第10話 ニーア

 記憶の海に飛び込むとなんとも言えない浮遊感に襲われる。誰も経験したことないものだから何をどう言ったところでそれを経験することは出来ないのだが、何とも言えない高揚感に包まれると言えばいいだろう。

 記憶の海ではいくら潜っても呼吸の必要は無い。だからといっても安心してずっと探索出来るわけではない。

 はっきり言ってしまえば、私はこの記憶の海における異物だ。血液における白血球があるように、記憶の海にも防衛システムが存在する。それに見つかってしまうのは非常に厄介だ。正確に言えば、防衛と言うよりは同化を促すシステムとでも言えば良いだろう。その同化システムにより同化してしまった場合、どうなってしまうか。

 答えは単純明快。私の身体はただの抜け殻となり、この人間の記憶の中に生き続ける。しかし記憶とは有限のものだからいつかは忘れ去られ――記憶の海の奥底へと消えてしまう。

 そんな基礎知識――どちらかといえば蘊蓄に近いものなのかもしれないが――を思い返していると、先程モニター上から見ていた宝箱に辿り着いた。


「ワトソン、聞こえるか」


 私は虚空に問いかける。


「うわっ。ほんとに聞こえるんだな、これ……。ああ、はいはい、こちらワトソン。聞こえているよ」


 少し遅れて虚空からの呼びかけがあった。それはつまりモニターを通してこの世界を見ているワトソンだ。ワトソンはモニター側から私に助言をしてくれるように頼んでいる。まあワトソンはこのジャンルに関しての初心者だからあまり気にしないほうが良いだろう。話は聞くだけ聞いておいて、あとどうするかは自分でどうにかする――といった感じだ。

 ワトソンとの会話も順調に出来ているようなので何より。もしここで問題が発生していたら、外のモニターから何かを確認できたときこちらへ送る手段が無くなってしまう。


「……取敢えず、今からこの宝箱の鎖を解除してみることにする。鍵は……案の定あるわけがないわな」

「どうするんですか?」

「探すに決まっているだろ。鍵、もしくは鍵に近い形状のした何かを」


 針金でもあれば良いのだが、そう都合良く落ちているはずもない。

 とにかく手頃な記憶を探して、その中から探索するのがベストだろう。


「……取敢えずあそこで良いか」


 そうして私は直ぐ傍にあった、小さい球体の記憶へと飛び込んでいった。

 その記憶は、公園のようにも見える球体だった。

 飛び込むと、私の姿は先程と同じ学生服に元通り。そして公園ではたくさんの子供たちがブランコやらシーソーやらジャングルジムやらで遊んでいる。

 さて、そんな感傷に浸っている場合じゃない。記憶の中にある公園から、針金を探しだそう。一応言っておくとこの針金も記憶の一種だ。だからといってこの針金がこの公園から消失したところで彼女の記憶が大きく変化することは先ず有り得ない。勿論それくらいは配慮している。

 針金を探すべく辺りの叢を一通り探してみたが……くそっ、想像通り無かった。となると、遠回りではあるが、やはり原因を見つける必要があるか。

 そうして、私は目を瞑る。

 ゆっくりと深呼吸をして――次に目を開けた時はまた記憶の海の中。


「中学校の頃、と言っていたな……。その頃の記憶はあるか……?」


 無いはずはないだろう。先程の記憶が恐らく小学校に通っている頃の記憶だろう。本人を捜し当てることは難しかったが、記憶にしてはかなり抽象的だったことを考えて、時間軸もそれなりに過去のこととなる。

 ならば、中学校の頃の記憶はもっと鮮明で――そう、記憶の海でいえばまだ浮かんでいるか、それほど深くまでは沈んでいないはずだ。

 しかしまあ、この記憶の選別は難しい。外見で直ぐどの時代の記憶かどうか判別が難しいからだ。だから沈んでいる辺りで手当たり次第に記憶の中に潜り込んでいくしか無い。


「先ずは……この記憶からだ」


 そうして私は記憶の中に突入していった。その記憶は桜の咲く学校の校門のような場所がオブジェクトとなっていた。

 記憶の中に飛び込むと、たくさんの学生がごった返していた。

 しかし制服は私の着ているものとは違う。懐かしさのあるその制服は――西が丘中学校の指定制服だった。

 校門にかかっている看板には、入学式と書かれている。

 ということはこの記憶は、彼女が中学校に入学したときの記憶。五年前の記憶ということになる。


「はい、ありがとうございます」


 そんなことを考えると、依頼人を見つけることが出来た。まあ、この記憶では中学生なのだけれど。彼女の両隣にはスーツを身にまとった恐らく母親と父親と思われる二人が並んで立っていた。カメラを他の人に頼んで家族一同での写真を撮影してもらったのだろう。


「ねえ、ニーアは大丈夫かな?」


 彼女は写真を撮影し終わるや否や、母親に心配そうな表情でそう述べた。

 母親はゆっくりと笑みを浮かべ、


「大丈夫よ。ちょっと風邪を引いただけ、って。先生も言っていたじゃない。それに今はおばあちゃんとおじいちゃんが家に居るんだから。何かあったら病院へ連れて行くから安心して入学式に参加してこいと言ってくださったんだから」


 ニーア。

 私はその名前に引っかかる。外国人名からして人間の名前である可能性は薄い。もしかしたら知り合いにニーアという名前の女性がいるのかもしれないが、仮にその可能性を排除するとすれば、浮かび上がる一つの結論として。


「ニーアは……依頼人が飼っていた犬の名前か?」


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