(8)千尋の決意

「今日は、そんな事があったの……」

(この話も、あの人には言えないわね……。「猫に慰められるとはどういう了見だ」と、怒るか嫌みを口にしそう)

 夕食時にいつになく口が重かった千尋に、さり気なく日中の事を聞いてみた理恵だったが、コメントに困ってしまい、聞かなければ良かったと後悔した。しかし母親の戸惑いなどを全く無視し、聡美が大真面目に感想を述べる。


「う~ん、確かに算数って、答えが何通りもあるって事は無いよね。『この条件に当てはまる数字を答えなさい』って問題だったら幾つも出てくるけど、全体で一つの答えと考えると他はあり得ないし」

「さんすうって、すごいんだね~! ぼくもやってみたい!」

 ここで何やら姉に触発されたらしい健人が、目をキラキラさせながら訴えてきたのを見て、千尋は笑顔で頷く。


「勿論、健人にも教えてあげるからね? 幼稚園で数字の読み書きとか、少しはやってるよね?」

「うん!」

「それで今日はその子に、算数を教えてあげたのね?」

 ここでさり気なく理恵が話を戻すと、千尋は真顔になって言い出した。


「そうなんですけど……。今日は本当に、色々と考えさせられました」

「しれはどういう事?」

「今日は取り敢えず、解き方のヒントをあげて、ほとんど答えを教える位のやり方で解かせたんですけど……。どうもその子、一年生の時からつまづいていたみたいで、どうも基本的な概念があやふやと言うか、そのままできてしまったみたいなんです。だからこれ位は分かるだろう的な教え方だと、その場では取り敢えず解けても、次回は無理と言うか応用が利かないと言うか」

 それを聞いた理恵が、心配そうな顔になる。


「あら……。それならこれから、その子は益々困るんじゃない?」

「そうなんです。だから益々分からない、つまらない、余計に嫌い、の悪循環になるのが目に見えていて……。だから自戒も含めて、数学嫌いの人間を確実に減らすべく、とことん努力してみる事にしました」

「自戒って、どういう意味?」

 本気で首を傾げた理恵だったが、そんな彼女に対して、千尋は苦笑いの表情で説明を加えた。


「今回の事で、勉強して内容を理解する事と、それを他人に教える事は全く別物だって、きちんと理解できたんです」

「でもお姉ちゃん、教え方上手いと思うよ? 前に教えて貰った時、私、ちゃんと分かったし」

 思わず口を挟んだ聡美だったが、それに千尋は苦笑を深めながら答える。


「聡美は、基本的なところはきちんと理解できていたしね。全くわけが分からない人間に教えるのとは、結構勝手が違うのよ」

「ふぅ~ん? そんなものなの?」

「そうなの。でも、本当に指導が必要なのは、そういう子達の筈だし。予備校の講師の面接を受けた時、簡単な模擬授業とかさせられた事もあるんだけど、改めてそれを思い返してみると、単に自分の知識をひけらかしているだけの、生徒目線に欠けた鼻持ちならない授業だったのかもしれないと猛省したわ。本当に恥ずかしくて」

「えぇ~? そんな事は無いと思うけどな~」

 自嘲気味に語る姉を見て聡美は納得しかねる表情になったが、千尋の気持ちは十分に理解できた理恵は、穏やかな笑顔で声をかけた。


「でも、今まで理解していなかった事に気付けたのは、それだけで良い事よね」

「ええ。だから本人の了承も取りましたし、この際、とことんやってみようと思いまして。それで理恵さん。聡美の一年生と二年生の時の算数の教科書が残っていれば、使わせて貰いたいんですが」

「分かったわ。捨てずにしまってあるから、ご飯を食べ終わったら出すわね」

「ありがとうございます」

 そこで千尋は交渉の相手を、継母から弟に変えた。


「それから健人にも、お願いしたい事があるんだけど」

「なに?」

「今まで算数とか全くやっていなかった健人に分かるなら、裕貴君にも理解できると思うのよ。お姉ちゃんの教え方の、練習台になってくれない?」

「うん、やる!」

「ありがとう。健人にもしっかり理解できるように、お姉ちゃん頑張るからね!」

「お姉ちゃん、ノートとかもいるよね? 升目の大きい物が余ってるからあげる」

「ありがとう。買いに行く手間が省けて助かるわ」

 それからはやる気満々の健人を中心に話が盛り上がり、四人は楽しく夕食を食べ進めた。

 そして子供達が夕食を食べ終えて少しして、義継が帰宅した。彼はいつも通り黙々と夕食を食べ進めたが、半分程食べてから傍らに座っている理恵に、訝しげに声をかけた。


「今日は随分無口だな」

「え? そうかしら?」

「いつもは猫がどうのと、五月蠅い位だろうが」

「ああ、そういう事ね……」

 そう指摘されて、理恵はいつもよりかなり口数が少なかったであろう事実に気が付いた。


(千尋さんが猫に慰められた話をしたら、この人が「猫に憐れまれるとは何事だ」と不機嫌になるかもしれないから、自然に口が重くなっていたのね。でも千尋さんの事は聞きたがっているみたいだし、そこら辺はちゃんと省略して話をしてあげましょうか)

 そう素早く算段を立てた理恵は、余計な事は喋らず、千尋から聞いた話をかいつまんで説明した。


「……と言うわけで、算数が苦手なお子さんに、千尋さんが教える事になったそうよ」

「あいつは昔から、数学は得意だったからな。…………数学だけは」

「あなた」

 皮肉っぽい口調の夫を軽く窘めると、義継は再び黙々と食べ進める。それを見た理恵は、溜め息を吐いてから付け加えた。


「千尋さん、これまで以上に柔軟な考え方ができるようになって、今回お店をお手伝いする事にして良かったわね」

「それ位、収穫が無いとな」

(本当に素直じゃ無いんだから。本気で千尋さんに愛想を尽かされても知らないわよ?)

 素っ気なく切り捨てた夫の台詞に、理恵は完全に匙を投げた。

 その後、夕食を食べ終えた義継は、持ち帰った書類を精査する為、二階の書斎に向かった。すると階段を挟んで向こう側から子供達の声が漏れ聞こえてきた為、何となくそちらに足を向ける。


「ええっと……、きゅうひくさんは、ろく!」

 どうやら健人の背丈では自分の机は使い勝手が悪いと判断したらしく、千尋は適当な箱を机代わりにし、カーペットの上に正座している彼の前に置いていた。更にそこに置いたホワイトボードに、計算式を書いたらしい健人が声を上げると、千尋が満面の笑みで弟を褒め称える。


「凄い、健人! もう一桁の足し算引き算なら完璧じゃない! 天才よ!」

「すごい?」

「もうぶっちぎりよ! 未来の著名数学者の顕現を、目の当たりにしている気分だわっ!」

 そんな大興奮の千尋を見て、弟と一緒に姉の部屋に来ていた聡美は、少々引きながら感想を述べた。


「お姉ちゃんって……、姉馬鹿だったんだね。今まで、知らなかった……」

「さあ、健人! この調子で、二桁の足し算と引き算に行くわよ? そして明日は、繰り上がりと繰り下がりを攻略するわ! 覚悟はいい!?」

「ファイト、オー!」

「…………」

 聡美の呟きをスルーし、異様なハイテンション状態で雄叫びを上げた千尋と健人の姿を、こっそりと開けたドアの隙間から目撃した義継は、再び音もなくドアを閉めた。そして呆れ顔で小さく首を振ってから、何事も無かったかのように書斎へと入って行った。

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