第3話
「ほう?
翌日。
やって来た
言うまでもなく、そのことが
「特にその頬の色! 何と鮮やかな──そうだな、花に例えれば、梅? 桜? 杏? いや、違う。
何だろう? あれ、
成澄の感嘆の言葉に
「何と! 日頃無粋な
だから、俺が名づけ……いや、気づいたのよ。芳心丸の名の由来はきっとあの詩に違いないと」
得意げに朗々とその詩を読んで聞かせる
枝間の新緑
芳心を愛惜す
「へえ! 初めて聞いたぞ、その漢詩……」
「だろうな。おまえが知っているはずないさ。俺だから知っているのじゃ」
「言ったな! だが、気に入ったよ。いい詩だ」
検非遺使は頻りに頷いて、復唱した。
「芳心……美しい花よ。
おまえを大切に思うからこそ、どうか、急いで咲かないでおくれ、か……」
「そう」
微笑んで有雪も続けた。
「春風の相手は、しばらくは桃や杏にまかせておけばいいじゃないか。
連中を騒々しく咲き誇らせておけばいいさ。
だが、おまえは……」
「おまえだけは、蕾のままでいておくれ……」
今日ばかりは何やら青年二人、妙に意気投合したようだ。
こんな日もある。
──と言うか、実はこの二人、案外馬が合っているのではないか、と
「そこだ、そこ! もっと肘を引き締めて……手綱を引け!」
「こうか?」
「よし! いいぞ! 上達したな、狂乱丸? この調子なら、すぐに俺と一緒に遠乗りができるぞ!」
数日後の鴨の河原。
検非遺使に乗馬の手ほどきを受けているのは
その様子を少し離れた土手に腰を下ろして婆沙丸は眺めていた。
隣には芳心丸がいる。
「……そんなに兄者のことが気になるか、芳心丸よ?」
「!」
婆沙丸の言葉に芳心丸は紅い頬を更に紅くした。
「あ、あの、わ、私は……その……」
「いいさ、何も言わなくて。これだけ始終見つめていちゃあ誰にだってわかると言うものさ!」
婆沙丸は草の上に寝転がった。揚雲雀が高く舞い上がる空。
「あーあ、いつもこれだ! 双子なのに、何故か、兄者の方がモテるんだ。あんなに冷血なのにさ!」
冗談めいた口調から一転して、真摯な声になる。
「悪いことは言わぬ、芳心丸。早いとこ諦めたほうがいいぞ。兄者に恋したって報われっこないんだから。いいことなんて一つも──?」
芳心丸の肩が尋常でなく震えている。
「おまえ……だっ、泣いているのか?」
「婆沙丸様!」
芳心丸は婆沙丸の胸の中に崩折れた。
「お助けください、婆沙丸様! もうこうなったら、貴方様にお縋りするほか、手がありません!」
「え? え? え?」
ちょうどその時、耳をつんざく悲鳴が河原に響き渡った。
「ウワ────……ッ!」
「危ないっ、狂乱丸!」
だが、そっちを気にする余裕は婆沙丸にはなかった。
胸に縋り付いて泣きじゃくる芳心丸。
「婆沙丸様ぁ……!」
「ほ……芳心丸……?」
(い、いかん……これは、どうしたことじゃ?)
確かに、俺は今まで女には滅法弱かったが……惚れ易い
こんなにトキメクようになったのだろう?
片や、河原は大騒動である。馬の嘶きに混じって検非遺使の叫ぶ声。
「だ、大丈夫か? 狂乱丸──?」
「大丈夫じゃない……クッ、は、早く、助けろ、成澄……でないと、俺は……」
先刻の叫び声とは一点、消え入りそうな狂乱丸の声。
「……このまま……死んでしまう……」
「狂乱丸──っ!」
「で? 改まって俺に話とは何じゃ?」
夜具の中で兄は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「今夜は俺はさっさと寝ようと思っておったのじゃ。おまえだって
全く、河原では散々だった……」
川縁での乗馬の練習中、突然暴れ出した馬に放り出されて落馬した狂乱丸。
天をも揺るがすあの悲鳴はその際のものだった。
とはいえ、身の軽い田楽師のこと。咄嗟に空中でクルリと回転して上手く落下したので大怪我は免れた。右足を軽く捻った程度。
だが、常人だったらこうはいかなかったろう。命を落としていたかも知れない。
「まあ、責任を感じた成澄がおぶって帰ってくれたし」
もう馬は絶対嫌じゃ、とゴネタせい。
「明日も、屋敷内だろうと移動は抱いて運んでもらう約束だからな。フフッ」
それはそれで却って嬉しかったりする。
明日のことを思って、頬を緩める兄に反して、弟の方は何やら深刻そうだった。
「聞いてくれ、兄者。芳心丸のことじゃ」
「芳心丸だとぉ?」
途端に厳しい顔つきになる狂乱丸。
「有雪の次はおまえか、婆沙? 何だってまた、
成澄も感嘆していた、あの忌々しい頬の色のせいか?
「だが、
(それだよ……)
こっそり婆沙丸はため息を吐いた。が、すぐに気合いを入れ直す。
「なあ、兄者、芳心丸のたっての頼みを聞いてやってくれぬか? いや、芳心丸というよりも──」
婆沙丸は言い直した。
「そもそもあいつがこの屋敷に転がり込んだ理由も、元を
あのな、兄者に恋しているのは芳心丸ではなくて、その姉君なのじゃ」
「!」
「まあ、芳心丸を見てもわかるように──やんごとない家柄らしい。その姫じゃ。流石に姫自身は容易には邸を抜け出せぬから、弟に願いを託したのだと」
その願いとは──
「一度で良いそうじゃ。今生の思い出に、一夜、兄者と二人きりで過ごしてみたいと」
「断る」
狂乱丸はあっさりと拒否した。
「そ、そこを何とか! 本当に一度で良いそうじゃ。その願いさえ叶うなら、もう芳心丸も田楽屋敷には二度と来ないと言っている」
弟は兄を横目で見た。
「兄者は早いとこ
かくいう婆沙丸自身、今ではそうだった。芳心丸が近くにいたのでは貞操の危機である。男女見境なく惚れるようになってしまっては身が持たない。
「まあ、それは──そうじゃ」
「だよな! このままでは俺同様……じゃない、成澄が芳心丸に
「おい、いい加減にしろよ、婆沙」
「成澄だって、どちらかを取れと言われたら、そりゃあ、絶対──」
「だが、ダメなものはダメじゃ! 断る! 女と逢引など俺は絶対しないからな! しかも、やんごとなき姫君だと? ウザったいにも程がある!」
「兄者……」
「それによ、見ての通り、俺は大怪我を負って動けぬ身じゃ」
「嘘つけ! 大したことないくせに。俺にはわかってる。双子を騙そうったって無理じゃ」
「双子か──」
狂乱丸の瞳がパッと燦いた。
「それじゃ! そうだった! 俺たちは
「兄者?」
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