第36話「恨みの皮をかぶった羨望」

「わっ!! ああ、タオルタオル」

「あっ……ごめん……!」


 キッチン台に置いてあったキッチンペーパーを手に取り、しゃがみこんだ俺の目に飛び込んできたものは、床にぶちまけられマットに色を伸ばすコーヒーではなく、カップの破片で傷ついたゆうゆの足首に小さく浮かんだ鮮血であった。


「ゆうゆ、怪我してるよ。ほら脚!」

「あ……ほんとだ、ちょっと血が出てる」

「大丈夫!? ほらこれで拭いて!」


 俺は新たに巻き取ったキッチンペーパーを、ゆうゆに手渡す。


「うん……痛くはないよ。大丈夫。せっかく淹れてくれたのに、ごめんね」

「それは大丈夫だよ。けど一応消毒しておいたほうがいいかもね」

「長束は……優しいね」


ゆうゆは、少し前屈みになり、キッチンペーパーで足首を拭いた。しゃがみこみ床にこぼれたコーヒーを拭く俺と、ゆうゆの顔が少し近づく。俺は長いまつげの影が落ちた、ゆうゆの白い頬に思わず見入ってしまう。


「長束……このあいだはごめんね」

「いや、あれはこっちが悪かったから傷つけて本当にごめん」

「私ね……」


 ゆうゆは俺の目を見ることなく、もう血は拭き取れたであろう傷口をキッチンペーパーで念入りに押さえながら、自分の中でなにか言葉を飲み込んだようだった。


「私ね……たまに不安になるんだ。たまにというか最近はもしかしたらずっと不安なのかもしれない」

「不安?」

「うん、このあいだ長束に、『ゆうゆには、向いてないよ』って言われた時、あんなに怒っちゃったのは、自分でもたまにそう思うからなんだ」

「そっか、ごめん」

「向いてない、とは思いたくないし、絶対売れたいって気持ちはあるんだけどいつまでも変わらない日常が嫌になるというか……なんていえばいいのかな」

「うん、大丈夫。聞いてるよ」

「ありがとう。なんていうのかな、先が見えないっていうのかな。夢があることに挑戦しているっていうのはわかってるんだけど、こうどう現状を打破していけばいいのかわからなくて」

「うん」

「実際にダンスの先生に怒られたりもするし、頑張ってるつもりだけどまだ頑張りが足りないとも思ってて、それで……」

「うん」

「頑張らなきゃって焦りと、この先に対する不安が絡まって、もちろん頑張るんだけど、どうすればいいのか見えなくなっちゃって……」

「そっか」

「それで、できるだけ考えないように毎日過ごしてるんだけど、そんな時だったから長束の『向いてない』って言葉、傷ついちゃったけど少し腑に落ちたんだよね」

「ご、ごめん……」

「あ、私がいつまでたってもダメなのは、私にはこの夢は向いてないのかなって」

「いや、そんなことないよ」


 安っぽいフォローが俺の口先からたまらず出てしまう。


「ううん、怒ってるわけじゃなくてそっかぁ……って妙に納得しちゃったんだよね」

「……」

「だから、あの時は泣いちゃったんだ、ごめんね……」

「いや、謝るのは俺の方で」

「ハハッ、またオレっ娘になってるよ……」

「あっ……」


 ゆうゆは、何度か傷口をトントンとキッチンペーパーで抑えたあと、キッチンマットを手に取ると「洗っちゃうね」と洗濯機へ持って行った。


 そっか、俺はゆうゆからの告白が少しショックだった。

 俺が傷つけてしまった、ということに対する罪悪感もであるがそれよりもあんな年下のゆうゆですら、日々に対する不安感を抱えていたということがなぜかたまらなくショックだったのだ。

 ゆうゆは、感情の起伏は激しいようには見えないが俺からすると、見た目もであるが内面もとても愛らしく、ぱっとしないおっさんの俺からみると自分には縁がなかった魅力を充分すぎるほど兼ね備えた女の子である。

 しかし、そんなゆうゆですら不安や悩みを抱えている、という現実になぜか胸が締め付けられていたのだ。

 

 傷つくようなことがあったり、悲しい思いをして過ごす時間がある、というあたりまえのことが、なぜかゆうゆにはあって欲しくなかった。これはゆうゆのことが好きだとか、付き合いたいとか、そういった恋心からではない。


 自分からみると万能の美少女も、自分のように傷ついたり悩む時間があるという事実が、こんなにもみじめに感じるのはどこかで美少女を偶像のように見ていた自分がいたから、だろう。

 俺は自分とはかけ離れた、俺よりも恵まれた容姿をもって特になにかをしなくても人から好かれるであろう人生を送っている彼女たちを、どこか光のように思っていたのだ。

 彼女たちは心の葛藤など特に抱かず、余裕な毎日を生きているはずだ、と思うことで自分の人生の苦しみを消化していた、という表現が近いだろうか。

けれどもゆうゆの心の葛藤を聞き、俺が思い描いていた現実は幻想であり、現実にはそんな余裕で明るさだけの人生は存在しない、という残酷さをつきつけられているような気になったのだ。

「美少女に生まれたら人生はイージーモードなはずだ」という俺の恨みの皮をかぶった羨望は、自分の人生の不遇さを納得させるための偏見だったのかもしれないとこの時初めて思った。

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