第34話 ワンモアタイム─3
「その人は……?」
「…………」
ネロの背後から現れたその人が、静かに被っていたフードを外した。
フードの下から覗いた顔は、私と同じ人間の顔だった。性別は女性だろうか。髪がとても長くて、片目が隠れている。
「あなた、名前は?」ルソーさんが尋ねる。
「…………クローネ」女性は静かに答えた。
「クローネ……」
女性が名乗ったその名前を、反芻するようにルソーさんは何度も呟く。
そんなルソーさんの前にネロが立ち、口を開いた。
「ルソーさん、僕からの頼みだ。急ですまないが、彼女の髪を切ってもらえないか?」
「彼女の? 私が?」
ルソーさんの声はいたって冷静だった。
「あぁ……出来るか?」
「……そうねぇ……」
ルソーさんはしばし迷った後、「良いわよ」と言った。
「本当か!?」
「えぇ、予約が無いと入れられないんだけど、もうお店閉めちゃうしね。その代わり……」
「その代わり……なんだ?」
ルソーさんの次の言葉を待っていると、ルソーさんは私の方を向いてこう言った。
「店にいていいのは、お客さんと舞ちゃんだけ。二人は店の外で待機してくれる?」
「え!?」
要求に一番驚いたのは私だった。
「な、なんでですかルソーさん? 私だけいていいって……」
「いや……ここはルソーさんの要求に従うべきだな」
「ネロも何言ってるの!?」
未だに動揺している私に向けて、ネロが肩をすくめる。
「だって仕方ないだろ。ほら、この人の相手してほしいと言ったのは僕の我が儘なんだし。相手側の要求も呑まないと公平じゃない」
「でも……」
反論の言葉を継ごうと思ったが、その時に私にふとした考えが過った。
何故──ルソーさんはネロではなく、私を店に残そうとしたんだろう。ネロやリシュフォールさんでは駄目な理由があったのだろうか。
そしてこの人は一体……
チラリとクローネさんの方を向く。髪で隠れて、表情はよく見えない。
気になることは多い。それらを放っておくと、今日はゆっくり眠れなくなるかもしれない。
ここは大人しく要求を呑みましょうか。
「……分かったわ。私はルソーさんと一緒にいる」
「よし、これで交渉成立ね」
ニッコリとルソーさんが笑って、私とクローネさんの手を握る。
「それじゃあネロちゃん、ここからは女性同士の時間だから。悪いけどしばらく外にいてね」
「あぁ……二時間ほどしたら戻るから」
そう言ってネロ達は、リシュフォールさんと共に外へ出ていった。
「さて──」
呟きながら、ルソーさんが私達の方へ振り向く。
「それじゃあ早速、始めましょうか?」
「あなた……髪、本当に長いのね」
「人に切られるの……あまり好きじゃなくて」
早速散髪を始めたルソーさんの問いかけに淡々とクローネさんは答える。
私は店の隅で掃除をしながら、時折「それ取ってくれる?」と言うルソーさんの頼みを聞いている。
二人の間の空気は……決して重い訳ではないんだけど、明るいとも言えない。微妙な感じ。
ただお互いに、歩み寄ろうとしてるのは感じ取れた。
「……ねぇ」
「なぁに?」
「体とか……大丈夫なの?」
「体?」
「探偵さんが、一度倒れて入院したって言ってて……」
「あぁ……」
私とルソーさんは一様に頷く。
そういやあの時からだったっけ。ルソーさんが店を閉じることを相談してきたのは。
あの後ネロは私に、「最高の幕の下ろし方を考えよう」と言っていた。
ルソーさんが望む結果を、私達は用意出来たかな……
「平気よ。ちょっとお医者さんが大袈裟にしただけだから。今はピンピンしてるし」
「そっか……なら良かった」
「あら、心配してくれるの?」
「……うん……」
「そう……ありがとね」
ルソーさんは丁寧な手つきで、長い黒髪にハサミを入れる。
少しずつ慎重に、そう思ったら大胆に。
これがルソーさんの仕事なんだ……
「どうかしら。思いきってバッサリ切ってみたんどけど」
ハサミを置いて、クローネさんへ尋ねる。
「…………」
腰まであった髪は肩の所で切り揃えられ、鬱陶しそうだった前髪も短くなってる。ヘアカットのモデルみたいな髪形になって、とても似合っている。そう思った。
クローネさんも、私と同じ考えだったらしい。「綺麗……」彼女は驚いた顔でそう言った。
「あら、これで終わりじゃないわよ」
「え?」
「仕上げに……」
言いながらルソーさんは髪を少し手にとる。
手慣れた手つきで指を動かし、髪を整えていく。
そうするうちに、クローネさんの右耳上辺りに、綺麗な編み込みが出来た。
「これって……」
「サービスよ。私からの」
腰に手をあて、ルソーさんが笑う。その顔が、フッと緩んだ。
「これね、私の娘が、よくねだってきた髪形なの。絵本に出てくるお姫様みたいに髪を編んでって」
「…………」
「実は、髪を編むのは少し苦手だったんだけどね。可愛い娘のために頑張って練習したのよ。今ではこんな感じに出来るようになったわ」
「そっ……か……」
椅子に座ったままのクローネさんは顔を正面に向けたまま呟いた。
「ねぇ……一つ聞いていい?」
「なぁに?」
「……その子と一緒でさ、幸せだった?」
「……そうねぇ……」
「これ以上無いってくらい、幸せだったわ」
「…………」
椅子から立ち上がり、クローネさんがルソーさんと向き合う。
「……ありがとう」
「……どういたしまして」
「じゃあ、僕達はこれで──すまないね、我が儘言ってしまって」
「良いわよこれくらい。気にしないで」
クローネさんはまだ、名残惜しそうにルソーさんを見ている。その視線に気づいたルソーさんが、クローネさんの手を取った。
「あなたも──来たいと思ったらまた来てね。お店は今日で閉まっちゃうけど──」
「──あなたのためなら、また開けるわ」
「……分かった」
クローネさんの表情は、俯いていてよく分からない。
でも────
「さよなら……」
「こういう時は、またねって言いなさい」
「……はい」
その声が、涙ぐんでいたように聞こえたのは、気のせいだったのだろうか。
リシュフォールさんに連れられ、クローネさんは店を出る。その去り際、ふと彼女は振り向いてこう言った。
「あなたの娘さん──まだしばらく会えないと思うけど、いつか必ず会えると思うわ。だから──」
「──それまで、体に気をつけてね」
「えぇ──分かってるわ」
そうしてクローネさんは、店を後にした。
『ルソーさんの元に娘さんがいないことを、どうしてクローネさんが知っていたのか』ということに気づいたのは、しばらく後の事だ。
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