2-9.力の有り様
石の近くに落ちていたイチョウの葉っぱを拾って、指先でくるくる回してみる。まだ緑が大半を占めていて、ほんの少しだけ横の方が黄色く色づいているそれを見ながら、カインはなんとはなしに大きく息を吐いた。雨上がりの湿った緑の匂いは嫌いではないが、カインの心を慰めるほどではない。静養するため宿で寝ていたときも、ノーラが鍛冶屋に頼んで研ぎ治させた愛用の剣が戻ってきたときも、二日前から現れた胃を沈めるくらいに重い岩はまだしかと残り、落ちこみが顔に出ていたのだろう、買い出しの名目でノーラから外に出るよう言われた。
頼まれたついでに町の中を散歩してみようとしたが、闘技会のことがあってか人々の興味と好奇が入り混じった視線はカインを休ませることなく、暗い感情の芽を出させる。好意に満ちあふれている目とは違うデューの視線を連想してしまう己がいて、でもどうすることもできずに今、カインは稽古場としていた林の入口で呆けているばかりだ。
会話が足りていない、そうノーラは言う。言葉を交わすことが今の己とデューには必要だとも。でもどこから、何から話せばいいか全くカインにはわからなくて、せめて彼の方から来てくれればいいと願いつつ結局討伐予定の朝を迎えた。ノーラに言わせると、これまた自発さが足りないらしいが。ハンブレに会話をするときの要領を聞いてみようとも思ったが、彼はもうエペーサから出てしまっている。デューもまた領都に戻ってしまったかもしれないという不安が、カインを座っていた切り株から立ち上がることをさせた。弄んでいた葉を捨て、考えるのをやめてみる。何も思わずに歩いてみれば、少しは心も違ってくるかもしれない。
朝の空気はひんやりとしていて、皮膚をなぞるように軽く吹いて消えていく。朝といっても日が昇って大分経つし、これなら人の群れは少し穏やかになっているだろう。背を伸ばし、ノーラやハンブレを想起して何事にも動じない己を形作る。まるで、と小さく苦笑した。張りぼてみたいだ。
形紛いの行為をしながらカインは坂道を登っていく。段々と建物が多くなり、人も増えた。己に注がれる視線は無視して商店が並ぶ道のりを進んでいく。ノーラに頼まれたのは刃に塗るための毒液で、取り扱っている店の看板には目の印が彫られているらしく、看板をくまなく探すと路地裏近くに目的のそこがあった。
人目をしのぶように建つ店は何やら異質な感じがして、カインは少し、怯む。日光の当たらぬ陰に紛れているからかなのか一瞬躊躇ったが、
「いらっしゃい」
中は想像していたよりも明るく、見たことのないものがたくさんあって、どこか湿り気の混じった店主の声も気にならない。瓶に詰められた生き物の部位、剥製にされた動物らしきものの角、カインの気を惹くものは尽きないが、頼まれたものを買うのがまず先だ。店の奥にいる、やけに前髪が長い店主の元へ歩みを早めた。
「すまないが……ええと、月無し草の汁はあるだろうか」
「月無し草ね。見たとこ、傭兵さんのようだけど」
「いや、その、<
「ああ……なるほどね、用意するから待ってな」
店主は髪の艶や肌の張りに似合わぬしわがれた声を残し、カインに背を向けた。しゃがんで何やら物音を立てている。気付かれぬようにほっと胸を撫で下ろし、ふと視線を隠れていた棚にやると瓶一杯に詰めこまれた小さな瞳と目があってぎょっとした。きっと<妖種>のものなのだろう、鮮やかな菜の花色をしたそれは、死してなお恨みをこめてカインを射抜く。心臓に悪いと思うと共に、闘技会後に見たデューの瞳にも似た暗がりをそこに見つけて気持ちがしぼんでいく。
「これだね……扱うときには注意しなよ。目に入れば失明するよ」
早鐘のように鼓動する胸を抑え、店主が出してくれた小さな箱の中を確認した。橙の液体に満ちた瓶は分厚く冷えていて、ちょっとの衝撃では壊れなさそうだ。曖昧にうなずき、懐からノーラにもらった紙幣数枚を取り出し机に置く。これ一つで
だけどそれより店主の頭から見え隠れする無数の瞳が嫌で、カインは箱を隠しに入れると挨拶もせずに店を早足で出た。針みたいな視線は粘っこく、扉を閉めても棘のように残ってカインを責める。足は止まることを知らずに動くが、一日降り続いた雨で柔らかくなった地面は安定しておらず、引きずられるような感覚が心にさざめきを起こす。足取りはゆっくりとのろくなり、擦った砂利の音が人々の声よりも大きくカインの耳に入ってくる。
町人たちが出す活気もカインの心を奮い立たせる源にはならなくて、道の端を隠れるように歩き続ける。今はまだ、宿に戻りたくなかった。この町の地図はなんとなくだが頭に入っているし、出立まで大分時間は余っている。少しくらい、とカインは顔をうつむかせながら思う。寄り道してもいいだろう。そう己に言い聞かせると、ちょっとだけ足は軽さを取り戻す。とはいえ、どこに行くかで少しまごついた。酒場にでも入ってみようか、それとも傭兵組合の方に行くか。両方ともこちらから近い。
歩幅を小さくしたカインが組合に行くことを決め、角を曲がろうとした丁度そのとき。
後ろから来た誰かと足並みが揃わず、ぶつかった。体が交差する。避けるため身を捻ったカインが少しだけ何か違和感を覚えて、体をぶつけてきた誰かを見る。
「すみません」
「あ、いや」
外套を被った――声と背丈からして、多分に大分若い少年が一言残して立ち去っていくのをぼんやり見つめて、カインは小首を傾げる。そしてふと、奇妙な感覚を覚えた箇所、懐の隠しに手を突っこむと、爪先に触り慣れない何かがあることに気付く。己の爪と同じ程度のそれをつまんで出してみる。白く、ほのかに青い光の溝を浮き立たせる球体は図鑑で見覚えがあった。【
「……なんだ、これは」
微かに入りこむ陽光にほの青く輝く真珠に、カインは戸惑いを隠しきれなかった。鉱石は採れる量に限りがあって、研磨されているものは特に貴重だ。しかもよく見ると粗雑ながら『
「どうした、こんなところで」
瞬間的に上げてしまいそうになった手を堪えられたのは、聞き覚えのある声音だったことと殺気がなかったからだ。振り返り、少しは見慣れている外見にほっとする。
「ソズム……」
「久しぶりだな、カイン」
カインの声にキュトスス傭兵組合の総長たる彼は、尖り気味の八重歯を見せて笑った。
※ ※ ※
『
「それにしても驚いたぞ。お前が闘技会で優勝するとは」
木の椅子に腰かけ、豪快に麦酒を呷るソズムの声は誇らしげで明るいことに変わりはなかったが、それはカインに苦い笑いを浮かべさせるだけにとどまった。真珠を入れた少年を探すことよりもカインの気を惹くのはやはりデューのことで、多分に行動を共にしていたと思われるソズムに付き合うことにしたのは、彼が何かソズムに話をしていないか気になった、その一点に尽きる。
「どうしてまた……と聞くのも変だろうな。武名を上げたいと思うのは、格段変わったことではないし」
「本当にそうだろうか」
「なんだ、ずいぶん暗い顔をしているではないか。何かあったのか?」
木の実を頬張るソズムの言葉にカインは一瞬迷い、
「ソズムはデューと来たのか?」
「デューか? うむ、一緒に<妖種>駆除はしたが、もう先に領都に帰っているはずだ。昨日、昼間に会ったのが最後だ。こちらは書類やらのせいで残されたがな。まあ、お前に会えただけでもついていたと思おう」
「そうか」
無意識にソズムに叩かれた肩へ手をやる。そこから感じる痛みは肉体的なものではなく、精神を揺さぶる類のもので、カインは今更己の中に気まずさと同じくらいの恐れがあることに気付く。ソズムがしてくれたようにデューの肩を叩き、たわいない話をする、それすらできなかったのは己の弱みではなく、ずるさだ。一歩踏み出せば変わるかもしれなかったのに足はすくみ、結局は、と小さくため息をつく。己のことしか考えていない。
「デューと何か、あったか」
「……どうしてそう思うんだ?」
心の中を見透かされた感じがして、カインの片眉は自然に上がる。ちょっと警戒を見せたカインに、ソズムは自分の子供のことを語る親のように優しい微笑を浮かべた。
「あいつはかなりの目立ちたがり屋でな。面倒見はいいが、すぐに敵対心を抱いてしまうのが短所なのだ。弟分のようなお前を意外と過小評価していたのかもしれん。追いつかれて焦ったのだろう」
「追いつかれた……? 俺は、そんなつもりで闘技会に出たわけでは」
嘘だ。筒盃を握る手に力がこもり、みしりと木の取っ手が鳴る。デューと同じ高みを、そう考えたことをソズムに言えない己がいて、でもそれがなぜなのかわからない。
「俺には、目的があったから」
「その目的とやらがデューの誇りと被ったのだろうな。奴ときたら、昔からそういうところが変わっていない」
まるで夕暮れを見つめるときのようなソズムの瞳はどこまでも柔らかく、強面が若干緩んでいる。だがまとう気も、口調もいつものソズムで、そこにだけは安心できる。
「傭兵になったものはそれぞれ、大きい小さい限らず目的がある。好きな女を娼館から買い取りたいとか、家族を養うためだとか、理由は様々だがそれらは立派な目的だ」
巨躯を動かし、椅子を軋ませながらこちらを向いて真剣な顔付きを作ったソズムから、カインは目を逸らすことができない。酒の肴にも手をつけず、聞き入るように彼の言葉を待つ。
「デューの場合……カイン、お前はデューのことを知っているか?」
「ある程度は。家族のことなら聞いている」
「うむ。デューの事情は複雑で、だからこそ傭兵として活躍することが動機にもなった。認めてもらうため、やつは必死に走っている」
「それは、フィー……姉や父にだろうか」
「二人へデューが何を思っているかはわからん。彼らも含まれてはいるだろう。だがそれよりも大勢に、デューは自分の痕跡を残したいと考えている節がある」
「自分の痕跡」
「簡単に言えば名声欲しさだな。一概に悪いというわけではないぞ」
領都で話したデューが浮かべていた、諦めよりも深い何かを孕んだ顔を思い出し、カインの胸は痛くなった。同情や憐れみではなく、己のふがいなさに。痛みを隠すように麦酒を飲むも、上手く呑みこめず舐める程度に終わる。
「カイン、お前にも立派な目的があるだろう。確か借金の返済だったか?」
「いや、それは済んでしまった」
「だから悩んでいる、か。若いな」
にやりと、ソズムが意地悪い笑みを浮かべた。でもやはり残された右目に含まれる光は優しいままだ。もしかしたら、ソズム自身も過去にあったのだといわんばかりに。
「生きるために戦う。格差はあれど、誰もが人生の中で戦っている。それだけでも立派なものだと思うがな」
ソズムの言い方はとても穏やかでカインの心に自然と馴染んだ。うつむいて机の木目をなぞるように視線をさ迷わせながら、彼の言葉を咀嚼していく。守るべきに戦う、それと生きることがどう繋がるのか、未だカインの中で答えは出ない。
「戦うことは……嫌い、ではないと思う。だが俺には、戦いがどこに向かっているのかわからない」
シェパトや<妖種>と戦ったときの高揚感は確かにカインの中に存在している。ノーラが言っていた闘争心とやらもまぎれもなくあるはずだ。好戦的になってしまう己を、上手に抑え切れていないのかもしれない。だけどまだ、見えない暗闇の中を闇雲に足掻いているだけの感じもして、どうにもすっとしなかった。
「今やっていることは、それを見つけるための手段だと思えばいいだろう。力とはそのためにある……まあこれは勝手な言いぐさにも聞こえるだろうがな」
珍しく照れたような口ぶりで、それを隠すためなのだろう、再び麦酒を美味そうに飲んでいくソズムをカインはじっと見つめた。力の在り方も己が歩くべき路もまだ定まりきっていないカインに、ソズムは遠く瞬く輝きにも見える。ノーラやハンブレとはまた違う路を歩きながら、しっかり地面に足をつけて歩いているソズムがなんとなく羨ましい。羨んだり悩んだり、できれば真っ直ぐ、早く己の路とやらを決めたいけれど、まだ当分先のことになりそうで、何も答えることなく干したイチジクを噛みしめた。
「ところで、今日の夜に鶏冠竜退治へ行くそうだな」
ソズムの声音が変わった。忌まわしさと懸念を混ぜて足したかのような口調に、カインはただ頷く。
「お前のことだから心配ないとは思うがな。プラセオもいるのだろう」
「……ああ」
ふん、と鼻を鳴らしてソズムは乱暴に握った木の実を割った。
「
「ソズムは」
声に含まれている確かな侮蔑にうろたえて、でもカインは聞くことを決めた。一歩、踏み出す勇気。そう内心で思いながら。
「そんなに彼女が、信用できないか」
「仲間殺しをどうやって信じるべきか、わからんな。カイン、お前こそ奇妙に見えるぞ。なぜプラセオに執着する? 過去に何か恩義でもあったのか?」
「……見ていないから」
「何を?」
「過去の話は聞いた。仲間殺しと呼ばれる理由も。でも、もし俺がその場にいたらどうしていたかわからない。同じことをしたかもしれない」
「冗談はよせ。お前はそんなことができるような人間ではないだろう」
「ソズム、買いかぶりすぎだ。俺は戦いになると周りが見えなくなる。それに、何をしても生きたいと思うのは、間違っているのか?」
ソズムが呆れたようなため息をついた。飼い慣らされたとでも思っているに違いない。目を閉じ、何かを考えた後、小さくソズムはつぶやいた。
「誇りや信頼を捨て、一人で生きることを望んだ人間が、お前と一緒にいることの方が間違っているように思うよ」
彼の言葉は辛辣で、でも素直な感想なのだろう。しかしソズムも、そしてデューも、己に記憶がないことを知らない。世界を忘れた己に命を吹きこんでくれたのはノーラで、それを話すべきか迷い、結局止めた。でも、と残った麦酒を流しこみながら思う。デューの事情を知った今、せめて彼にだけは、己のことを話すのが筋ではないだろうか。もしかしたらいい結果に繋がるかもしれないという、淡い夢みたいな希望が浮かぶ。ごまかすべきところは多いが、それでも対等の友となれるなら、カインは惜しげなくデューへ真摯に向かい合うだろう。
「六年という期間は短くもあり、長い」
空になった筒盃から手を離すと同時に、ソズムが遠く、辿ってきたであろう過去を見つめるような視線でカインを見た。
「失ったものは取り戻せない。命も、紡がれるべきだった縁も、片目も」
まるでそこに六年前が存在し続けているように、ソズムは眼帯に手を置いた。ほの暗さを通り越し、闇に近い過去を連想するような面持ちでソズムは静かに続ける。
「そして、我らからの信頼も。少なくとも今はな」
キュトススにいる誰にでもノーラを狙う理由はある。ハンブレの言葉が脳裏に響く。唇の端についた酒の雫を舌で舐め取りながら、カインは刺客のことを話す選択を手放し、できるだけ慎重に言葉を選んで口を開いた。
「今はと言うなら、これから機会はあるということだろうか」
一片の望みを乗せて尋ねたが、ソズムは凍土みたいな冷たさを瞳の側面にまぶし、その心中を計らせない。
「それは、プラセオ次第だ」
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