芹ケ野りさ(銀行員)【8】

 まだ開ききらない自動扉に肩をねじこむようにして飛び出してきたのは、制服姿の女の子だ。高校生だろう。長い髪を振り乱し、一見して美人とわかる白い顔を、怒りか恐怖か緊張かでかたく強張らせている。りさを驚かせたのは、彼女の制服や剝き出しの身体のところどころが赤く汚れていることだった。

 まさか、血? 怪我をしているのだろうか?

 少女はエレベーターからまろび出ると、驚いて立ちすくむりさにぶつかった。

「だ、大丈夫!?」

 少女はすみません、と強く言い置いて、急いでりさの脇をすり抜けようとした。だがそこではたと足を止め、りさが左肩に提げたスポーツバックを一瞬見つめた。そして一転、食ってかかるような勢いで訊ねてきた。

「すみません、スポーツクラブの方ですか?」

「え、ええ……」

「羽島ってインストラクターはまだいましたか!?」

「羽島?」

「兄なんです!」

 羽島――羽島尊臣くんの妹さん?

「彼ならまだいたけど――」

 戸惑いながらも川内が答えるが、しかしその言葉を聞き終わらぬうちに、少女は駆けだしていた。りさはその後ろ姿を追って振りかえる。「ちょっと、大丈夫!?」と大声で呼ばわるが、少女は振りかえりもせず、廊下の角を曲がって行ってしまった。

 しばし呆然とその場に佇む。さきほどスポーツクラブで聞いた言葉が脳裏によみがえってきた。――「一階で事故」――「詳しいことはわからない」――「避難」。やはり階下には降りないほうがいいんじゃないだろうか。引き返してお店の人の指示を待ったほうがいいかも……そう思いかけて川内のほうを向くと、彼はすでにエレベーターの箱に入り、りさのことを待って「開」のボタンを押し続けているところだった。

「川内さん、戻ったほうが……」

 言いかけた彼女の語尾に、川内は「大丈夫ですよ」とかぶせた。

「警報が鳴ってるわけじゃないから、火事とかじゃないと思います。エレベーターもちゃんと動いてますし、降りたら出口はすぐそこですから。むしろ早く出ないと、足止めくらっちゃうことになりかねないですよ」

「でも……」

 りさがためらっていると、川内はすこし苛立たしそうに、ただし丁寧な口調は崩さず言った。

「どうしますか? 僕はこれで降りますが」

 りさはもう一度背後を振りかえったものの、意を決してエレベーターに乗り込んだ。箱の一面、入口の反対側は外に面した窓になっており、そこから駅前広場が見下ろせる。バス停の屋根が並んでいるのでよくは見えないが、なんだか広場に人が集っているようだ。いやな感じだが、スポーツクラブに戻るとはもう言い出せなかった。川内が「閉」ボタンを連打している。

 エレベーターが動きだす。川内は小さく息を吐いて、申し訳なさそうな笑顔をりさに向けた。

「なんだかすみません、今日はどうしても遅刻できないもので」

 そう言って、右手の紙袋――おもちゃ屋さんの紙袋を軽く持ちあげてみせた。

「久しぶりに子供に会うんです。プレゼント渡す約束なんですよ」

「ああ……」

 予期していたような強い衝撃はなかった。胸を吹き荒れるざわめきもなく、深い穴に沈む落胆というものもなかった。ただ、両のこめかみのあたり、絞られるような圧迫感がじわじわと増しているのがわかる。視界の端がわずかに歪み、りさは額に片手を添えてぎゅっと目をつぶった。そうしてめまいが過ぎ去るのを待つ。強烈な恥の感情が自分を苦しめることは、実際にそれが訪れる寸前に直感できたけれど、だからといってそれを防ぐ手立てがあるわけではなかった。

 ――私はなにをやっているのだろう? 三十目前のいい大人が……。

 いつもこうなのだ――りさは自分の気持ちや考えをすぐには表に出さず、長いこと自分の胸で温めておくタイプだった。それは事態を先に進める勇気がないからだったのだけれど、仕舞い込まれた感情はやがて熟成し、彼女の胸でいやおうなく、理想と期待の香りを広げてしまう。勝手に舞いあがってしまうのだ。そして勝手に傷ついてしまう。今回はそれを自制できていたつもりでいたのだが、およそ理性で感情を抑えつけようという試みなど無駄なのだということを、彼女は激しい羞恥心とともに理解した。

 それに、と思う。やっぱり今回も既婚者だったのか。自分の引きの悪さにはもちろん嫌気がさすが、こう毎度毎度だとむしろ我ながら感心するような気持ちもある。不倫体質なのだろうか……そう開き直るべきなのだろうか。さすがにそこまでは思えなかった。

 川内が「久しぶりに」子供に会う、と言ったことには、もちろん気づいていた。なにやら事情がありそうだけれど、今それを追究する気にはとてもなれない。りさはただ、エレベーターが早く一階に着くことを、一刻も早くひとりになることだけを考えていた。

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