阿蘇由実(会社員)【7】

 ぼんやり流れるまま任せていた思考は、振り向いた洋子の、決意に固くなった表情で断ち切られた。

「あのね、お願いしたいのは、子供たちのことなの」

「子供たち?」

 意外なところからの切り出しに、由実はすこし戸惑った。洋子には二人の子供がおり、由実もたまに顔を合わせていた。高校生のお姉ちゃんと――弟くんのほうは小学校にはいったばかりだっただろうか。二人とも明るくていい子だと由実は思っていた。なにか二人に問題でもあるのだろうか。

 救急車のサイレンが近くなってきた。「あの子たち……」と言いかけた声が搔き消され、洋子はすこし声を大きくしなければならなかった。

「あの子たちをね――」

 だがすでに由実は彼女の言葉を聞いてはいなかった。あまりにサイレンが大きすぎる――救急車が近くに来すぎている――と思い、視線だけを窓に向けるつもりが、見たものに意識まですべてもぎ取られてしまっていた。

 救急車が歩道を(ありえない速さで)走る(こっちに)わたしたちのほうに向かって(止まれる速度だろうか?)(いや)止まらない(絶対に無理)ぐんぐん近づいてくる(まさか)(そんな)(人が)歩行者を何人も撥ね飛ばしながら(まっすぐこっちへ)運転手の顔は見えない(フロントガラスに血がべったり)(あれは)(轢いた人の?)(運転手の?)店の窓に面した四、五段くらいの階段を一気に駆け昇り(窓いっぱいに広がる車の顔)飛びこむようにこちらへ(わたしめがけて)避けられない――車がすごい勢いで突っ込んでくる!(みのり!)

 思考のきれぎれが頭のなかを乱反射する。身体が動いたのはその結果ではなく、脊髄的な反射神経によるものだった。両脚をあげてテーブルを蹴り、椅子ごと背中から床に倒れこむ。一瞬、無重力の感覚を覚え――混雑した思考の片隅、妙に澄んだ心の一角で、無重力状態なんて知らないのにこれがそうだなんてどうして言えるのだろうなどという思いが閃き――それも即座に、全身に叩きつけられた衝撃と大音響とに吹き飛ばされた。

 死の意識をまえに研ぎ澄まされて鮮明かつ緩慢になった視界のなかで、洋子の顔にガラスの破片が雨のように降り注ぎ、次いで巨大な車体が彼女の身体を根こそぎ持ち去っていった。だがそれは眼球がその光景を捉えただけで、その現実が由実の意識まで届くことはなかった。その情景を彼女の心に届けて理解させるはずの電気信号なり神経のはたらきなりが効果を挙げるよりも先に、彼女の意識のほうがブラックアウトしていた。

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