第190話 囁かれる言葉

 冬也の視界は暗闇に包まれていた。

 光も差さず、視界も遮られただけで無く、体を動かす事すら出来なかった。神気を高めようと集中しても、周囲に拡散し体に纏わせる事が出来ない。

 マナも同様に、吸い取られる感覚があった。


 今しがたまで、冬也の目の前には邪神に操られた女神の体があった。しかし邪神が、指を鳴らした途端に、冬也の視界は暗くなった。

 何が起きたのか、冬也には全く理解が出来ない。ただ一つだけはっきりとしてるのは、今の状況が決して良くないと思える事だけ。


 だが、いくらもがこうとも、指先の一つも動かない。そもそも、指があるのかすらわからない。

 真っ暗なのか、ただ見えないのか、物理的に視界が封じられているのか、それすらもわからない。

 音が聞こえない、それは単に音がしないのか、聴覚を封じられているのか、全くわからない。

 風が無い、感覚が無い、何も感じない。


 神気が使えない。マナが使えない。体が動かせない。見えない。聞こえない。感じない。匂わない。

 自分の体がどうなっているのか? 死んでしまったのか?


 死では無い。かつてシグルドの虹色に輝く魂魄を見た。死はこんな形で訪れない。

 では、何が起きている? 意識は有るのか無いのか。自分は思考しているのか、していないのか。

 魂魄は? 心は? 感情は?


 どのくらい時間が流れたのか、一秒なのか一時間なのか。

 感覚が狂わされていく。思考が惑わされていく。それは暗闇の中で、澱みに引き込まれる様に。


 全てを失ったのか? 何も無くなったのか? これが無なのか? これが終焉なのか? これが消滅なのか?


 思考は緩やかに停止する。

 わからない。わからならい、わからない、わから、わから、わか。


 感情は緩やかに消滅する。

 楽しい、悲しい、悔しい、怖い、何も感じない。

 何も、何も、何も、な、なあ、にも。


 五感以上のもの奪われた。そして思考を奪われ、感情を奪われた。

 冬也は完全な無と化していた。何も持たざる者となっていた。

 停止した。いや、停止したと言わざるを得なかった。


 無ではない有。有ではない無。そこは矛盾した虚無の空間であった。


 ☆ ☆ ☆


 原初の神にも並ぶ神気を持ち、尚も成長を続ける冬也。その冬也が、虚無に囚われた。

 

 邪神はただ指を鳴らした。ただ、それだけである。邪神は、それ程の力を持っていたのか?

 エンシェントドラゴンであるノーヴェを瀕死に追いやった、数千にも及ぶ黒いドラゴン。その黒いドラゴンの群れを、一瞬にして切り裂いた冬也。

 その冬也を一瞬にして捕える力を、あの邪神は有していたのか?

 

 アンドロケイン大陸では、混沌の神グレイラスと戦いの神アルキエルを倒した。ラフィスフィア大陸では、ペスカと共に邪神ロメリアを消滅させた。

 大陸南部に現れた邪神の分体は、ペスカの手を借りて倒した。大陸西部に現れた邪神の分体は、ペスカと女神の手を借りて倒した。


 それだけの戦歴を持ち、力を増し続ける冬也。対して、ただ女神の神気を借りただけの邪神。しかもただの分体に何が出来る。


 だが今、冬也の意識は、無の彼方へ。冬也の魂は、無の彼方へ。

 冬也の身体は・・・


 それは、二度と解ける事の無い拘束の様に、冬也を縛め続ける。それはもう、生きているとは言えない。もし生きていたとしても、生ける屍。

 

 思考を奪われた冬也は、疑問を持つ事が無い。感情を奪われた冬也は、不安を感じる事が無い。

 恐怖に捉われて発狂する事も、叫びだし暴れる事も。混乱し、怯えて、喚き散らす事も、何も無い。

 

 そこは虚無の空間。

 闇が無い。光が無い。悪意が無い。善意が無い。邪気が無い。静謐でも無い。大気が無い。概念が無い。空間が無い。時間が無い。

 何も無い。


 だから、冬也の存在を認めない。冬也はそこに存在し、存在しない。


 冬也の真実は失われた。冬也の概念は失われた。そこに存在するはずの冬也は、認められない。

 居る、居ない、居る、居ない。どちらでもあり、どちらでも無い。


 死んでない。だか、停止している。

 消滅していない。だが、紛失している。


 どちらでも無い。どうでも良い。

 人の生死や神の存在、そんな事は重要では無い。 

 

 ここは虚無の空間。

 何が起きたかも、何が起きているかもわからないまま。どれだけ時が過ぎたのかわからないまま。その空間に声が響いた。


「失われた世界、あるべき世界、その姿、その想いを知れ」


 感情の無いロボットの様な声が、淡々と響いた。

 それは、矛盾した虚無の空間に、冬也に意志を伝える言葉。聴覚を奪われ、思考を奪われ、存在を奪われた冬也に直接響いた。

 聞こえているのか、いないのか、何もかも不明な中で、ただその言葉だけが無情に響いた。

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