしたいことがあるかと問われると、無い。実現可能な水準に落とし込んだ「やりたいこと」が日課でもあるので、それが「やりたいこと」を(就労業務のように)妨げているわけでもない。



日課以外にやりたいことがあるとすれば眠ることである。厳密には意識を失うことなく横たわり続けて、脳裏に浮かぶ連想に任せる時間を持つことなので、これは瞑想の類なのかもしれない。しかし事あるごとに半日寝て過ごす自分でも、その度に防疫上のリスクや体力の低下を感じており、できることなら最小限の長さにとどめたい。



なるほど、この空白を埋めるものが「他者とのコミュニケーション」なのだろう。内容の貴賎を問わず、コミュニケーションによって発生する緊張と弛緩は、それを危なげなく出来る人間にとっては、「楽しい・嬉しい」の供給に繋がり得る。これに代わるものを見つけなくてはならない。



一つは、過去の自分のテキストを読み、そこにコメントをつけるということだ。これは一時期「1分間メモ」というものをやって、それを見返すということをしていたが、最近はメモが増えるばかりで見直しをしていなかった。そのメモの中には「話の合う」自分がいてもおかしくはない。



もう一つは、本などのテキストを読むことだ。これはどうしても気力を費やすものだけれど、直接に他者とやり取りをすること以外では、最も他者性を見出すことができる。(ここでPCの電源が切れる)もしかしたら、直接会うよりもいいかもしれない。



・快不快を何に担保させるか


自問自答でも、コンテンツ消費でもいいから、自分で「楽しい・嬉しい」を供給すること。そして供給が通用しなくなった時、ただちに休むことができること。これら消費と休養の前提として、経済的な安定があるとなお良いのだけれど、逆にこれが維持できる程度の状態を、経済的に安定していると言ったほうがいいのだろうか。



だとしたら、先行きは不透明ではあるけれど、今が安定している方なのかもしれない。この一年間弱のモラトリアムのうちに何がしかを獲得しなければいけないが、最も手に入れるべきものは、経済的な制限の緩和か、経済的な制限にとらわれない「精神の自足」構造だろう。



極端に考えてみよう。たとえば常に「楽しい・嬉しい」の状態にいる人間であれば、その状態を実現させるためにコストがかからない。ただ、そういう人間はちょっと怖い。自足し過ぎると、問題解決への意欲が失われる。常に「楽しい・嬉しい」人間は、どんな状況でもそうなので、危機的状況でもそうだということになる。



したがってここで求められるのは、自足しているだけではなくて、問題は問題としてとらえ、率先して取り組みつつ、すぐに「自足」の状態に切り替えられることで、極端な消耗や気力の枯渇を回避できる人間像だろう。そういう人間に、他者やお酒などの力を借りずになるためには、どうしたらいいのだろう。もちろんその方法は個人によって千差万別であるから、あくまで自分の場合について考えよう。



そういえば、他者からのリアクションに頼ることには脆弱性があると書いたが、同様の問題が、「作品の出来」に頼る場合にも起こり得る。自分でやっていることではありながら、まったく安定しないその結果に、自分の快不快までを担保させようというのは、もちろん思ってたよりうまくいった場合に喜んでいる分には構わないけれど、思ったほどうまくいかなかった時に落ち込むことのダメージを考えると、どうも性に合わない。



真剣になれば一喜一憂するのは当然と思われるかもしれないが、一喜一憂することが真剣であることの証明にはならないし、なんなら自分はものごとに真剣になることができない人間だと言い張ってもいい。全力であることよりも、ピントが合っていることの方を重んじる流派だともいえる(どうせ職業人であればその二つを両立させてかつ平静を保っていられるのだろうから、当然に邪道ではある)。



そういうなまくらな自分だと、快不快を担保させるものとしての第一候補は身体かなと思う。神経と筋肉疲労、消化器系と血流において、何らかの不調が無い限りは「快」である。つまり大抵はどこかがおかしい。身体性かどうかは微妙だけど、これに睡眠感も追加しよう。



すると、漠然とイメージしていた生活の構造が、だいぶ明らかになってくる。身体性のメンテナンスは「楽しい・嬉しい(快不快)」のためにあり、その自足が要求する時間的制限と経済的制限によって限定された領域の中で、実現可能な日課を継続する。身体性と経済性の向上には、おそらくS字曲線のような実質上の限界があり、その限界をだいたい維持できる生活を送れるようになることが、日課の最終的な目標である。



・具体的な対応


翻って、現況はどうかを考える。ブレストに(今回は電池切れだったが)帰宅後までかかるというのは日中の時間を有効に使えていないことの証拠であり、その原因として、身体性メンテナンスによって供給しきれていない「快不快」のために、脱線というロスが発生していることが挙げられる。



また、日課の「最低限」についても、もしかすると妥当ではないかもしれない。アウトプットを優先する点については自分の判断というか好みなので良しとしても、順番を入れ替えたりルールを改める必要があるかもしれない。いや、それにしてもまずは身体性メンテナンスの見直しが先だという気がする。



では具体的に、「身体性メンテナンスの見直し」とはどういうことを指すのか?たとえば楽器の練習頻度を下げて、手始めに今日行く予定だった分を取りやめる?または起床時間を遅くする?そのどちらも日課の水準を低下させる選択ではあるが、無理して気絶、無理して気絶、を繰り返すよりはマシなのだろうか。それに水準といっても、今やっている程度であれば休んだところで大差ないのかもしれない。



それとは別に、身体能力の向上をこそ目指すべきなのか?筋肉量の増加によって稼働時間を延ばすか、日中の脱線を減らす、つまり脱線に頼らず身体性の「快」を維持できるようにする。それを考えると筋肉だけではなくて、姿勢の問題も大いにあるのではないか。



そういうことを考えて、一日が過ぎていく。今日は妥協案として、夕食後の仮眠を再開してみるけれど、起きられなければ、それはそれで構わない。筋力については、プロテインの購入を検討しよう。ただし、出費がかさんでいるので、これは来月か今月末にすること。

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