第43話
姫条に連れてこられたのは俺たちの高校から徒歩十分くらいの大きな病院だった。
降りしきる雨の中、見上げた高い外壁はくすんだ白色に塗られ、心なしか陰気な雰囲気が漂っていた。西内総合病院。入り口の上部に記されている剥がれかけの文字を見て、俺は姫条について自動ドアを潜った。
入ってすぐに待合室のたくさんのソファーに出迎えられた。その半分以上に人が座っている。姫条の美少女オーラに、座っていた何人かが顔を上げてこっちを見た。
だが、その視線にたじろいだのは俺だけで、当の姫条は好奇心が混じった視線を歯牙にもかけずソファーの間を進む。病院特有の人工的な空気の匂いにどことなく懐かしさを覚えたのも束の間、姫条は受付を素通りした。
「おい、どこへ行くんだ……?」
受付の脇にあった階段を三階まで上ると、姫条は待合所や診察室を抜けていく。奥に行くにつれて外来患者が極端に減って看護師や入院患者の姿が目立つようになり、俺は場違いなところに来ているんじゃないかと不安になった。けれど、黄ばんだリノリウムの廊下を歩くローファーの足取りに躊躇いはない。
俺の問いに応えることなく、姫条は病室のプレートを注意深く見ていく。その後ろ姿が唐突に誰かと重なった。
『なあ、その制服って東高のだよな?』
口をついて出そうになる問いかけ。
いや、そのとき俺は確かに声に出していた。
格子がはまったデザイン性の高い円窓から射し込む夕暮れの穏やかな陽射しを受けて、彼女は振り向く。勇気を振り絞って声をかけた俺は、彼女の大きな瞳が自分を捉えるのを見て――。
「ここね、目的の病室は」
冷淡な声音で俺は我に返った。瞬きをすると誰かの姿はすっかり消えて、丸く切り取られた梅雨空を従えた姫条が鋭い目でこっちを見ている。
「どうしたの? 心ここにあらずって感じだけど」
「……何でもない」
なんとか声を絞り出すと、姫条はそれ以上気にした様子もなく病室の中を目で示した。
「見える? 一番奥のベッドにいるおじいさん」
姫条の視線を辿って俺は病室を見た。四つあるベッドのうち、手前の二つは空いている。その奥にはもう二つのベッドがあり、片方には寝ている四十代くらいの男性が、もう片方には身体を起こしてじっと手元に目を落としている老人がいた。その老人の身体には黒い綿が絡みついているみたいに霞んで見える。
「あれは仙人か何かか?」
「間の抜けたコメントは神々廻さんだけで十分よ。あの黒いのは自縛霊が憑いている証拠。普通の人にはあれは視えていないわ。本部から連絡があったの。自縛霊が憑いてるかもしれない人がいるから、至急、対処して欲しいって」
「憑りつくって、確か危険なんじゃ……」
「そう。長く憑かれた人間は、自縛霊に魂を食われて身体を乗っ取られてしまう。手遅れになる前に祓わないと、自縛霊を追い出しても元の魂が消滅していて、結局死に至ることになるわ」
姫条の言葉を聞きながら老人を凝視していた俺は、あることに気付いた。
皺だらけの手に、鈍色に光るものがある。
ペーパーナイフだ。鋭利な刃はないものの、先端が尖っていることから振り回せば凶器にもなる。さっきから老人は手紙もないのにペーパーナイフを握ったまま、じっとそれを見つめているのだった。
「なあ、あの人、なんか様子がおかしくないか?」
「ええ。憑依されている人は往々にして自暴自棄になりやすいわ。他人の肉体だから何をやってもいいと思うんでしょうね」
俺は顔をしかめて老人を見つめた。
「私たち死神はできるだけ早く自縛霊の未練を叶えて彼らを還さなければならない。もし憑依してしまった場合は、彼らの成仏を待つわけにはいかなくなってしまう。幽霊ではなく、生きている人たちの魂を救うのが優先だから」
姫条は切れ長の瞳を伏せた。長い睫毛が影を落とす。
「こっちの仕事は刺激が強すぎるから、神々廻さんには言えてないわ。これから私は増幅器にあの自縛霊を封じ込める。そしたらあの霊は輪廻から外れ、生まれ変わることはできない」
「幽霊は封じることもできるのか?」
「そうね。だけど、それは本当に最終手段よ。〈桜花神和〉では霊を成仏させることを目標としていて、封印はやむを得ない場合にのみ行うよう定められているわ。自縛霊も封印されまいと必死で抵抗してくるから戦闘になるし、下手したら死神の方が命を落とす。私の師匠も自縛霊の憑いた人間に殺されてるわ。――死神コード〇一〇一二、受容体解放(アクセプター・リリース)……!」
黒いミサンガが巻きついた姫条の右手首。その手に漆黒のクロスボウが現れた。呪文は違ったが、いつもの武器だ。闇を纏う不釣り合いな程に大きな武器を構え、矢をつがえた姫条は老人に狙いを定める。
「どうして魂で出来てる霊装武器がこんなに大きいか知ってる?」
引き絞った弦が張り詰める中、不意に訊かれた。
姫条は自嘲気味に唇を歪める。
「それは、これまでこの増幅器に封印されてきた自縛霊が霊装武器に使われているからよ。生まれ変わることを許されずに彼らは死神の武器の一部となる。武器の大きさは、それだけ私が自縛霊を封じ込めた証。それは決して誇れることではないのだけれど、皮肉にも私の強さに繋がっている」
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