コーヒーの沼に沈んだ虻

 時間調整の為にファストフード店に立ち寄った。コーヒーを頼んで席へ向かう。あまりコーヒーを飲みたい気分ではなかった。それでも、さっと一口二口だけ飲もうとプラスチックの蓋を外した。


 鞄の中から『アンの愛情』を取り出し、読み始める。しばらくして、小さな虻がやってきた。私の頭の周りを飛び回るので手で払う。払い切れずに、虻は私の手元までくる。旋回してカップの方へ。虻はそのまま何故かコーヒーの中にポチャンと落ちた。

 いつもはプラスチックの蓋を外さずに、飲み口を折り返して飲んでいる。私は猫舌ではないのだ。

 虻には気の毒だが、私はこの偶然を楽しんだ。そして、アンがこの瞬間、全世界を愛したというところを読んだ。まさに今、私はこの瞬間の世界を愛した。


 時間が来て、鞄に本を仕舞おうとした。その時、手が触れてしまいコーヒーカップを倒してしまった。テーブルの上にコーヒーの沼が出来た。本の端が少し濡れた。先ほど愛した世界もコーヒーの沼に沈んでいくようだった――アンも世界を愛した数行後には、その世界がそれほど素晴らしいものではないと思っていた――私は店員を呼びに行った。


 テーブルを拭きに来た店員の女性はコーヒーの沼に溺れた虻を認め、とても申し訳なさそうにした。私こそ申し訳ない思いで、コーヒーを飲んでいる最中に虻が飛び込んできたことを説明した。


 代わりのコーヒーを丁重に断って店を出て行く私は思った。店員の女性は、虻が飛び込んできたことに驚いて私がコーヒーをこぼしたと思ったのではなかろうか――実際には私がただドジなだけだったのだが――そうすると、あの虻は私の名誉を守る為にコーヒーに飛び込んできたのではないのか。全ては偶然ではなく、必然だったのだ!


 私は心の中で、コーヒーの沼に沈んだ英雄に敬礼をした。頭の中にはケニー・ロギンスの歌う「デンジャー・ゾーン」が鳴り響いていた。

 店をあとにし、これから私は仕事へと立ち向かう。

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