第3話 ずるい自分
隙間なく屹立する銀色の高層ビルが、落陽を幾層にもして跳ね返している。
東京エリア第一区。
戦後、エリアという区画で隔てられた東京の中でも一番の大都市で、普段から喧騒と人の流入が途切れることはなく、慌ただしさに溢れている。
戦争が終わり、不可侵条約を結んでからまだ五年。短期間で国を復興できたのは、一重に科学の進展と、国民の努力あってのことに他ならない。
まだ五年、されど、もう五年である。
「一応連絡は取っておいたけど、ちゃんと待っててくれてるかなあの人は……」
職を失った翌日。海斗は一人東京エリア第一区の街並みを見渡しつつ、呟きながら嘆息した。
今日この地に赴いたのはただの道楽の為ではなく、新しい仕事を手にする為。
一人知り合いがおり、これからその人を尋ねる予定になっているのだ。
前向きな行動ではあるのかも知れないが、それをいいように捉えられないのは、もはや海斗の性分で、
「やっぱり仕事は一から自分で探した方が……」
眉間を寄せて、迷いを吐露する。何とも足が進まないのは、今になって始まったことではない。
駅から歩いて5分。目的の場所に着いた海斗は、目の前にあるその建造物を眺め、脱力した。
自分にとって場違いなその建物は、堅苦しさを具現化させたような大学病院。全体的に白い外壁で覆われているため、銀白色の世界では少し浮いた存在だ。一棟から9棟まであるらしく、それだけでも規模の大きさを伺える。
いつ来ても入る事に抵抗さえ覚えるが、深呼吸を数回繰り返した後、厚いガラス造りの自動ドアをゆっくりと通過した。
中に入ると、しんとした静けさの中に、受付の小気味よい挨拶が響く。海斗は軽く会釈するだけで、奥にある階段へ。
院内は外壁の堅苦しさとは相反した解放感があり、それが逆に落ち着かない。
階段を登り4階に着く。目的の一室の前で今一度部屋が会っているかの確認を済ませ、引き戸を開けた。
「博士いるか―?」
埃一つない蛍光灯に照らされた廊下から一転。戸の奥は薄暗くじめじめとして、不気味な雰囲気が漂っていた。薬品臭さが鼻に付き、自然と顔を顰めてしまう。
それから少し待つも、中々返事がなく人の気配もしないので、海斗はとりあえず椅子にでも座って待つことにした。あの人が約束を忘れるのはよくあることだ。どうせまた、どこかで小難しい研究にでも没頭しているのだろう。
「えっ……。なんだ……」
不意に足裏に違和感を覚える。海斗は驚き声をあげながら後ずさると、表情そのままゆっくり床に視線を落とした。
「ちょっと。踏まないで。わしそういうプレイ好きじゃないから」
明かに緊張感を欠いた声。
刹那、海斗はその声の人物が誰かを悟る。
小太りな体格に、薄くなった白髪がどこか頼りない。白衣を着れば多少理知的に見えるはずだが、彼にそんな要素は皆無だった。実際は世界的権威だという事らしいのだが、海斗はその事実に未だ疑いさえ抱いている。
苦しそうに唸っているこの人物こそ、この研究室の主であり海斗の軍人時代からの知り合いでもある木村トミオだ。
安心と呆れが胸中で絡み合う中、海斗はのっそりとその場に起きあがある初老を見据え、
「何馬鹿なこと言ってんだよ。というか、寝るなら床じゃなくてベッドで寝ろっての。研究に没頭するのはいいけどさ」
「寝てたんじゃなくて気絶してたの。薬の調合ミスっちゃって」
「それもっとダメだろ!」
会って早々、ツッコミどころが多すぎた。疲れの予感がまじまじと背中を駆け巡り、やっぱ帰ろうかなどど考えてしまう。
そんな海斗の意中を察することなく、初老は白衣に着いた埃をパンパン叩きながら、
「大丈夫。少し寝ればこんなのは治るのよ」
飄々とした笑みを口元に刻んだ。
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「ふんふんふーん」
掛けた机の反対側で、トミオが軽快な鼻歌を口ずさんでいる。来客が来たことが余ほど嬉しいのか、今の彼はいつもより機嫌がいいように見えた。掴みどころのない性格故、内心が伺いきれないのは実のところだが、特別悪日に当たらなかった事にホッとしている。
今日トミオの元を訪れたのは、彼の元で働かせてくれと頼み込む為だ。軍人時代からの腐れ縁である彼は、何だかんだで頼りになる。今までも職を失う度に気にかけてくれたし、自分の元で働けと話を持ち掛けてくれたのも一度や二度ではない。
逆に、自分がここにこうしている時点で、彼の好意を拒絶したのも一度や二度ではないのだが。
他人に頼ることを、海斗は何よりも苦手としている。人の好意を裏切ってしまったときの不安が頭に浮かぶと、どうしようもなく足が竦むのだ。
それに何より、自分が獣人だと病院の職員たちにばれた際、それこそトミオに一番迷惑をかけてしまうと不安視している。
「あのさ、博士」
意を決し、海斗はトミオの鼻歌を断ち切る。どう切り出すかとしばらく考えていたが、ここまで来たらもう勢いに任せた方がいい。姿勢をピンと伸ばし、瞳に真剣な色を浮かばせると、
「仕事ならないぞ」
「え……」
一瞬で切な願いは粉砕された。何が起きたのかすぐには判断がつかず、目をぱちくりさせて留まる他ない。
「どうせまた理不尽な理由で仕事を首になったんじゃろ。そんな簡単に引き返してくるような奴に、与える仕事などないわ」
昨日柚葉から言われたのと相違ない言葉が、耳に痛い。海斗はしばしの逡巡。動揺を無理やり呑み込み、縋るような口調で、
「だって、前はそれでもいいって……自分の所で働けって言ってくれてただろ……」
正直言うと、二つ返事で了承してくれるものだと勘ぐっていた。笑顔で『雑用になるがいいかの』などと、淡々と答えてくれると思っていたのだ。
当てが外れた。
トミオはふざけた性格をしているが、一度言いだしたことは絶対に曲げない頑固な一面も持っている。研究職が長いからなのか、妙なところにこだわりが強いのだ。
仕方がない。トミオの元がダメならまた一から自分で仕事を探すしかない。そんな考えが不意に浮かぶも、頭を振り振り、海斗はトミオに突っかかった。
「頼むよ博士。もう博士しか頼れる人がいないんだよ」
他に職場を見つけた所で、その後どうなるかは想像するに容易い。正体がばれると同時にまた畏怖の目を向けられ、理不尽な辞任を迫られる。そして間もなく、柚葉の悲痛な叫びを聞かされることになるのだ。
ここで折れるのは実に容易い、だが、今回ばかりは譲れないものが海斗にはある。
海斗は決意し椅子から腰を上げると、すっとトミオの側へ周り――。
「お願いします。俺に仕事を下さい」
屈辱的な愚行だった。海斗は床に頭をつけ、土下座の姿勢に打って出る。みっともない事をしているのは重々承知だ。それでも今の自分がトミオに見せられる誠意は、これくらいしか浮かばない。
気まずい沈黙が漂い始める。
トミオの顔を見るのが怖くて、海斗は結構長い間土下座を保っていた。
彼は今の自分を見て、何を思っているだろう。どうしようもない奴だと幻滅しているだろうか。都合のいい時だけ頭を下げて、調子のいい奴だと人間性を訝っているだろうか。
こんな時すら他人にどう思われているかを気にしてしまうのが、本当に情けない。
「海斗、わしは化け物と一緒に仕事をするつもりはない」
思いのほか物柔らかな声音が鼓膜を撫でた時、海斗の体躯に怒涛の如く衝撃が走った。今まで流れていた沈黙が一気に弾け、音が遠くなる。
海斗は自分の意とは別に、相手に飛びつくかのような勢いで起き上がった。息を荒げながら、トミオの胸倉をぐっと掴み取る。
「俺たちを化け物なんて、二度と言うな」
激昂寸前だった。視界には何も映ってないし、自分の声さえ聞こえない。他人に身体を奪われてしまったかのような、苛烈な浮遊感があった。
「ふん」
馬鹿にするようにトミオは笑う。掴まれた手を叩いて払うと、人を試すような表情になり、
「何を馬鹿な事を。化け物と呼ぶな? お前が誰よりも自分を化け物だと思っとるじゃろ。だから認めてしまう。自分の考えや気持ちを伝えることもなく」
海斗は唖然と目を剥いた。何か言い返してやろうと思うも、反論できない。
だが問題はそこではなくて。
今海斗を押し黙らせているのは富雄の正論などではなく、『その正論に今まで気づいていなかったという自分の浅はかさ』だ。
様々な事実が浮上する中、海斗の心は激情に揺れていた。言い返すべきことなどどこにも無いのに、どんな手を使ってでも目の前の男を言い負かさないと気がおさまらなくなっていた。
理性も知性も知ったことではない。海斗は拳が白くなるくらい強く握ると、絶対に言ってはいけない現実を、思いのまま投げつける。
「てめえが獣人の研究なんかをしなけりゃ、俺たちは普通の人間のままいれたんだろうが! 自分の事は棚に上げて何を偉そうに。全部てめえのせいだろう。一番の化け物はてめえだ。てめえが俺たちを狂わせたんだ」
卑怯な事をしている。意識があやふやな中でも、その自覚は確かにあった。
相手の弱みに漬け込んで逃げ道を無くす。自らを正当化する為、他人を陥れるという下劣な行為。人からやられて何度も傷つけらてきた事を、今は自分がやっている。なんという愚鈍。
海斗たち獣人という存在を生み出したのは、何を隠そう目の前にいる研究者その人だ。かつてトミオは『国立遺伝子研究室』という国の運営する機関の最高責任者の職に就いており、今こそその研究室は封鎖されてしまったが、戦時中は人道を逸れた様々な実験がそこで執り行われていたらしい。あの頃、日本は追い込まれていたのだ。善悪の区別さえつかなくなってしまう程に。
興奮で息を上げていると、徐々に身体の感覚が戻ってきた。やってやったという達成感と自己嫌悪が、心中で目まぐるしく回っている。
が、不意に海斗を怖気が襲う。富雄の顔が意識に入った途端、意図せず呼吸を止めてしまった。
彼の瞳に同情などとは比較にならない程の、確かな憐みを感じ取ってしまったからだ。まるで己自身に向けているかのようなその光は、海斗の静まりつつある怒りの断片を、すーっと溶かしていってしまった。
もう認めるより他ない。自分が紛れもない化け物なのだという瞭然たる事実を。
「そうだな。俺は化け物だ。だから誰にも反論できないし、人に妬み嫌われるのも当たり前だと思ってる」
そこに感情はなく、まるで流れ作業のように言葉を並べていく。
「自分は人にとって怖い存在で、自分は人を殺すことのできる兵器だと思ってる。そりゃあそうさ。戦争中、俺はどれだけの人間の命を奪ったか分からねえ。そんな奴が近くにいたら誰だって悍ましくもなるだろうよ」
事実そうなのだ。海斗は初めて人の命をその手で奪った日の事を、今でも思い出す。鏡で自分の顔を見る度に、そこに映る自分が人殺しの化け物に見えて体が震える。
自分で自分が怖い。己を信じられないのに、他人に助けを請うなど図々しいにも限度があるではないか。
今更トミオ一人を責めるなど、荒唐無稽な事実でしかない。責任転嫁など、初めから出来ようはずがなかったのだ。
「悪かったな博士。邪魔したよ」
海斗は項垂れ、入ってきた出口に足を向けた。喉が熱い。頭が重い。痛い、いたい、イタイ――。
「達者でな」
背中に声をかけられたが、それに振り向く気力など残されていなかった。
廊下を歩き、階段を降りる。
外は闇に震えていた。
今日はついてないな、などと胸中で嘆くも、ついてないのは生まれた時からかなどと思い直し、海斗は自嘲気味に笑んだ。
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