お喋り人形の国の王子様
親を嫌って家を飛び出すのは、これで四度目になるが、何度飛び出しても、飛び出してから行き場が無いことに気付いて、一瞬で失速する。
しかし、愚痴と八つ当たりが四六時中ちくちくと身を刺す家から、一旦飛び出してしまうと、燕心という的を失って、矢玉が山と蓄積されているであろう家に帰るのも恐ろしく、その結果が「家出少年です」と書かれた看板を高々と掲げて歩いているような、この哀れな歩き姿だった。
今はまだ、歩き続けるという選択ができるが、そのうち、家に帰る以外の選択をできないようになる。ただの引き伸ばしだ。既に日が傾きつつある。
なんとなく、見覚えのない道へ、見覚えのない道へと歩き始めた。家に帰りたくない以上は、知らない場所に向かうしかないと思った。
未知への恐怖をねじ伏せ、知らない道を選ぶ。知らない道の先は、当然知らない道だ。何度か丁字路や十字路を通過して、入ったことのない住宅街に来た。
住宅街?
住宅街!
野山に飛び込んでいくような道もあるのに、無意識に住宅街を選んでいる。そこに自分の弱さが見える気がして苛立ちを覚えた。
そして、苛立った次には、野山に分け入って行ったところで、無様に遭難するのがオチだという無力感が押し寄せてくる。
押し寄せてくる無力感は「お前は家で八つ当たりの的になっているのが似合いな程度の人間だ」と雄弁に語る。
燕心はげっそりとして、その場に膝をつきそうになった。
何がいけなかった? どうしてこんな時に、どこにでも行ける強さが自分には備わっていない?
誰かが人生は配られたカードで戦うしかないと言っていたが、こんなクズ札ばかりで、どう戦えというんだ?
自分が歩いてきた十五年の中に、強いカードを握るチャンスはあったのだろうか? あったなら、それはどこだったのだろうか?
あったのを愚かさゆえに逃したなら、諦めがつく。現状は、愚かにも救いの手を見失ったか、振り払ってしまった罰というものなのだろう。
そもそも無かったのなら、人生というものは――少なくとも燕心のものは――正真正銘のクソなのだとツバを吐きかけることで、いくらか気分が晴れるだろう。諦めもつく。負け戦の無気力の中に、投げ出すことができる。
いや、もう、そういうことにしてしまって、全部投げ出してしまおうか。
そう考えているところに、声と匂いが割り込んできた。少し遠くの広場に、人が集まって、何か煙が立っている。
火災、という雰囲気ではない。様子を見に少し近寄ると、折りたたみ式の長椅子やテーブルがいくつも用意されているのが見えた。
そこから、燕心に気付いた同い年ぐらいの少年が歩み出て、声をかけてきた。
「今ちょっと時間ある? 魚焼きパーティーやるんだけど、混ざらない? ってか混ざってくれる? ちょっと食いきれるか怪しくて」
燕心は反射的に断ろうとしたが、ここで空腹を満たしてしまえば、もうしばらく歩くだけの時間を引き伸ばすことができると思い直した。
「良いけど、見ず知らずの俺が本当に入って良いのか?」
「大丈夫大丈夫、そもそも全員知り合いってわけじゃないから。なんとなく近所の人が集まってきてパーティーになったってだけなんだよ」
そんなことがあるだろうかと思いながらも、挨拶して輪の中に入っていくと、少年が言う通り、本当にゆるい集まりのようで「そこの人」とか「赤いシャツの方」とか、名前を知らないと思われる呼びかけが飛び交っていた。
小さな子供も八人ぐらいいて、並べられた魚を物珍しそうに見ていたり、魚焼きグリルに張り付いて焼き加減を見たりしている。
やや無秩序な空間の中で、柔らかいというよりは、どこかマヌケな微笑みを浮かべた男女の一団が、機械的にグリルを操作し、魚と野菜を皿に盛っている。
もしや、何か怪しい宗教の集まりに来てしまっただろうか? そんな疑念が湧いたが、統一感が無い方の集まりと見比べると、よくわからなくなってきた。
勝手もわからず、手持ち無沙汰で、なんとなく魚をじっと見てしまう。黒っぽい、そこそこ大きな魚だ。そればかりズラッと並べてあって、その横に、近所のスーパーで買ってきたらしい他の魚や、味醂干しのパックが、ぽつぽつと置いてある。
黒っぽい魚の名前がわからない。それだけのことですら、今は燕心の無力感を刺激した。
「なかなか立派だろ」
少年の声に驚いて、燕心は少しよろめいた。
「あ、ああ、うん」
反射的に肯定してしまったが、名前も知らない魚だ。通常より立派なのか、そうでもないのか、その判断もできない。
少年は、そんな燕心の心の動きなど、まるっきり無視して自慢気に笑った。
「俺たち電脳水産会で養殖したやつなんだ」
言いながら慣れた手付きで捌いてグリルの方に渡していく。
「電脳水産会……」
上手い聞き方が思いつかなくて、言葉に詰まったが、少年が話を続けてくれた。
「俺と、向こうで焼き係をやってるのがそうだよ。あとからもう何人か来るかもしれない。
そこそこ小規模な設備での、できるだけメンテナンスフリーなー、あー……効率的食料生産ってやつを研究してるんだ」
「すごいな」
口ではそう言ったものの、気分がさらに沈んだ。
ほとんど年の差など無いだろうに、燕心と少年の間には、天地の差がある。
燕心は、こんな、力のある人間になりたかった。
「大丈夫か?」
「ああ、うん、ちょっと、色々あって」
「苦労してるんだな。どっか座って楽にしててくれよ」
ただじっと座っているというのも、それはそれで辛かったが、燕心には、この場に自分の仕事を見つけることができなかった。
崩れ落ちるように、長椅子に腰を下ろした。
頭の中は、ただ暗澹としていて働かない。
燕心は何も考えなかった。どんよりと、ただ時間が過ぎていくのを見ていた。
そのせいで、すぐ隣のテーブルに皿を置かれた時、妙に驚いてしまった。
「できたけど、大丈夫か?」
あの少年だった。
動揺のあまり、硬直してしまって声が出せず、どうにか頷いてみせた。どうして自分がこれほど動揺したのか、この時の燕心には、それも理解できなかった。
恐らくは、マズい相手――例えば燕心を家に連れ戻そうとする誰か――に見つかったのではないかと、そんな恐れのためだったのだろう。
「いただきます」
口の中が乾いていたが、それでも魚がジューシーなおかげで、しっかりと味わうことができた。
食べ進めるうちに、燕心は徐々に落ち着いてきた。
賑やかだが、静かな食事だ。周囲の状況に対して、神経を使う必要が無い。
「美味い」
ぽつりと呟いていた。
「そうだろう、そうだろう。おかわりもあるぞ。タルタルソース使うか?」
「ありがとう」
後ろの方が上ずった。神経と一緒に、涙腺まで緩んでしまったらしい。
「お、おい、泣くほどだったか?」
燕心はどうにかしようと思ったが、どうにもならなかった。
燕心が泣く様子を見てか、グリルを操作していた一団まで集まってくる。
「どうかしましたか?」
「色々、苦労してるみたいなんだ」
「しばらく、ここにいてもらうのはどうでしょう」
話が進んでいく。帰らずに済むのは嬉しいことだが、同時に心苦しさで潰れそうにもなる。
「そこまで、世話になるわけには……」
「良いんだよ。部屋を貸すぐらい、慣れてるからさ。気分が良くなったら、その時に帰れば良いじゃないか」
少年は、まるで傘を貸すような気楽さで言う。多分、本当に、慰めでもなんでもなく、慣れているのだろう。
「……ありがとう」
「良いってことよ。部屋は、どこが空いてたっけな。あちこち連絡するのはそっちに任せて良い?」
「大丈夫です」
見る間に各種の手配が終わって、燕心は、ここにしばらく滞在できることになった。
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