第1章―8

 寄宿舎の自室の帰りついて、アンはすぐに自分のベッドに潜り込んでいた。結局、アンは気分が悪いといって生体サンプル園に入らなかった。いつもの発作が起こったとエイルは諦めた。キャミイは巨大な蓋外性生物が相当ショックだったらしく、憔悴しきった様子で自室に帰って行った。サンディは明日からの任務の準備をするという。マァイとミロの姿は朝から見えない。

 時刻はまだ夕刻すぎの誰もいない部屋。もし太陽が露わであったのならば、西日という光が窓から入りエイルの大きな影をくっきりと作るだろう。一日中変わらない部屋の照度はそれでもやや暗くなっていた。薄く落ちた影がアンのベッドから突き出した腕から伸びる。わざと飛び出させたそれは、エイルにかまって欲しいとつり餌のように微かに揺れていた。それに食いついてあげる前にエイルにはやることがあった。エイルはセルフェスを部屋のフローディスプレイにリンクさせ、脳派を読み取るインカムをつけた。

 ディスプレイに映し出された自宅の風景が映し出され、家具の類は相変わらずの配置でエイルを出迎えた。台所に向っていた母は、すぐに気がつき画面に大写しになるまで近づいた。

「エイル! 心配したじゃない? 何でもっと早く連絡してくれないの?」

 エイルは通信を遮断してしまいそうな指の動きを思いとどまらせるために力を込めた。

「配属されたのは第302部隊だから、荷物の送り先はデータで送る」

「わかったわ。薬はちゃんと飲んでるの?」

「飲んでるから。じゃあまた連絡する」 

 言葉の語尾に力が入り、一刻も早く連絡を切りたかった。だが、セルフェスにめり込もうとする指を母の笑顔が引きとめた。

「セレナさんは元気にしている?」

「……? 会ったわ。本物じゃないけど」

「エイルにはずっと秘密にしていたけど、実は母さんキベルの第一期生であの人とは同期だったの。あなたがキベルに入ったからやっと話すことができたわ」

 緘口指令は二十年も生き続けていたらしい。労働することもなく、セーフネットで生きていた病弱な母にそんな過去があったとは。質素ではあったが貧乏ではなかった暮らしは、キベルからの恩給があったからなのか。病気がちで労働に出ることができなかったくせに、エイルのことは身体が弱い、弱いと慮ってばかりいたのにそんな過去が。

 エイルはできうる限りの記憶の上流を辿ろうとした。公務を持っていたアンたち学校の同級生の母親達が忙しくするなかで、母カトレアは、エイルを国立公園にしばしば連れ出していた。学校の成績には執着し、私生活に口うるさく干渉し、薬を欠かさぬようにと世話を焼き、アイン・ソフ神の像を見上げる姿は年々急速に衰えた。記憶の流れのほとりにはいつも母の信仰の姿があった。

「母さんがここにいたなんて初めて聞いた」

「ごめんなさい。あなたももう訓練を受けていると思うけど、軍事機密だから」

 何か長年の胸のつかえが取れたのか、母はいつになくすっきりとした表情になっていた。

「キベルで母さんは何をしていたの? 外に行ったことがあるの?」

 詰問するようにエイルの言葉には力が入った。キベル入隊後も組織については依然分からないことが多かった。行動範囲や情報はアルカナによって厳しく制限され、同期以外の部隊の人間と接触することも、今のところなかった。

「ちょっと、そんないっぺんに聞かれたら答えられないじゃないの。今度帰ってきたときゆっくりお話しましょ。そっちもだいぶ変わっているでしょうし。それよりエイルも知っているわよね? ニュース見た? 避難してきたホド地区の住民をどこで受け入れるのか決める住民投票の結果でもめているのよ!」

 エイルは思い出しインカムに手を添えた。この人には何を聞いてもだめだということを。

「あと昨日アンちゃんのお母さんがきてくれたわ。配給品をいつも持ってきてくれるの。でも聞いて。いつもの配給所で暴動があったから、別の配給所にまで行ったらしいわよ。物騒だわよね。あとパンを焼いたってくださったわ。あなたが出て行ってから昨日まで誰とも口を聞いてなくて、接着剤でひっついて口が開かなくなってるんじゃないかって心配になったわ」

 これだけまくし立てられるのだから、その心配はないだろう。この人には自分しかない。うんうんと、相槌を打ってあげながらエイルは通信を切るタイミングを計っていた。脳派のレベルを落とし、セルフェスのカーソルに手を置いた。小さくなった旋律は、聞き分けることのできない奔流となってエイルの頭の中のあちこちに引っかかりながら通り抜けていった。

 やっとのことで通信を終了させ立ち上がるともうとうに日は暮れていた。日が暮れるといっても、もともと薄暗さの光の供給源が自動で燈った室内灯に変わっただけだった。ベッドにこもったアンの伸びた腕の影は、同じように薄く床に象られていた。いつの間にかその影の先には、投げ出されたうさぎのぬいぐるみが転がっていた。もう限界らしい。エイルは釣餌にそっと食いついてあげた。

「アンコの大事なうさぎちゃん。そこに落ちてるわよ」

 エイルに手を触れられ、カーテンからアンがつぶれたお餅のようになった顔を出した。それは涙という水分を含んで、本当にふやけているように見える。つないだ手に引き出されるようにアンはベッドから降りてきた。

「アンコがあんなになっちゃうから、お開きになっちゃたわよ」

「あたしも化粧ってしたほうがいいのかな」

「必要ないって。普通のアンコが可愛いよ」

「だって、エイルずっとキャミイばっかり見てたよぉ」

 やっぱりそのことを気にしていたのだ。生活に必要なデータは、端末でいつでもどこでも手に入る。情報を欲してエイルが通っていた国立資料館にまでわざわざ足を運ぶ人間は少ない。だからこそ実際にはじめてみた化粧に興味をもっただけ。それにキャミイはただ流行に乗っていただけなのだ。そう説明して納得させようとした。

「アンコだってうさぎちゃん知ってるもん」

 エイルが国立資料館で読んだ中生代の小説という資料には、星が汚染され滅亡する人類が描かれていた。その架空の物語の中では、うさぎと呼ばれる生物が汚染に耐性を持ち、人間が死滅したあとも生き残る描写があった。調べてわかったうさぎの姿は、大きな耳といつも泣きそうに充血させた赤い瞳で可愛らしく、強い生命力を持つと皆に教えてあげるとアンは得意の手芸でぬいぐるみを作った。アンは肌身離さずぬいぐるみを持ち歩き、寂しがりといわれる本物のうさぎみたいだった。

「それわたしが皆に教えたことじゃん。どうでもいいからもうご飯行こ」

「それよりエイル。顔怖いぃ」

「ごめん。そう? 普通よ」

「いつだってそう。エイルはお母さんと話したあとはいつだってそうなってるぅ」

 母の話を聞き流している時も、エイルの顔は不機嫌に歪んでいたに違いなかった。それをあんなに嬉しそうに母はしゃべり続けて。

「そうだ! ずっと忘れてたけど、お祈りしなきゃ」

 アンは壁の引き出しから自分の荷物を取り出した。あのうさぎが入っていたリュックサックの中を、手探りでかき回した。底からやっと探し出した小さな木彫り風の偶像を床に置いた。ペタンとスカートがめくれるぐらいに、勢い良くエイルに背中を向け座ると、アンは両手を組み合わせてお祈りを始めた。

「アイン・ソフさま、どうか、どうか、エイルに笑顔が戻りますように」

 エイルに聞こえるようにわざとらしく言葉を発し、アンは組んだ掌に額をつけた。

 その言葉としぐさにエイルは言い知れぬ違和感を抱いて硬直した。背中に何か自分ではない自分がおおいかぶさって、二人羽織であやつられているかのように同じ仕草をしろと掌を組ませようとする。

母と同じように純粋に祈るアンを、エイルは小刻みに腕をただ震わせて見下ろした。子供の時と同じように。なぜアンがそうするかもエイルは分かっていた。エイルはアンの前に中腰になって回り込み、精一杯の笑顔を作った。

 それに安心したのか、表情が緩み立ち上がったアンは、寝癖で左側だけ垂直の壁を作っていた髪を、手で降ろそうと押さえた。床に転がっていたうさぎのぬいぐるみを、拾おうとして背中を向けたエイルに、微かなつぶやきが聞こえてきた。

「エイルに笑顔が戻った。やっぱりお父さんに御願いしてよかった」

 アイン・ソフ神は全ての者の父親であった。

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