第3話 静寂は屋上に

 栞が現状得ている承認判スタンプは三種類あった。白鳥、雨燕、そして夜鷹。あと七つを六月の末までに集めるのが、栞に課せられた任務だった。それが遂行されなければどうなるか。――それは例えば白鳥家の失墜。例えば、両親を目覚めさせる機会の喪失。例えば、交わした約束を叶えることの放棄。それらを容認することは、とても栞には出来なかった。

 詠歌十家が栞のことを最高位だと認めない最大の理由は、此度に限り、正式に言詠最高位となった人間はどんな願いでも叶えることができるらしいことだ。そう言う風に、栞は綴から聞かされている。しばらく空位だった最高位になるため力を研ぎ澄ましたことへの、星の女神からの褒美なのだという。疑わしい話でもあった。けれど、万が一にも機会があるのに、進んで自らそれを無為にすることは、栞にはできなかった。だって、きっと、うまくいけば、昏睡中の両親を目覚めさせることだって出来るに違いないのに。

 悶々と考えながら紅茶を啜っている栞の目の前に、湊が座った。手にしたブラックコーヒーからは、ほわほわと湯気がのぼっている。


「緊張してるな。……深呼吸したらどうだ」


 考えのまとまらない栞に呼吸を促して、湊は椅子に座る。言われるがままに息をゆっくり吸い込んで、時間をかけてそれを吐き出す。数回繰り返して、ようやく考えの波から解放された。うん、とその様子を見て頷いた湊が、おもむろに話を切り出す。


「立ち入れないはずの屋上に侵入している輩がいるんだってよ」

「屋上に……?」

「ああ。生徒会副会長からのタレコミ。“鳩村”って、二年の生徒」


 副会長とは友達なんだ、と湊はブラックコーヒーをずずずと啜った。栞はその苗字に覚えがあった。言詠は十の家から構成されている。鳩村はその中に含まれていた苗字だったはずだ、と、栞はおぼろげな記憶を辿る。遠縁とはいえ多少なりとも血の繋がりがあるはずなので、言詠の新年会で顔を見た可能性もある。が、栞には顔も名前も思い出すことはできなかった。最後に新年会があったのは栞が最高位候補に選ばれた五年前。けれど、思考に靄がかかったように、新年会のことをうまく思い出せない。

 頭が、痛む。きしきしと締め付けられるような痛みが、警告を発していた。思い出すな、思い出すな思い出すな思い出すな、思い出したらお前は――。


「おい、大丈夫か」

「……っ!」


 はー、はー、と荒い呼吸で息を整える。悪夢から目を覚ましたときのようだ。


「だい、じょうぶ、です。へいき、へっちゃらです」


 そんな訳ないだろうと言いたげな湊の視線を振り切って、カウンターにぬるくなった紅茶のカップを置く。


「いってきます」


 鞄を持って、逃げ出すように玄関を出る。


「あれ。もう行くのかお嬢ちゃん。いってらっしゃーい」


 間延びした譲の声を聞きながら、なぜだか泣きそうになるのをこらえて、マンションの階段を駆け下りていった。





「だいじょぶ? 栞ちゃん。なんか辛そうだよ」


 眉間にしわを寄せながら、頬杖をついて空を見つめる。窓際の席からは外の景色がよく見える。そんな栞の視線を遮るように、目の前に雨燕なおが現れた。


「……なお。大丈夫です。ちょっと、頭が痛いだけで」

「頭が痛いだけじゃ、そんな泣きそうな顔はしないでしょ。もう、栞ちゃんは意地っ張りなんだから」


 なでなで、と栞の頭を撫でながら、なおはいたくなーいいたくなーいと歌う。眠り続ける母を思い出してまた、栞はうるうると涙腺が緩みそうなのを堪えた。それを察したのか、ぽんぽんと頭に手を乗せた後、なおは栞の頭を撫でるのをやめた。


「承認判集め、大丈夫そう?」


 なおが首をかしげると、しゃらりとポニーテールが揺れた。


「……今日、鳩村に会いにいきます」

「そっか。あんまり大々的なお手伝いはできないけど――ほら、雨燕は諦めたから――困ったことがあったらちゃんと言ってね」

「ええ。頼りにしてるですよ」


 最高位を目指しているのは、なにも栞だけではない。最高位候補に選ばれたのは十家から一人ずつ。おおよそ次期当主であろうと目される子女たち。その中において、自らが最優であることを、承認判集めという過程の中で他家に示さなければならない。春から戦いが始まるとわかってはいたのに、まだ栞はそれを実感できていなかった。祖母から聞いた情報も漠然としすぎていて、いったいどの家の誰が候補なのか、栞は皆目検討がついていない。とはいえ、十の家全ての代表者としのぎを削り会うわけではないということは知っていた。

 雨燕は最高位を目指すことを、修行の段階で諦めたという。なにがあったのかは栞はよく知らない。けれど、なおが栞の手伝いをしてくれるようになったのは、その辺りの時期からだった。

それから夜鷹は、そもそも最高位を出す気がないようだ。現当主は譲のはずだが、そもそも敵対するならいくら叔父とはいえ栞のことなど引き取らないだろう。その関係から、すでにその二つの家系の承認判を栞は手に入れていた。なので、残るは七つ。

 覚悟を新たに、栞はぎゅ、と拳を握った。





「……と言っても、どうやって屋上へ行けばいいんですかね……」


 うーん、と頭を悩ませて、うろうろと長い廊下をさまよい歩く。なおは手伝ってくれると言ったが、なるべく自分一人で頑張らなければならない。屋上へ続く階段は廊下の中央にあるが、階段を登っても扉が固く施錠されていて開かない。なんでも昔、屋上から飛び降り自殺を図った生徒がいたという話があり、その後から今に至るまでずっと立ち入り禁止になっているからだ。そんなところにどうして、鳩村という生徒は入り浸ることができるのか。考えても、栞にはその解を得ることはできなさそうだった。

 扉の前に座り込んでどうしようか悩んでいると、かつ、かつ、と誰かが近づいてくる音が聞こえてきた。屋上付近へ近づくことは禁止されている。先生に見つかったらまずい、と腰を浮かせて慌てて物陰に隠れようとする前に、声がかけられる。


「何やらお困りのようだな」


 階段を上がってきたのは、副会長と書かれた腕章を腕につけた青年だった。銀縁のメガネが利発そうな面立ちに似合っている。腕を組みながら鼻を鳴らす姿は高圧的だ。栞は恐る恐る、目の前の上級生に問うた。


「生徒会の人……ですか」


 星謳学園生徒会は、主に高等部の生徒から選出された自治組織だ。役職としては生徒会長、副会長、書記、会計、主務からなっていたはずだと、おぼろげな記憶を辿る。中等部から在学している栞ではあるが、今年度の生徒会役員についての詳細はまだ知らされていなかった。


「まあ、そうだな。ああ、全校集会はまだだったか。ということはお前は僕の名前を知らんな?」


よくわからない質問だった。が、確かに栞は彼の名前を知らない。少女はわずかに首肯した。


「は、はい。存じ上げねーです。ええと……」

「……いや、僕のことはいい。そうだというのならば一度だけだ、お前の手助けをしてやろう」


 名前を尋ねようとする栞を制して、緩慢な動作で懐から鍵束を取り出す。がちゃり、と鍵をあけて、わずかに扉を開いてみせた。


「行くといい。お前が間に合わなければ僕の仕事だったのだが……運命に愛されているな」


 ふ、と笑みをこぼす姿はどこかニヒルだった。そうして男は颯爽と踵を返して去っていく。唖然、と目を瞬かせて、今の遭遇を思考で反芻する。


「……なんなんです!? い、いや、たぶん悪い人じゃねーんでしょうけど、あのポエム眼鏡……」


 そうやって困惑を吐き出しつつも、栞は開かれた扉に一歩、足を踏み出した。

ぎぃ、と扉が開けば、そこにはどこまでも行けそうなほど青い空が広がっていた。四方はフェンスに囲まれた、まさしく仮初めの檻といった風情。

 そんな屋上に佇む、一つの影がある。


「……よく、きたね」


 数学の問題集を片手に、少年がそこに座っていた。短い髪、ブレザーを着た体は同世代の男子を考えると比較的細身で、どこかうとうとと眠そうにしている。


「鳩村家の言詠、ですよね」

「……そう、だよ。白鳥さん」

「わたしの名前を、知ってるんですね」

「噂、たくさん聞かされたから。僕は静。鳩村静」

「白鳥栞です。……ええと、どういう要件でわたしが来たかは、わかってますよね」


 両者の間に緊張がはしる。ある種戦いの狼煙をあげたようなものだ。栞は静のことをじっ、と見つめて、その出方を伺った。能力は、魔力の質は、術師としての腕前は。


「判子、欲しいんだよね。……いいよ、あげる」


 ん、と右手を差し出した。台紙を差し出せ、という意味だろうか。栞は眉根をひそめる。何かの罠ではないだろうかと、鳩村少年の姿をつぶさに観察する。


「最高位、めざしてない、から」


 ちょいちょい、と手招きをされる。すぐに飛び下がれるように右手にあらかじめ仕込んでおいた手製の呪符を持って、警戒しながら栞は近づいていく。静は制服のポケットから、美しい文様の描かれた布の袋を取り出して、そこから手のひらに収まる程度の大きさの判をとりだす。鳩の紋は確かに、栞が求めるスタンプそのものだった。一緒に入っていた朱肉に、おもむろに印章をぽんぽんとくっつけ、色を乗せる。


「……いいんですか」

「だって、これがほしい、でしょ」


 小首を傾げながら、何をいうのかわからないといった顔で、静は栞のことを見つめていた。


「あなたには、望みがないんです?」

「望み?」


 最高位になれば、願いを叶えられるかもしれないことを、目の前の生徒だって知っているはずだ。なぜ、みすみす敵となるような存在にそれを容認させるのか。

 栞は訝しげな顔をしながら、相手の返答を待った。静はふむ、と少し考え込む。


「……話し、相手。もっと、ほしいなぁ」


 ぽつりと呟いた言葉は、願いに満ちていた。それが、最高位を目指しても手に入らないものであるのは、栞でもすぐに理解できる。使い古された数学のテキストに書き込まれた無数の数式の中には、きっとその解法は乗っていないはずだ。栞の脳裏に、いつかの自分の姿がよぎる。あの時孤独な雛鳥を救ってくれた彼女のように、少しは静の手助けができないだろうか。


「だったら、わたしが」


 そうして気がついたら、腕を差し伸べていた。承認判を持たざる方の手で、静が栞の手を取れるように。


「あなたの話し相手、です」


 にこり、と微笑む。静は少し逡巡して、おそるおそる、少女の手を掴む。触れた温もりは確かに、互いの寂しさを打ち消す効果はあるだろう。ふわりと風が吹いたのはその瞬間だった。静の手から印章が離れる。栞のポケットから、台紙が浮かび上がって、自動的に印が押された。


「な、なんです!?」


 目を見開いて驚く栞に、静は唇をかすかに持ち上げて微笑んでみせる。


「お近づきの、しるし。これが僕の、力。自分が移動したり、移動させたり、できる」

「なるほど……」

「鳩は、どこにもつかない。でも、白鳥の応援は、する」


 宙に浮かんでいた台紙と判子をキャッチして、台紙の方を栞へと差し出す。押された文様は、どこか和平の証に似ていた。

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