未来の思い出、あるいは抗う者達の断章
彼女が彼女でいられた日
広大な基地の敷地内に、
パンツァー・モータロイドのパイロットはエリートなので、ややこじんまりとした家だ。
家庭を持つことも、
玄関の呼び鈴を鳴らすと、小さな足音が駆けてくる。
不意にバン! とドアが開いて、小さな男の子が飛び出してきた。
「なにものだー! かんせーめーをなのれー!」
軍の礼服を着込んだ千雪を見上げて、男の子は瞳を輝かせる。
千雪は小さく笑って、かわいい上官殿に敬礼してから屈み込んだ。
「
「うーむ! じょーりくをきょかすゆー! わーいっ、チユキおばちゃんだーっ!」
抱きついてきた幼子を抱き返し、軽々と千雪は抱き上げた。
このかわいくてやんちゃな大佐殿は、千雪にとって特別な子供だ。
好きな人の血を受け継ぐ者、そして敬愛する兄の一字を
でも、そんなことなどこの子には関係ない。
祝福された平和な未来が、その無限の可能性が広がっているのだ。
「
「うんっ! チユキおねーちゃん、またクンショーつくったよ? あとであげるね!」
「いつもありがとうございます、統馬大佐。ちゃんとお母様のお手伝いをして、いい子にしてますか?」
「してるよー! ボクはたいさだから、チユキおねえちゃんはそんなこといわなくていいのー!」
「はいはい、わかりました。そうでしたね、統馬大佐」
再びドアが開かれたのは、そんな時だった。
奥から、エプロン姿の女性が飛び出してくる。
確か、自分と同い年だから……25歳だ。
摺木りんな、旧姓
「お疲れ、千雪! 元気だった?」
「ええ。
「そうなのよー、全然連絡もよこさないのよ? なんか、典型的な仕事馬鹿になっちゃって」
りんなはすぐに、千雪に抱きつく自分の息子をひっぺがした。
「こーら、統馬! ちゃんと挨拶したの?」
「したもん! うむ、チユキたーい、ごくろー!」
「もう、どこでそんなの覚えてくるんだか。さ、上がって上がって! 散らかってるけど」
そう、ここは摺木統矢がりんなと結婚して暮す家だ。
統矢は現在、
統矢にとって千雪は、よき相棒であり、信頼できる副官。兄弟同然の先輩の妹で、唯一背中を預けられる存在。でも、そんな彼が愛したのは目の前の女性なのだ。
玄関をあがるとすぐ、統矢の存在をそこかしこに感じた。
好きな人の匂いが、微かに感じられる。
リビングで千雪をソファに座らせ、りんなはダイニングで繋がったキッチンへと駆けていった。解放された統馬が、とてとてと再び千雪の元にやってくる。
「千雪、仕事はどう? かつて【
「上手くやれてる自信はありませんが、なんとか。……私は、ものを教えるのは向いてない人間ですから」
「またまたー! 千雪はわたしが知る限り、世界で二番目に強いパイロットだぞ?」
その柔らかな髪を撫でながら、千雪はくすぐったい感情にはにかんだ。
今でもやっぱり、少し切ない。
ずっとまだ、統矢を好きなままだ。
でも、行き場のない想いが重く濁って、我が身を熱く
「
お茶の用意をしてきたりんなは、満面の笑みでのろけてくれた。
「そりゃー、わたしの旦那様、統矢に決まってるっしょー! なんてな、わはは!」
「そう、ですよね……確かに、統矢君の操縦はあらゆる局面で洗練されています。それでいて、全くパターン化されていないナチュラルな操作、判断」
「おーい、千雪? ここ、突っ込むとこなんだけど。うん、まあ……あいつ凄いよね」
「ええ」
りんなが嫌な女だったらよかったのかもしれない。
でも、統矢と幼少期から一緒だったこの女性は、今や千雪にとっても親友だ。悔しいくらいに憎めなくて、
りんなはきっと、千雪の胸の内に気付いている。
でも、千雪から統矢を取り上げないし、統矢を隠したりもしない。
その気になれば、統矢に言える
信用されているし、信頼がある。
夫のよき戦友としての千雪を、同じ戦友だったりんなは信じてくれているのだ。だから、ますますりんなを嫌えなくて、千雪はずっと自分を律してきた。
「ねー、チユキおねーちゃん? ケーキもあるろー?」
「ほらほら、統馬! 千雪の膝から降りなって」
「やら! ママよりチユキおねーちゃんがいい」
「お前はもー……ごめんね、千雪」
全然構わないと伝えれば、それが嘘偽りない言葉として伝わる。
りんなはサバサバしていて気が置けないし、下手な嘘は通じない。そして千雪には、彼女に嘘をつく必要がなかった。
ただ、自分が軍人として守るべき存在が今、膝の上にいる。
統矢の血を受け継ぐ、命の重さが確かに温かい。
お菓子に手を出し始めた統馬を撫でながら、千雪は訪問の理由を思い出した。
「りんなさん……軍に復帰するそうですが」
「そだよん? 統馬の育児も一段落したしね」
「……い、一応、その、調べて、しまい、ました。どんな任務か、えっと、気になりまして」
「ちょっと統馬! こぼれてる! 千雪のスカートにこぼれてる! ……ん? ああ」
少し後ろめたかったが、千雪はりんなの軍への復帰を調べた。彼女もまた、新地球帝國軍にその人ありと言われたエースパイロットである。
だが、高度な機密扱いで、千雪のアクセスコードでは情報開示ができなかった。
軍の中でも、皇帝団警護大隊と並ぶ最精鋭、戦技教導団の隊長でもだ。
もしや危険な任務ではと、心配して駆けつけたのである。
統馬をよいしょと取り上げ、りんなはスカートに散らばったお菓子を綺麗にしてくれた。そして、統馬を抱いたまま見下ろしてくる。
「ふっふっふー、
「危険はないのですか?」
「さあ? 宇宙は未知の脅威があったりなかったり? なんてな、ニシシ!」
「ふっ、ふざけないで、ください……その、りんなさん……
つい、言葉に熱がこもってしまった。
引かれたかもしれない。
だが、りんなは統馬を抱いたまま、もう片方の腕で千雪の頭を抱いてくれた。ふわりと柔らかな体温が浸透してきて、これが母親の匂いなのかと千雪は驚く。
安心させるように千雪の背をトントンと叩くと、りんなは少しおどけてみせた。
「千雪、そこまでわたしのこと……よし、結婚しよ! わたし、統矢と別れて千雪を嫁にする!」
「あ、ずるいろー! ママ、だめー! チユキおねえちゃんはボクとけっこんすゆの!」
「お、統馬がお嫁さんにもらうのかー? じゃー、ママは千雪のお
「キャハハ! ママ、らめ! らーめ! チユキおねえちゃん、いじめちゃ、らめ!」
なんて温かな家庭だろう。
統矢が選んだ、統矢の帰るべき場所。一緒に生きてゆく家族。そのどれもが
だが、りんなはそっと千雪から離れると、真面目な表情を作った。
「実はね、宇宙に上がる。千雪さ、信じられる? ……宇宙人て、信じる?」
「宇宙人、ですか……はっ! ま、まさか」
「あ、戦争するんじゃないんだ。まだしない……ってか、戦争にならないようにするの」
驚くべきことに、りんなは地球と異星の知的生命体と会うという。極秘に選ばれた使節団と共に、月の裏側で会談が行われるのだ。
今、地球は一つの国家として
国境は意味を喪失し、人の目は平和の中で外宇宙へと向いている。
その
「使節団の護衛、これはね……腕っこきのベテランPMR乗りが必要だけど、下手に人員を動かせば
「気取られる……敵対勢力がいるんですね?」
「そ、異星人との交渉に反対する一派がいてさ。だから、千雪や統矢達を使う訳にはいかない。で、このロートルりんな様に白羽の矢が立った訳!」
千雪は毎日、PMR乗りを目指す若者達と接しているからわかる。恐らく、りんなの腕は全く落ちていないだろう。
自分達と同じ、この地球で最高峰のエース、それがりんななのだ。
「千雪、一つだけお願い、頼めるかな?」
真剣な母の顔に驚いたのか、統馬は黙ってしまっていた。そんな息子にいつもの笑顔を向けてから、りんなは迷いなく言葉を選ぶ。
「なんでしょうか、りんなさん。私にできることなら」
「千雪にしかできないこと、だよ? ……もし、わたしがいない間に統矢が」
「りんなさん! それは無理です! 嫌です……いなくなられては、困ります」
「はは、もしもの話! もし、わたしの不在中に統矢がなにか失敗をしでかしたら。ほら、あいつって結構
よく知ってるし、
そんな彼の、正しさゆえの危うさ、強さゆえの
「統矢が間違ったら、助けてあげて。支えて、正して、それで駄目なら」
「駄目なら……?」
「バチーン! って、ひっぱたいてあげて! いい? 女と女の約束! お願いねっ!」
千雪は
それが、りんなとの最後の思い出で、彼女は永遠になってしまった。
時間を超えた存在として、千雪達の心の中へ去ってしまった。そして、世界線をも超えるシステムへと組み込まれてしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます