第六話 サンタが街にやってくる

 田島さんのところで明るい話を聞かせてもらって、俺の気分はぐんと高揚した。いい年こいたおっさんが、何ばかげたことを。そう言われても仕方がない、歌の宅配。でも、五年の間にお客さんに楽しみにしてもらえるようになった。そらあ、めちゃめちゃ気分がいいさ。


 単なる自己満足だけじゃ、絶対に続かなかった。一年のうちのたった一日のためにレッスンを積み重ねる。俺が手抜きしないでちゃんと自分を鍛えてきたことが、少しくらいは身になっているのかなと思う。そして、俺のヘボな歌を少しだけマシにしてくれた先生が五人目のお客さんだ。


「こんにちはー!」

「お、村野サンタさん、来たわね。今年はどう?」

「みなさん、すごく喜んでくれてます。練習の成果大、ですよー」

「なによりね」


 大人の音楽教室。俺が歌の宅配をしようと決めた時に、真っ先に受講を申し込んだところだ。声楽科の谷口先生は、あらさーの美人の先生。先生のレッスンを受けたいがために、鼻の下を伸ばして受講希望する男の生徒さんもいるらしいけど、俺にはそんなことに気を散らす余裕はなかった。

 先生とは、その時からの長い付き合い。カラオケすらまともにやったことがなかった俺は、先生が受け持った生徒の中でも最低最悪のレベルだったと思う。そして、先生の指導は半端なく厳しかった。その厳しさゆえに、甘っちょろい考えで受講した生徒の大半が一年も保たずにやめていった。レッスンに食らいついた俺は、なんとか生き残れたってことなんだろう。


 フォークギターを教えてくれる渡辺先生と合わせて、俺の宅配を下支えしてくれた音楽教室の先生たちには本当に頭が上がらない。


 パイプ椅子を二つ開いて、そのうち一つに座ってギターを構える。


「じゃあ、始めますね」

「よろしくー」


 俺の向かいに腰を下ろした谷口先生が、きっちり腕組みし、口をへの字に結んで俺の発声を待つ。


 お客さんと言っても、先生は他のお客さんとは意味合いが違う。俺は、いつも先生に歌の根っこを見られているんだよね。


◇ ◇ ◇


 最初に俺が先生に歌の宅配のことを持ち出した時、先生はすごく難色を示したんだ。


「自分が好きで歌う人、誰かに聞いてもらいたくて歌う人、人と声を合わせるのが好きで歌う人、歌いたいっていう動機はいろいろあるの。でも村野さんのはすごく危ないわよ」

「どうしてですか?」

「自己表現の絶対欲求が低い。奉仕にしては技能が全然足りない。基本的にお客さんとの一対一で、広がりがない。わたしが最初に挙げた動機をどれ一つ満たしていないでしょ?」


 素人相手にお世辞の一つでも言うのかと思ったら、先生の指摘には容赦がなかった。俺は……何も言えなくなったんだ。


「単純に歌が好き。多くの生徒さんは、そういうすごく原始的な欲求に駆られてここに来るの。村野さんは、その絶対的な欲求の量が全然足りない」

「う……」

「そういう人は、レッスン時間に技術の向上が伴わないの。なかなかうまくならないから、モチベーションが下がって結局続かない」


 どう反応したらいいのか分からず、俺は固まってしまったんだよな。


「そうね。まず今の自分と比べて、レッスンで何がどう変わったのかを常にチェックしてね。うまくなったかどうかはどうでもいい。なぜ村野さんが歌いたいのか、歌ってどうするのか、歌えるようになったら次にどうつなげるか。歌の宅配というアイデアの中に村野さん自身をどう置くか」

「はい」

「答えなんかないわよ。それは村野さん自身が探していかないとならない。わたしは、技術的なサポートしかできないの。それをしっかり覚えておいてね」


 谷口先生の厳しさは、他の生徒さんから必ずしも歓迎されていなかった。でも俺は、お世辞やおべんちゃらで適当に生徒を持ち上げる先生よりずっとマシだと思ったんだ。

 俺に足りない部分がいっぱいあるのは事実。それをどうマシにしていくかが大事なんだ。歌う技術だけでなく、なぜ歌うのかっていう根源の部分も含めてね。先生が真正面から指摘してくれたことを、それこそ無駄にしたくなかったんだよな。


 先生は、誰でも知っていて一緒に歌えるクリスマスソングの中から、サンタが街にやってくるを必修課題曲に選んだ。同じ曲を、テンポ、曲調、アレンジを変え、それこそ喉に血がにじむくらい徹底的に練習させた。これしかできないという発想から、ここまでならできる、に。ここまでならできるというレベルから、もっともっとできるぞ、に。


 たった一日のために、なんでそこまで? 最初のうち、俺の中でそういうやらされ感があったのは確かだ。でも、それをすぐに糾弾された。


「自分で歌って自己満足ならそれでいいわ。でも、届け物ががらくたなら受け取ってもらえないよ。人んちにゴミ捨ててくなって言われるだけ」


 ううう。情け容赦なし。ばっさり一刀両断。一回り以上年の違う若い先生にずけずけ指摘されるのは、めちゃくちゃ堪えた。でも、先生が真剣なのに俺が半端な姿勢のままなら、そらあものすごく失礼だ。俺は、レッスンを受ける時の姿勢だけでなく、歌の宅配に向かう時の姿勢も見直さざるを得なくなったんだ。


 曲がりなりにも五年間俺が歌を届けてこれたのは、谷口先生の厳しい指導あってこそ。それにすごく感謝することはあっても、嫌気がさしたり、やめよう逃げ出そうと思ったことは一度もなかった。


◇ ◇ ◇


 今、課題でやっているのはジャズアレンジのもの。俺の苦手なリズムと節回しだけど、お手本がすごく多い。ユーチューブでいろんなジャズアレンジの曲を聞いて耳を肥やし、それを自分なりに取り込んで、自室で歌い込んできた。


 どうかな?


 歌が終わってからも目をつぶったままじっと腕を組んだままだった先生は、ゆっくりと腕を解き、溜息とともに目を開いた。


「うん。すごくよく仕上げてある」

「おっ! そうですか! うれしいなあ」

「いや、本当にうまくなったよ。歌に正面から向かい合うようになったね。それがよく分かる」


 そらあ、俺にとって最高の褒め言葉だ。思わずガッツポーズを取ってしまった。


「やりぃ!」

「あはは。絶対的なレベルという意味では、まだまだだけどね。でも、プロを目指すわけじゃないんだから、お客さんの期待値以上のものを届けられれば十分でしょ」

「はい。それと、少し余裕が出来たかなあと」

「うん」

「歌うことで手一杯だった最初の頃と違って、今はお客さんの話を聞く余裕があるんですよね。それに合わせて歌い方を調整できるってのは大きいです」

「そう、そこよ」


 先生が、ぐいっと身を乗り出した。


「なんかね、最初の頃は、村野さん自身がいっぱいいっぱいだったように見えたの。それがものすごく危なっかしかった。歌を歌うことだけで精一杯で、その時は自分しか見てない。自分にしか意識が向いてない。誰になんのために歌を届けるのかっていうところが、ぽっかり空いててね」

「ええ。そうだったかもしれません」

「今は、逆でしょ?」

「間違いなくそうです。むしろ……」

「うん」

「私の歌を待っているっていうより、みなさんサンタが来るのを待ってるんだよなあと。それに気付けるようになりました。歌は……あくまでもおまけなんですよね」


 ぐらっと体を傾けた先生が苦笑いする。


「あはは。わたしはそこまで言わないよ」

「いやあ、正直まだまだ届けられるクオリティじゃないと思ってます。でも」

「うん」

「歌は一緒に楽しむことの象徴。それでいいんじゃないかなあと思って」

「そうね。それが、村野さんの出した答えね」

「はい」


 先生が一つぱちんと拍手をして、満足そうに頷いた。


「五年。その間の旅路を村野さんがしっかりものにしたこと。たくさんのお土産を手にしたこと。わたしは……それだけで十分満足です。講師冥利に尽きるわ」

「ありがとうございます!」


 立ち上がった先生は、座っていたパイプ椅子を畳んでさっと片付け、ふうっと大きな溜息をついた。


「五年。わたしも、その間に村野さんからずいぶん贈り物をいただいたわ」

「えー? そうですかあ? できの悪い生徒で迷惑ばかりかけて」

「いえ。わたしが見てきた生徒さんの中で、村野さんほど真剣に歌と向き合ってきた人はいない。他の生徒さんは、みんな趣味よ。でも、村野さんのは違う。歌手としてはプロじゃないけど、歌の宅配人としては間違いなくプロなの」

「うん。私は、そのつもりでずっとやってきました」

「そうでしょ? だから、わたしがどんなにきついことを言っても音を上げない。どこまでも食らいつく。そういう真剣な生徒さんを持てるってことは、わたしたちにとって財産なの」

「へえー?」


 それは意外だった。


「プロ志望の若い人たちも教えておられるんですよね?」

「ええ。でもね、彼らは、わたしたちにテクニカルな指導しか期待しない。歌に向き合う姿勢や目標は、彼ら自身がもうすでに持ってる。わたしたちには触りようがないの」


 そうか……。


「もっともっと根源から。なぜ歌うのか。歌いたいのか。そういうところを、五年かけて一緒に考えてこれた。そんな幸運はめったにないわ」

「最初がぼろっかすでしたからねえ」

「いや、最初は誰でもゼロからよ。もちろんわたしもそう」


 もう一度。肩を上下させて大きな溜息をついた先生が、いきなりとんでもない事実を目の前に転がした。


「村野さんとのレッスンをやってた五年の間に。わたしもゼロに戻ったの。主人と別れて、子供も取られた」


 げえっ!


「わたしには。クリスマスを一緒に過ごす相手が……いなくなったの」

「そんな」


 ぎっ! 眉を吊り上げ、口をぎゅっと結んだ先生は。それでもきっぱりと言い切った。


「でもね。村野さんは五年を無駄にせず、きっちり使い切って自分を鍛え上げ、一切言い訳をしなかった。指導役のわたしがそれ以下だったら、教える資格なんかなくなっちゃう」


 壁際に置いてあったバッグ。その中から名刺を一枚取り出した先生は、まだ絶句していた俺にそれを手渡した。


「成り行きで、今までダンナの姓で仕事してたけど。旧姓に戻します。次から佐藤、ね。よろしく」

「は……い」

「村野さんと同じよ。わたしもゼロからやる。一分一秒も無駄にしたくない」


 宣言した先生は、ぐんと胸を張った。それから、俺に向かってひょいとお辞儀をした。


「さっきの。とてもいい歌だったわ。ありがと」



BGM:Santa Claus Is Coming To Town (Manhattan Transfer)

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