駄文2018/02/26

・やりたいことをやる


だいたい風邪は治って、日中の作業を再開しようと思ったけれど、なんとなく昼過ぎまで絵ばっかり描く。職場が早く閉まったので歯医者に行くなどする。



やりたいことをやっている間は無心になれるのかというと、別にそういうことはなく、過去にあった嫌なことや、懸案について延々考えていている。ただ、しんどさがない。



この感じは寝ているときの感じに近い。感情の高ぶりはあっても、寝ているという、その時点での状況に満足していればやがて収まるので、放っておいて良い。



できるだけこういう時間を多くして生きていきたい。広い意味で眠り続けていたい。眠っている状態に近いかどうかで、今やっていることが「やりたいこと」なのかどうかを判定したい。



そうすると、日課でもやりたくないと思うことがある。つまり、眠っている時のような感覚が失われている場合がある。そういう時は一旦やらず、後回しにするか、最悪省略する。自分はやりたいことをして生きていたいのであって、過去にやりたかったか、過去にやろうと決めたことをやって生きていきたいのでは決してない。もっともそれらが重なるのは一向に構わない。



また、一つの作業の中でも、その睡眠(没頭)の深さには変化がある。はじめは「別にやってもいい」という程度でもいいのでやり始めると、そのうちに眠りに落ちる。色々な連想、大抵は過去にあった嫌なこととか、将来誰かと話すかもしれない話題についての考えなどが、浮かんでは消える。



ところどころ修正のために、少し我に返って客観的になる。明け方に何度か目を覚まして、もう少し寝ていようとするようなもので、やがて終わりにして、起きることにする。



習慣化ということについても、睡眠のサイクルと同様に考えるべきかもしれない。風邪の影響で最近は日課に集中できなかったために、睡眠(没頭)が不足していたと解釈してもいい。



では、「やりたいこと」を「睡眠」と見立てた場合の「運動」とは何だろうか?あまり考えたくないことだけれど、それが「現実における嫌なこと」だとしたら、それこそかなり嫌だなと思う。



「現実における嫌なこと」の持つ、「没頭」とは逆の性質を、別のもので代替できないか。と考えた時に、それが読書や作品鑑賞などのインプットではないかと思う。



ただ、「映画に没頭する」という表現もあるので、あまり混乱の生じない呼び方というか、基軸を考えた方が良い気がしてきた。たとえば、睡眠や趣味に打ち込むという「内的没頭」と、現実に対峙したり、作品の刺激を浴びるという「外的没頭」の二つに分けるというのを試してみようと思う。



・暫定的な分類


本来的な、社会的人間というのは、外的没頭のために内的没頭の時間を設ける必要があるもので、自分の場合は(自分に限ったものではないだろうけれど)、内的没頭のために外的没頭を必要とする、というように考えることができるだろうか。



感動した作品や体験が枯渇すれば、内的没頭の要請により、強烈な印象をもった記憶のうち上位のものが再生されるとしたら、それらは大抵トラウマめいた嫌なこと、思い出したくもないことばかりになるというのは腑に落ちる。危機的な状況についての印象を反復することで、その要素を抽象化して、同様の事態に陥ることを未然に防ごうとする装置が人間に備わっている。その抽象化のプロセス自体を目的として活動することが、内的没頭型の生活とでも言うようなものなのかもしれない。



しかし、そのためだけに毎日映画を観たり、本を漁るように読むということができない。これは、映画でいえば2時間前後という、自分にとっては長い時間を消費して、それに見合う価値を見出せなかった時の落胆や、翌日までダメージが残ってしまった際に発生する二次災害、あるいは本でいえば興味の喪失による中断と購入費用の不良債権化を、自尊心の摩耗という形で評価するなど、そういった失敗による学習があるためである。



それでもいい、それでも作品鑑賞に臨む、という選択が可能になるのは、あたかも投資活動のように気力体力精神力の「余剰」が発生している場合においてである。厳密に余剰と呼べるかは疑わしくなってしまうが、その投資活動のための余剰を生み出すことが、本業である内的没頭の進捗のために必要不可欠だということなのかもしれない。



・人間脳システムの成長と衝撃吸収


ただし、そこまで自分の余剰に頼らなくてよいケースもある。その作品自体が快楽的な刺激を持っている場合である。ただ快いだけではなくて、刺激が刺激にとどまらず、その作品に対して何かを考えずにはいられない、何かを揺るがしかねないような、「快楽的な危機」の要素を持っている場合である。



これは「危機的な快楽」というよりは安全な、自己破壊というよりは自己融解というようなニュアンスを含む。蛹の中で(それが破られないという前提で)保護されながら、ゆるやかに再構築されていくような、その再構築の場こそが、眠りの場、死と再生の場であるとするならば、今度は逆に内的没頭を外的没頭が要請する。すると「快眠」が実現する。



もちろん外的没頭の対象が作品である必然性もない。ショッキングなことも全てが不快というわけではない。また、その快楽と危機は、事前に収集した情報の組み合わせが多ければ大きいほど発生する割合が高くなる。年をとると涙もろくなるのは、結びつく情報の断片が多く、またその組み合わせのための回路が多くなっているためではないだろうか。



しかし、「数が膨大になるほど、あるいは密度が増大するほど、再構築を要する衝撃の発生(衝撃の認定)率があがるシステム」というのはずいぶんヘンテコな気がする。成長したシステムは、再構築され得ないか、あるいはその影響範囲を限定する方向へ行くのではないか?



そう考えると、頻度こそ増えはすれど、自分の存在や前提を覆す程の体験に限っては、これはかえって若年にこそ起こりうるのだろう。それは同等の出来事でもシステムの成長率によっては相対的に巨大になり、部分的な再構築では受け止めきれなくなることがあるということ、もしくは、その衝撃も成長過程に含めるということなのかもしれない。

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