第39話 日常急変
平穏な日常とは、やはり偶発的なものに破られる
例えば人間、病気と無縁でいることは困難だ。
今日の朝日も例外ではない。就寝前、少し体調がおかしいなと違和感を感じたが、そのまま眠りについたその早朝の出来事。
強い倦怠感を覚えて朝日は目を覚ます。
意識が覚醒するにつれ、腹痛、何よりも嘔吐感が強くなって行くのを自覚する。
トイレに行こうと思い、リモコンを手に部屋の電気をつけ、ベッドから起き上がる。
するとやけに身体が重たい。風邪だろうか? それとも何か食べたものが当たったのだろうか?
疑問に思いながらも、よろよろと部屋を出てトイレへと向う。
「うええっ!!」
どうやら自分が思った以上に体調が悪いらしい。
下痢はそうでもないが、とにかく嘔吐がひどい。それも過去に経験したことが無いひどさだ。
一旦、吐き切ったと思い便座から離れようと立ち上がるが、そこで襲ってくる強い
「あ、あれ? 僕……どうしたんだろ……これって? うぷっ!」
ひたすた嘔吐が続く。
もう胃の中には何も残っていないのに、強烈な嘔吐感だけが残り続けるのだ。
胃液すらも吐き続け、体力を奪われた朝日はついに便座へもたれるように倒れこんだ。
『急性ウィルス性胃腸炎』
有名どころだと『ノロ』とか『ロタ』と呼ばれるウイルス感染によって発症する胃、小腸の炎症である。
十二~七十二時間程度の早い潜伏期間で発症し、概ね嘔吐、下痢による脱水症状、急激な体力消耗による衰弱が見られる。
もちろん、日本では致死率は限りなくゼロに近い疾患だ。
しかし、ここは日本ではない。
そして、この世界の胃腸炎はそれらと違い症状がひどい。
屈強な女性たちにとっては致死率ゼロの病気と言って問題ないが、この世界の男性となると話が変わる。
男性人口が少ないのは、出生率のみが理由では無い。
身体が弱く、女性よりも怪我や病気で命を落とす可能性が高いのも一因なのだ。
胃腸炎も男性に限定すれば、致死率は約五%に迫る高さである。
ただし、朝日の身体の丈夫さや体力は、どちらかと言えばこの世界の女性側に近い。
実のところ症状はひどいが、致死率発生までには至らない。
だがしかし、傍目からすれば貴重な男性である朝日が、
その事の重大さは、たった今、異変に気づいて第一発見者となった五月の反応が如実に示している。
「あっ……はっ……そ、そんな……あさ……ひ、さま?」
彼女らMapsは男性学を学ぶ過程において、医学知識もある程度修めている。
五月はもちろん、深夜子もこの分野は学校でトップクラスの成績であった。
それ故、現在朝日がおかれている状態が正確に把握できてしまう。
「い、いや……いやぁ……いやあああーーーっ!!」
完全なパニック。
本来AランクMapsであろう者と思えない失態。
朝日への愛情がそのまま裏返しとなって、五月の心を削り取ってしまった。
響き渡った悲鳴に、すぐさま深夜子と梅が駆けつける。
が、これまた梅にとっては、最も苦手な座学分野な上に――。
「なんだよこれ? 朝日……どうした? ……なんで倒れてんだ? おいっ、おいっ、冗談だろ……お、起きろよ朝日。ひっ、ひぐっ……あさひぃ……おい」
このような場面にはめっぽう弱い。すでに半泣き状態。
残すは深夜子一人であるが……。
「これ、間違いなく急性胃腸炎。朝日君! 意識はある?」
「あ……? み、深夜子さん……う……ん。ちょっと吐き気が……ひどいけど……多分、だいじょ――」
「朝日様っ、何をっ、何をおっしゃっていますの!? ああっ、は、はやく、病院? いえ、きゅ、救急車? よ、よよ呼ばなくては!?」
少しは冷静さを取り戻しているが、慌てふためき対応がままならない五月。
そこへ、恐ろしく冷淡な口調で深夜子が指示を始めた。
「
「はっ!? あっ……わ、
「朝日君。すぐお医者さん呼ぶから
「う……うん。……僕なら……だいじょ――、ご……ごめん……ね」
「それでは朝日様。失礼しますわ!」
五月が朝日を抱え、医療室へとつれて行く。
男性福祉対応の家は、男性の急病対応を僅かでも短縮する為に、簡単な医療処置ならば、その場で対応できる設備付き部屋がある。
あえて救急車で病院まで運ぶので無く、対応可能なら医師が直接やってくる。
この世界の男性専用の独特な救急システムだ。
「ひぐっ……あ、さひ……うぇ……」
廊下でへたりこんで泣いている梅に、深夜子がツカツカと近寄る。
「梅ちゃん!!」
バシッと平手打ちが頬を捉えた。
「泣いてないで
「な、なんでだよぉ……朝日のやつ、あんな苦しそうで……ひっく……無理矢理飲ますとか――」
「梅ちゃんしっかりして!!」
日ごろの深夜子からは想像もつかない、絶叫に近い声が廊下に響き渡った。
ふと、梅が目を向けた深夜子の右手は、血がにじむほど握り締められ、かすかに震えていた。
「あっ……ああ、す、すまねぇ……わかったよ」
こうして医療室で朝日の応急処置を五月と梅が行い。その間に深夜子は矢地へと連絡を取って状況説明。
すぐさま男性保護省より、男性総合医療センターへ緊急コールが飛んだ。
『ふむ。時間的にもほぼ完璧な対応だな。念のため一つ緊急性の高いランクで申請しておいたから、それなりの医師が向うだろう。発見タイミングが早かったのは何よりだ。それにしても深夜子、見直したぞ! 普通はこういった場面に初遭遇した場合は――ん、どうした?』
「……やっちー……朝日君……あっ、あぐっ…………あしゃひくん……し、しんじゃったら……ど、どうしよ? ……う、うぇ……ひぃ、ひぃーーーーーん!」
緊張の糸が切れたのか、スマホを握りしめ、その場に座り込んで号泣をはじめる深夜子であった。
泣き続ける深夜子の前で、スマホから矢地の声が響く。
『はあぁ、お前も
「うえぇ……あ、あたし……あたし……あしゃひくぅ……ひぃーーーーーん」
『わかった! ほら、わかったから、な! 五月雨と梅だけじゃなくて、深夜子。お前もはやく神崎君のそばに行ってやれ、もう十分もかからず、医師たちも到着するから、な?』
しばしの間、深夜子を慰め続ける矢地であった。
◇◆◇
武蔵区男性総合医療センター。
その男性救急コール中央伝達室で怒号が飛び交っていた。
「ふざけないでっ!! 対応できる内科担当医がいない? はぁっ!? 非番と他の救急が同時……馬鹿言わないで! そんな偶然ありえてたまりますか? 男性救急なんですよっ! わかってるんで――――くそっ!!」
受話器を投げつけるように置いて、デスクに拳を叩きつける音が響く。
激昂しているのは、白衣姿の三十代後半くらいの女性。男性救急対応事務局長『
その姿に動揺して、焦る部下たちがおろおろと質問を投げかける。
「局長どうしますか? 男性保護省からの緊急、しかもBランク要請……もう対応リミットが五分を切ってます。とにかく最低限でも対応できる医師を派遣するしか……」
「そんなのわかってるわよ! でも、下手にランクの低い医師を派遣して……万一、万一にでも
大事件では済まない。
それこそ国の男性医療トップである、男性総合医療センターの骨幹をも揺るがしかねない醜態にして大罪。
―――張り詰めた空気の中。
一秒、二秒、貴重な時間が沈黙と共に過ぎ去る……。
そこに突然! 何者かが口ばしを挟んだ。
「やれやれ、なんだね騒がしい……宿直室での安眠を妨害しないでくれ
つい先ほどまで寝てました、と言わんばかりの軽い口調。
無論、栗源は烈火のごとき形相で、声の主。この伝達室入り口に立つ影を睨みつける。
「な……ん……ですてぇっ!? ば、馬鹿にしてるのっ!! こんな時間に、なんの宿直担当だか知らないけど。今がどれだけの緊急事態かもわから……ないで……勝手な……」
怒声。しかし、だんだんと語尾は弱まる。
中央伝達室の入り口に立つ影――それが何者かを認識したからだ。表情もこわばってゆく。
「あ、ああ……何故……どうして貴女がここに……!?」
院内での医師たち職員の着衣は、清潔感の観点からも
しかし今、目の前に現れた者の着衣は黒!
この男性総合医療センターで、
そして、その黒衣の肩に銀糸で刺繍されるは”拾壱”の二文字――。
燃えるような赤髪のマッシュショート、少し長めの前髪が左目を隠す。
代わりに力溢れる切れ長でキリッとした右目。すらりとした痩身、その凛とした佇まいから、カリスマ性があふれでる美女がそこにいた。
「ああ、内科医がいないと耳にしたものでね」
そう、彼女こそが男性総合医療センターの内科医長にして、看護十三隊十一番隊隊長。
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