須賀涼太(警察官)【2】

 そう、事情はわからないでもない――チャイルドシートを嫌がる赤ん坊、狭い車内に響きわたる泣き声、子供の涙を無視することのしのびなさと、授乳のためにいちいち停車することのもどかしさ。けれど、「このぐらいの距離なら」「このぐらいの時間なら」がすこしずつ延びてゆき、やがて事故の瞬間まで引き延ばされることになるのだ。

 だが須賀には、同僚の野元のように、あの事故を引き合いに出して嫌みったらしく脅すようなことをするつもりはなかった。違反者への苛立ちや事故へのやりきれなさは、「規則ですから」の乾いた一言で包みこんで、淡々と事務的な処理を進めるだけだ。

「いちおうですね、チャイルドシート使われてないと、違反点数が1点加算になります。罰金はありませんので」

「あ、はい、わかりました」

「では、調書つくらせてもらいますので、お名前おうかがいしてよろしいですか?」

 須賀は男が口にした「こうせ、のぼる」をフリガナ欄に記入した。

「どういう字を書かれるんですか?」

「光る『光』に、瀬戸内海の『瀬』。のぼるは昇竜拳の『昇』です」

 唐突な有名格闘ゲームの技に表情を崩すまいと努力しながら、「昇竜拳の『昇』ですね……」とぼそぼそ繰りかえす。語尾が笑いですこし揺れるのは抑えられなかった。

「ご職業は?」

 どこからか近づいてきた救急車のサイレンがかぶさり、須賀はすこし声を大きくしなければならなかった。光瀬と名乗った男は答えたが、だんだん大きくなってきたサイレンでよく聞き取れない。須賀は繰りかえした。

「もう一度よろしいですか?」

 ぽかんとした表情で見つめ返され、須賀はもうすこし声を張りあげた。

「すみません、聞き取りづらくて――」

 そのとき、須賀は男の視線が自分を素通りして、背後の何かに注がれているのに気づいた。救急車のサイレンが背中のすぐ後ろを通っており、タイヤが路面を猛スピードで捉える音も聞こえた。サイレンのあまりの近さ、そして駅前広場を通るにはあまりに猛烈な走行音に、須賀は不審に思って首をめぐらせた。

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