第21話 方広寺大仏開眼供養

 方広寺の梵鐘には鐘銘が刻印された。清韓の銘は次の通りであった。


洛陽東麓らくようとうろくに   舎那道場しゃなどうじょうあり  聳空瓊殿そびえるけいでん   貫虹畫梁にじをつらぬくがりょう 

参差萬瓦しんしたるばんが   崔嵬長廊さいかたるちょうろう   玲瓏八面れいろうはちめん   焜燿十方じっぽうをこんようす 

院象兜夜いんとうやをかたどり  刹甲支桑さっしそうにこうたり  新鐘高掛しんしょうたたくかかり   爾音于鍠そのおんここにこうたり

響応遠近ひびきえんきんにこたえ 律中宮商りつきゅうしょうにあたる  十八聲慢じゅうはちこえまんに   百八聲忙ひゃくはちこえぼうたし

夜禪晝誦やぜんちゅうしょう   夕燈晨香せきとうしんこう   上界聞竺じょうかいぶんじく  遠寺出湘えんじしゅっしょう

東迎素月ひがしそげつをむかえ  西送斜陽にしにしゃようをおくる  玉笥掘地ぎょくしちをほり   豊山降霜ぶざんしもをふらし

告怪於漢かいをかんにつげ   救苦於唐くをとうにすくい  霊異惟夥れいいこれおびただしく   功徳無量くどくむりょう

陰陽燮理いんようしょうり   国家家康こっかあんこう   四海施化しかいけをしき   萬歳伝芳ばんざいほうをつたう

君臣豊楽くんしんほうらく   子孫殷昌しそんいんしょう   慶雲甘露けいうんかんろ   呈瑞呈祥ずいをていししょうをていす

仏門柱礎ぶつもんちゅうそ   法社金湯ほうしゃきんとう   英檀之徳えいだんのとく   水遠山長みずよりもとおくやまよりもながし

  とき慶長十九年甲寅歳孟夏十六日

         (注 旹は時の古字。孟夏は陰暦4月)


 大仏殿は完成し、鐘楼も完成した。あとは、落成式を営むことであった。落成式は三つに分かれる。一つは堂供養の式、二つ目は開眼供養の式、三つ目は上棟の式である。特に前二つは仏教として古来荘重なる盛典であった。


 片桐且元は4月24日駿府に赴き、方広寺が完成したことを告知し、8月に落成式を営むことを稟議した。そして、秀頼公が妙法院宮常胤法親王を導師に、三宝院准后義演を呪願に、照高院興意法親王を證義とすることを申し入れ、家康は承認することを伝えた。事は順調に進んでいた。

(※ 導師 法会の時中心となる僧。また唱導の師で、願文・表白を述べて一座の人々を導く者。

  呪願師 法会に呪願文を読む役僧、七人僧の一人。呪願。

  證義  経典翻訳のとき、訳語の正、不正を判別する役 )

           (「広辞苑 電子辞書第6版」より)


 6月になると、家康の旨を受けた秀頼は、大野治長、片桐且元及び弟貞隆に対し、五千石を加増した。


 秀頼は家臣片桐孝利以下14人を諸大夫に任じた。また、上棟の式において、総棟梁として大工頭中井大和守正清を駿府に申請して、江戸から上京した。秀頼は式場に公卿の参会を奏請して、勅允ちょくいんを蒙られ、鷹司関白をはじめ、三条、中御門、日野、広橋、菊亭、中山、白川、西洞院、万里小路、中院、土御門、持明院、山科、滋野井、烏丸、竹屋、飛鳥井、高倉、堀川、冷泉、阿野、坊城、五条らの月卿雲客が連なることになった。その費用は当然豊臣家が負担した。それは、秀頼が大施主としての務めで在り、あたかも秀吉再来との華やかさを演出するものであろうと想像されたのである。

 

 7月3日且元は大仏開眼供養を8月3日に執り行い、仁和寺宮覚深親王を導師とする勅を得て、これを駿府に届けでた。


 家康はこの件に関しては全く依存はなかった。しかし、一人不服を申し立ては人物がいた。家康の側近であった崇伝と並ぶもう一人の僧南光坊天海である。天海は不服を言えば、自分がこの開眼供養の導師として権力を振るう存在になり得るかも知れぬと智恵を巡らしたのである。しかし、導師は勅許を得て決まっていたから、天海が考えたのは、天台と真言であった。自分は天台宗、大仏開眼は真言で執り行なわれることだった。


「大御所様に申し上げる。このたびの開眼供養は天台を左班にして、真言の上に置かれますよう。さもなければ、天台の衆徒はこの式には出席致しませぬ」

と進言したのである。


 駿府記にはこうある。

「七月八日、今日南光坊言上して曰く。今度大仏供養、仁和寺御門跡開眼供養導師云々。然らば天台門跡と座論穿鑿せんさくあるべきか。秀吉公の時は、徳善院その始め真言僧、木食上人は真言ゆえ、真言座著は左、今度に到りては、供養導師は妙法院たり。然る上は開眼導師は勿論と存ずる処、御室御門跡御出座の儀、不慮の至りと申さる」


 この件で、家康は本多上野介正純と金地院崇伝とにより、京都および大阪に書簡を送った。


わざわざ次飛脚つぎびきゃくを以て申し入れ候、今度大仏供養に付て、本尊開眼の儀仁和寺御門跡遊ばさるる由に候、是は堂の供養以前に日を隔てこれあり候や、但し又同日に御座候や、叡山衆在府候て、天台宗左座に候へば、出仕申すべく候、万一右座に候へば出仕あるまじき由、南光坊御前へ申し上げられ候、内々其の意を得られ、そのときに臨み申し分これなき様に然るべく候、開眼供養は、前方にこれある先例に候条、日を隔て執り行われ、堂供養の儀は、開眼師御出仕なく候へば、申し分あるまじく候か、兎角天台宗左座にてこれなく候へば、堅く出仕申すまじき由に候間、御心得のため申し入れ候、各御双談そうだん尤に候、恐々謹言

    七月十日

                         金 地 院

                         本多上野介

     板倉伊賀守殿 

     片桐市正 殿

        人々御中

                         (本光國師日記)

  

 家康は、開眼供養と堂供養を同日に催すか、別日にするか問い、天台、真言両宗の座位の論があるので、同日に催すのであれば開眼導師は堂供養には出ぬので其のつもりでいるように。また同日であれば、天台を左班とすべきであると言ってきたのである。今までの許可していたとは違う態度に片桐且元は驚愕した。


 この申し出に怒りを表したのは、高野山の門徒である。大仏殿は木食上人の御寄依の結果建立せられたる建立であったから、天台の下につくなどもっての外と大抗議をしてきた。且元は情勢を踏まえて、仁和寺宮に相談した。


「天台が関東風を吹かせて、大阪を困らせるのはあまりにも気の毒なこと故、本来なら承引し難いことなれど、右府殿の御迷惑を察し申さば、それに免じて曲げて左班を天台に譲っても良い」

 と承諾の旨を発した。


 このことを聞いた家康と天海はしてやったりと思った。そして、新たなる謀りを二人は巡らしており、またしても難題を申し立てた。


「開眼供養と堂供養を同日にいたす時は、座班について、天台・真言両宗の確執もある。しかのみならず両供養を同日に執行するという事は、かっての前例も聞かぬ。それに8月18日はちょうど故太閤の十七回忌に相当すれば、方々開眼供養は8月3日、堂供養は同月18日に執り行うがよろしかろう。其のように市正と所司代に伝えよ」

 さらに数日して、家康は正純と崇伝を呼び寄せ、

「聞いたところ、この度鋳上げた鐘の銘には、心得難き不詳の語がある由、其の上上棟の日も吉日ではない。これには何ぞ仔細があろうぞ。確かめよ」


 且元は、秀頼に供養の日程について、駿府より異議あることを伝えた。

秀頼はこれに対し、


「8月18日は、故太閤の十七回忌であるが、その日はかねてから治定の通り豊国神社に於いて、臨時祭典を執り行うことは、その方も承知の筈じゃ。それと同時に、大仏供養が出来ようか。今一度押し返し、是非に両供養の同日執行の議を関東に同意させい」

と且元に言い渡した。


 再度の申し状を見た家康は、ほくそ笑みを浮かべたと思ったら、険しい顔をして正純に言った。


「両供養に旧例に違うを申し聞け置いたにもかかわらず、執念深く同日に執り行わんと申し出るは、安からぬ。その上、鐘銘、棟札の文字も腑に落ちぬ。早々両文の写しを差し出させよ。とくとそれを調べた上に、追って何分の指図をいたす故、とにかく8月3日の上棟式ならびに両供養は延期を命ずる。左様しかと申し聞かせよ」

 と命じたのである。実質的な式典中止の命令であった。

 

駿府記には、

「七月廿六日、今日片桐市正一通の状を捧げ、並板倉伊賀守書状到来、大仏供養来月三日開眼、十八日供養なすべく仰せらるると雖も、十八日豊国臨時祭これある間、三日早天開眼、その後堂供養行わるべきかの由、秀頼仰せらる云々、仰曰く、今度大仏供養の儀、棟札と云い、鐘の銘と云い、いかがの由、御気色みけしきこころよからず」


 そして、金地院と本多上野介の連署にて、板倉伊賀守及び片桐且元に書を送った。


廿三日の御飛札則披露せしめ候、大仏供養、本尊開眼、三日同日に執行有度しっこうありたきの由、余りに事閙ことかまびすしき様に思し召され候、先棟札まずむなふだも打たれ、足代あしじろ以下取置き候て、御執行ごしゅぎょうしかるべくと御内證ごないしょうに候、然ば棟札の下書、鐘の銘の下書、何も御覧なされ候、末代の為褒貶ほうへんなき様に仰せ渡さるべき旨御諚ごじょうに候間、下書早々指し下さるべく候、兎角上棟、開眼、堂供養、何も指し延べらるべく候、重ねて吉日を撰び、御執行尤もの由仰せ出され候、その為重ねて次飛脚を以て申し入れ候、恐惶謹言。

  七月廿六日

                           金 地 院 

                           本多上野介

   板倉伊賀守 殿

   片桐市正  殿

                           (本光國師日記)


 29日飛脚は京都についた。そして、所司代板倉勝重に復命した。そして、板倉は且元に家康の意趣を伝えた。思いも寄らぬ、供養中止の命令に驚愕した。すでに、式を前にした大仏殿の周囲には縵幕を張りめぐらし、祝いの餅六百石、酒三千樽が準備されていた。僧侶も三千人ほどが洛中に集まっており、あとは式典の天候の様子を気にするばかりであったのだ。この間近に迫った中止の命令に且元は困惑した。当然勝重に訴えた。


「鐘の銘は御承知の如く清韓長老の起草されたもので、その文意は右府には何も御存知ではござらぬ。清韓長老は博学、能文の誉高く、文は長老が誠心誠意込めて作られた上、書は聖護院宮の御染筆にござれば、我ら文盲な者、いかで批判すること得ましょうや。さりながら、我らお互い奉行の職に在りながら、その文を吟味することも遂げず、そのまま鋳出いたさせたのは、誠に且元一期の過ちでござり申した。しかし、式は最早明日に差し迫り、右府来会の準備はともかくも、親王、公卿、御臨場の御供揃もすでに整い、途上の御警衛、当場の諸設備もそれぞれ手配を了し、各宗の僧侶、諸国の拝観者、洛中洛外に群衆したる様子。今更式を停止することとならば、如何なる珍事が惹起せぬとも測り難きと思われます。ここは先ず無事に供養を執り行うた上、鐘の銘が果たして不都合ともあらば、それは磨り潰し、且元切腹して不行届けのお詫びをいたす所存なれば、供養の式だけは、予定通り相済まされるよう、ご貴殿のお取り計らいを偏に頼みとう存じまする」

と平伏して懇願した。


 しかし、板倉はあくまでも家康の徳川家臣である。且元の存念など今更聞く必要もないし、家康からは必ず中止させよと厳命されているのだ。


「ご貴殿の御心衷はお察し申せども、かりそめにも供養を執り行う事とならば、これに付随する何らかの意義は遂げ行われた事となりまする。それでは大御所の御意に反する行い。この義拙者としては、断然御同意相成り申さぬ」

 と突っぱねた。

 

 且元としては、式典を中止にせねばならなかった。そして清韓に銘の文意を糺し、写しを駿府に送らねばならない。事はなんでもないことから、大きな事件へと生じていくのだ。

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