1-19.夜の帳が降りて

 それ・・が咆哮を上げ、自らを害すべく殺気を向けてきたものたちを巨大な腕でなぎ払うと、海岸の飛沫に血の色が混じった。両肩に鎮座していた蛇から炎と水が飛び出して、あるものは生きながら焼かれ、あるものはこれも生きながら溺死させられていく。


 長身の男三人分はあるだろうそれ――巨蛇人テュポンの子供の悲鳴は熱風となり、周囲を囲むためにじり寄っていた十数人の皮膚を焦がし上げた。


「怯むな! あと少しだ!!」


 仲間の血で兜を汚した壮年の男が、持った剣を掲げて叫ぶと、生き残りの集団が応と雄々しく返答する。


 空は未だ晴れており、濃藍にまたたく神の光輝ほしぼしまでもを裸眼で見渡すことができた。だが、それをぼんやりと眺めている人間などこの海岸に誰一人としているはずがない。光輝の欠片より白く大きい神の目――衛星つきは、無慈悲なほど明るく剣劇の元を照らしている。


「槍兵、突撃準備!」


 全身鎧パドリを鳴らした男たちの動きは精妙だった。背丈よりも長い槍が巧みに連携し、集団へ伸びてきた巨蛇人の足――否、大蛇を地面へくくりつけていく。槍を引き抜こうともがく隙を騎士たちは逃さない。残っていた数人は肩で威嚇している蛇を切り落とし、同時にむき出しの胸板へと斬りかかる。紫にも似た血潮をこぼしながら悲痛の声音を上げる巨蛇人の口へ、壮年の男が剣を突き入れる。


「放てっ」


 盛りあがった筋肉の腕に素早く乗り上げ声を張り上げれば、待機していた少数の集団が鉄の鎖を投げつけた。毒々しいほど赤く光っているのは焼いているからだ。鉄鎖は正確に巨蛇人の両手と胸へ絡まり、皮膚を溶かさんばかりの勢いで焦がし上げる。腐った卵のような匂いは潮の香りをかき消すほどに濃い。鉄鎖は止むことを知らぬ嵐のように、連続して胴体へと巻き付いていく。崖を砕かんばかりに跳ね上がっては叩きつけられる足蛇を、槍兵たちが全身を使って押さえつける。


「残り足狙い、構え!」


 鉄鎖数本が持ち上げられた足蛇へ襲いかかり、動きを止めた。その瞬間、剣士たちが腰袋より取り出した瓶を顔面へと投げつけていく。石灰にも似た白い粉だ。粉を吸いこまぬように外套で鼻と口をふさぎながら、彼らは集中して瓶を投げ続ける。


 すると、あれほどまで暴れていた巨蛇人がピタリと止まった。代わりに臓腑の全てを吐き出すような音を立てて、裂かれた口から紫の血を吐き出し続ける。


「捕獲せよ! 残った鉄鎖も使ってしまえ!」


 それでも男は気を抜かない。目的を果たした直後が一番危険だと経験で知っている。痙攣しながら吐血する巨蛇人の四肢、体に鎖は容赦なく巻き付き、幾度目かの悪臭を辺りに撒き散らした。そうしてようやく、目標の痙攣は完全に停止した。ゆうらりと、あまりにも緩慢に巨蛇人が倒れれば、残ったのは地震にも似た地響きだけだ。


 恨みがましい、暗い紫の目に光がないことを注意深く確認してから、男はいつの間にか止めていた息を一気に吐き出す。


「……しばらく様子を見るぞ」


 どっ、と、生き残った幸運なものたちが一斉に力を抜いたのがわかる。火傷を負いうめき声を上げるもの、嘔吐するもの、兜を脱いで地面に倒れ伏すもの、様々いたが、男の表情は巌のように固く、確かな足でその場に立ちつくしていた。


「これだけ残っただけでも良しとすべきか……」


 脳漿や目を散らして転がる部下たちをながめ、男は奥歯を噛みしめた。疑念も怒りも全てそれで封じるように、顎がひどく痛むまでに強く。


 宵の海辺で起きた惨禍を見たのは、ただ、あまりに美しい光をたたえた衛星と星々、そしてさざ波を立てる深い海だけであった。


  ◆ ◆ ◆


「そんなに急いだら転んで食べられるわよ」


 微かに大地が揺れたような気がしてカインが立ち止まったのと、ノーラの声は同時だった。丁度道の端に足をかけていて、梨型にすぼんでいるその奥では、夜闇にも見える大型の何かがうごめいている。微かな記憶を辿れば、そこにいるのは確か汚物や食材のかすを食べる不定形の<妖種ようしゅ>で、雑食性にも拘わらず極めて温厚で繁殖することもないため、下水の中で飼われていることが多いのだと思い出すことができた。


「もう少しゆっくり歩いてくれない?」


 背後にかけられる言葉は責めているわけではなく、逆に優しい音色があって、初めてそこでカインはノーラの方へ向き直った。衛星に髪飾りを照らしながらゆったりと歩くノーラの顔には、興味の二文字が浮かんでいる。


「あなたが怒るところ、初めて見たわ」

「怒る……?」

「公爵の言葉に怒ったんじゃないの?」


 言われてカインははじめて、腹の内にどんよりと重たく、溶岩のような熱さをともなう岩が転がり狂う感覚を怒りと呼ぶのだと理解した。手はうろんげに動き、それからむかつきにも似た感情を沈めるようにして胃の辺りに止まる。触れたところでどうなるものでもなかったけれど。


 豪華な建物が並ぶ道には塵一つなく、あってもせいぜい弱くなり始めている風に巻かれた木の葉だけだ。点々としている葉っぱは頼りない足取りのように続いており、爪弾きにされているようにも見えて、なんとなくデューを思い出す。そしてようやく己がとんでもないことをしてしまったことに気付き、自然と眉が下がる。


「名前を出してしまった」

「あら、いまさら後悔してるの?」

「約束を守れなかったことが、その」

「申し訳ない?」


 ようやく隣に並んだノーラに小さくうなずく。それからフィージィに言われた言葉を思い返し、脱力した。


「何も知らないくせに怒るのは、間違っているんだろうか」

「私は正しいと思うけど。仲間思いなのね」

「そうでもない」


 カインは無意識に頭を振っていて、否定したことでようやく腑に落ちた気がした。己が今抱く感情のほとんどは、結局のところ存在を無視する相手に向けてのもので、それはきっと己がされて嫌なことなのだ。デューを無視して平然としてなおある公爵に腹立たしくはなったけれど、純粋に彼のために怒っているわけではない。


「同情したんだ」


 胸に固まったしこりを吐き出すようにつぶやいた。ノーラからの返答はなく、風が吹く音だけがまるで苛むようにカインの耳に残る。しこりは未だ瘤みたいに己の心臓へ根をはり続け、どれだけ吐き捨てても根元が落ちる様子はない。


「勝手に同情して、約束を破った」

「でもそれって、あなたの意志でやったことなんでしょう? 素直に話して謝れば、許してくれるんじゃないかしら」

「そうだといいんだが」


 真剣なまなざしで頼むと言ったデューの顔が浮かんで離れそうになく、カインはうろつくような足取りで歩き始める。いくら考えても答えは出そうになくて、ついノーラを見た。


「ノーラならどうする?」

「向こうの、デューの出方次第かしら」


 彼女に己を叱る素振りは微塵も見当たらず、ほんの少しだけ、間違ってはいないのかもしれないという希望が灯る。


「デューに殴られてみるのもいいんじゃない? 怒られたいように見えるわ」


 あっさりと放たれた言葉が、瘤の元を絶ち切った気がした。そうか、とカインはため息をついた。答えはデューが持っているのだ。己の思考に解答があるはずがない。デューに話してそれからどうするかが問題なのだと思い至り、根本的な前提を誤っていたことにようやく気付けた。


「それにしてもあなた、いい啖呵切ったわね。象徴媒体はもったいなかったけど」


 たおやかに一回転して、カインの前に出たノーラはどこか楽しそうで、後ろを向きつつ器用に歩きながら彼女は意地悪く微笑んだ。象徴媒体と聞いて、そこでようやくフィージィが差し出してきた腕輪のことを思い出す。己の目から見ても立派なもので、多分に高価なものなのだろうということしか推測できない。


「本当のことだ。俺には使いこなせない」

「あれで五万ペクは行くわよ。私にくれたら、借金半分になったのに」

「……それでも、もらえない」

「頑固ね、意外と」


 ノーラが軽く肩をすくめるのを見て、己の意外な一面が現れたことに内心で驚いた。人と比べて頑ななのだろうか、普通というものがわからないから、どう答えて良いのか戸惑う。ノーラが周囲を見渡し、それからまた元に戻って隣につきながら天をあおいだ。つられて空を見上げれば、衛星は大分傾いている。彼女の吐息は大きい。


「辻馬車でも用意してもらえばよかったかしら」

「ノーラこそ。あそこまでフィージィに言っておいていまさら頼るのか?」

「頼るのと利用するのじゃ別物よ。彼女ならきっと用意してくれたでしょうね、あんな別れ方したけど。それくらいには礼儀正しいわ」


 薄情な物言いにではなく、フィージィが挑むような、それよりも強い視線を送ってきた様子を思い描いてまた頭を振った。


「彼女もデューのことは何も言わなかった」

「複雑なのよ、あそこの家」

「ノーラはデューのことを知っているんだろう?」

「私から聞く方がいいと思う?」


 問いを返されて、己に訊いてみる。今度の答えはすぐに出た。


「いや、自分で聞く」


 家のことを話してくれるかわからないけれど、多分にそれは、カインが己で尋ねるべきことなのだ。本意のまま振る舞い、デューとフィージィの関係という名の聖域に踏み行って荒らしてしまったけじめはつけなければならない。それで良い、というようにノーラの笑みが深まった。


 二股の道に分かれた境目を過ぎ去ろうとしたとき、ノーラは急に足を止めた。


「あなたは戻るんでしょう? 蜃気楼の酒場ねどこに。私とはここで別れるけど、道わかる?」

「別れる……? ノーラも泊まっていたんじゃなかったのか?」

「あそこ、追い出されちゃった」


 飲みものを口に含んで流す程度には簡単に言われたものだから、普通に返事をしようとして、止めた。思わずまばたきを繰り返す。


「一体何をしたんだ」

「何をしたんだ、って言われてもね。きっと主人が六年前に関係してるんじゃない? 『蒼全そうぜんのプラセオ』だってわかった途端、手のひら返されたわ」


 事実だけを述べるノーラは平静を保ったままで、腰に手を当てる姿に慌ての欠片もなく、逆にこちらが動揺するばかりだ。


「そんなことがあるのか」

「当然って言えば当然なのよね。ひどかったから、六年前は」

「これからはどこに……?」

「宿場だけになってるところがあるから、もうそこに荷物は置いてきてるの。お金はかかるけど、その分信用できるわ」


 靄がかったみたいな沈黙が降りた。こんなときどうすればいいのかカインの頭の中にはない。口ごもるカインを見てか、ノーラは静かに目を細める。


「私のこと、どう思った?」


 投げられた言葉には試しやふさぎ込むような含みはこれっぽちもなくて、カインは情けなく、小さな声で答えた。


「わからない」


 正しかったのだと言い切ってやりたかった。けれど、それをするにはあまりにカインはノーラのことを知らず、六年前の事実を聞かされてもなお変わらない。確かに貧民区に迷いこんだことはあるけれど、周囲をつぶさに観察するにはカインの心は砂漠のように乾いていたし、己の精神を保つだけで手一杯だった。そこまで考えてから、少しだけカインの天秤はノーラの方へ傾いた。


「正しいかどうかはわからないし、俺が決めることじゃない」

「そうね」

「でも、ノーラが生きていてくれたから俺は今、ここにいる」


 きょとんとした顔になって、それから微かに、でも決して軽くはない苦み走った笑みを作って、ありがとう、とノーラは言う。屋敷と木が並ぶ坂道、その奥でもここでもない遠い場所を見つめるようなノーラの瞳はどこまでも真摯で、カインは置き去りにされた気持ちになる。彼女は少しだけ無言の後、何やら一つ決めた眼差しでカインの方へ視線を流した。


「ねえ、殊魂術アシェマト、使えそう?」

「……なぜだ?」

「基礎の一つ教えてあげるわ。速度を上げる類のものだけど。三等殊魂術トリ・アシェマトだから覚えておくといいかもね」

「ふむ」


 唐突だな、とカインは淡い疑問を抱く。確かに術は後で教えてくれると言ったが、それは隠しのものだったはずだ。小首を傾げるカインを置いて、ノーラは己の鎖骨部分を覆う頸甲へ手を当てた。


「我が殊魂の大元『栄護神えいごしんメターデ』の助力得て、ここに創造。地形成、二つ揃いて生誕、地離れ」


 落ちついた声音で宣言を終えたノーラの胸元が輝き、次いで淡い黄色の光が彼女の足を包む。ノーラが軽く地を蹴った刹那、彼女との距離が一気に離れた。その差はカインが全力で走って数秒かかると思えるほどには遠い。目をまたたかせることしかできないカインへ、ノーラは心持ち大きな声を上げた。


「これは地の楔から解き放たれるための術よ。強ければ宙にも浮けるみたい。あなたの場合風でもいいかもね、緑があるし。とりあえず地の宣言でやってみて」

「わ、かった」


 驚きをどうにか隠して、地の強宣言は確か、と刻みつけた記憶をまさぐる。目を閉じずに己の中にあるはずの波動を感覚で探っていけば、確かな手応えが返ってくる。穏やかな本流をしかと掴み、逃さぬようにしてからカインは口を開いた。


「揃えて生誕、地。地離れ」


 途端、足がなくなったような感覚が訪れた。びっくりして下を向けば、ノーラがまとうものよりも強く、濃い黄色の光を放つ両足があって少しだけ安堵する。試しにちょっとだけ、跳ねるように前に進んでみると、己が思う以上の速さと軽さで先に進み、すぐ側にノーラがいた。彼女の足もしっかり地面についているけれど、輝きは変わらず暗闇を灯している。


「どう? 速度を上げる術よ。戦闘のときだけじゃなくて、移動のときにも使えるの。便利でしょう?」

「あわあわしているな……」

「あわあわ?」

「む、ふわふわか?」

「なるほどね。確かにちょっと、慣れないと使いづらいかもしれないけど」


 思わずといったように笑うノーラの顔ははしゃぐ童女のようにも見えて、ちょっとだけカインは胸をなで下ろした。少しは空気を紛らわせることができたのかもしれないから。


「ついてきて。遠回りになるけど途中まで案内してあげる」


 涼やかな甲靴の音が鳴り響けば、もうノーラは先を行っている。曲がり角で見えなくなった彼女を追いかけるように、カインもまた、慣れない感覚に覆われている足で地を蹴るとノーラの背中が間近に見えた。どうやら彼女の速度より己の速さは上回っているらしく、ノーラを一瞬追い越しそうになって慌てて蹴る進み方を抑えてみる。


 潮風を浴び、二人並んで誰もいない道を駆け行くのは、とても気分がよかった。


「ノーラは黄色の殊魂アシュムも持っているのか?」

「まさか。私のはこれよ」


 カインと一緒に風のように疾く走りながら、ノーラは首元を指で叩いた。そこには青と赤、それから黄色の鉱石が巴型になって鎮座している。とりわけ輝いているのは黄色の鉱石だ。


「これが象徴媒体。三等殊魂術なら、自分の殊魂じゃなくても持っていれば使えるの。限度はあるけどね」

「便利なんだな」

「そうよ、もったいないことしたって気付いた?」

「それとこれでは、話は別だ」

「本当に頑固ね、もう」


 またノーラは笑う。けれどすぐに真顔になって流し目で己を見た。


「私と一緒にいるの、止めた方がいいわね。あなたまで邪険にされるから」

「……それは俺が決める」

「仕事のことも踏まえて言ってるの。信用に関わるから。私のじゃなく、あなたのね」


 それほどまでにノーラの悪名というのは影響するのだろうかとカインはいぶかしみ、なんとなく嫌な気分になった。己が決心したいことを蔑ろにされている、そんなようにも感じたけれど、それよりも深い何かが嫌悪を呼び起こしている。


「もう少ししたら先に曲がり角があるから、そっちに行けば中央通りに行けるわ。後は人に聞いて」


 奇妙に湧くわからない感情にもたついている間に、ノーラは前を向いて速度を速めていた。


「じゃあね。稼いだお金持って、また組合に来てちょうだい」

「ノーラ」


 彼女の名を叫ぶように呼んだけれど、ノーラが振り向くことはなかった。別れの言葉は簡潔すぎて、それを理解するためカインは足を止める。勢いが強すぎて少したたらを踏んだが、完全に宙へ浮いているわけではなかったからそれくらいですんだ。


 右に曲がった彼女の姿形はもう見えず、カインは迷い子みたいに路地裏の中をうろつく。一人で遠い雑踏を聞いているとなんとなく気落ちして、胸の奥がとめどないざわめきを帯びはじめた。この感情を、人はなんと呼ぶのだろう。


 そのときふと、木陰が集まるところから視線を感じた。ほんの少し、違和感を覚える程度の微量な注目。でもそれはすぐに過ぎ去り、気のせいかと思い直した瞬間だった。


 風は止んだのに梢が揺れ、それがノーラの向かった方面へ続いている。凝視しなければ宵の深さにまぎれていただろう微妙な木の動きを、それでもカインはとらえていた。何かが彼女を追っていると脳が即座に反応した。同時に、カインの足は勝手に動いていた。中央通りの方ではなく、ノーラが消えた道へ。


 まったく、とカインは苦笑を浮かべていたことに己で驚く。それでも迷うことはない。本当に、一日でいろんなことがありすぎだ。

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