第70話 どす黒い感情

 ぱっつん前髪の、まるで小動物のような仕草をする少女――

 智恵子は2つ年下の神崎詩織を見てそう思った。


「あっ、ごめん、補習の邪魔しちゃったね。どうぞ続きをやって。私たちはあと30分ぐらいしたら3年生の教室へ行って授業を受けるのを待っているのよ」

「そうなんですか。じゃあ坂本先輩に教わったやり方でやってみますね。ありがとうございました!」

「いえいえ、どういたしまして!」


 佳乃は可愛い後輩を得たような気分にでもなったのだろう。にこにこしながら詩織の勉強を眺めている。

 一方、そんな佳乃の様子を見ている智恵子は、モヤモヤした感情がわき上がってくる自分を律し続けていた。


「よーし……じぇい、えー、あーる、えぬ、ゆー、えー、あーる、わいっと……なるほど!」

「えっと、ごめんね詩織ちゃん。今のは……なに?」

「英単語を書きながら声に出して……えっ、何か違いました?」


 詩織という少女は英単語を覚えるコツを全く分かっていないようで、佳乃が慌てて声をかけた。2人の様子を見て智恵子は――


「ははーん、佳乃ちゃん、この子……天然ね!」

「そ、そうね……天然だわ」


 佳乃も同意した。


「なっ、何ですか? 私、友達にもよく『天然』って言われますけど、天然って何――?」

「詩織ちゃん、あなたはそんなことを気にせずまっすぐ育っていってね? お姉さんたちからのお・ね・が・い・よ?」


 智恵子は人差し指をちょんちょん動かしながらそう言い、最後にウインクをした。


「気になりますぅ――! 教えてくださいよ、先輩!」


 詩織が佳乃に祈るようなポーズをして頼んでいる。しかし詩織が気にするべきはそれではない。それを佳乃が諭すように――


「ねえ詩織ちゃん。英単語を覚えるときにはちゃんと発音しなければだめよ。綴りを言っても頭には残らないでしょう?」


「がーん!」


 智恵子はその擬音を口に出して表した少女を初めて見た。

 やはりこの子は天然で、小動物だ! 智恵子の想像は確信に至った。


「ね、ねえ佳乃ちゃん……この子うちの寺に連れて帰っていいかな?」

「それは完全に犯罪だよね?」

「あれ? 長谷川先輩はお寺の人なんですか?」

「そうだけど?」

「私の家は神社なんですよー。山の麓にある下賀美神社です!」


 下加美神社という言葉を聞いて、智恵子の心臓がどくんと脈を打つ。

 ここに来る途中にも見た、あの立派な鳥居のある神社……

 少女はあの神社の娘だったのか。

 智恵子の胸にどす黒いもやがかかっていく。


「――じゃあ、ウチらはライバル関係だね……」

「えっ? 何故ですか? 神社とお寺ってライバルなんですか?」

「冗談よ、じょ・う・だ・ん!」


 智恵子は自分の感情をはぐらかした。

 そもそも、小動物のような仕草が可愛いこの少女に罪はない。

 智恵子にはそれが分かっている。理屈では……


「智恵子! 詩織ちゃんをからかうのはその辺でやめておきなさい。ごめんね、補習の続きをやってちょうだい。このお姉さんの面倒は私がみるから!」


 佳乃が少女に手を合わせて謝っている。

 どうやら自分の話し相手を引き受けてくれるようだ。

 いつになく饒舌じょうぜつな佳乃に合わせるのも悪くはない。

 それで胸のもやもやが解消されるのなら――智恵子はそう考えた。


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