サンジェルマンの正体 3
サンジェルマンは、恋人を愛でるかのように優しく『海龍』をひと撫でした。
「私は、ずっとこの時を、待っていたのだよ」
『海龍』は、宙に浮く緑色の石を台座に、虹色にあやしく渦巻いている。
コンフェッティは腕を組み、サンジェルマンの一挙手一投足から目を離さずにいる。頭の奥の方でなにか糸のようなものが集中力をキリキリと巻き上げているように思えた。どんなにささやかなことも、見落とさぬように、目だけではなく、全身が冴えわたっていた。
「『海龍』を作った二人の芸術家は、私の友人でね。サロンによく顔を出してくれていた。素晴らしい芸術をいくつも生み出した友人たちだ。見たまえ。彼らの魂が切り取った旅の一場面が、作品に昇華されている。いわば、感性の集積だ」
サンジェルマンは、『海龍』の表紙に浮かび上がる虹色の渦を、指先でなぞった。一瞬だけ、その指が止まる。サンジェルマンは何事もなかったかのように装っていたが、コンフェッティは、彼の指先がかすかに弾かれたのを、見逃さなかった。
指先で弾かれる、その現象は、どこかで見たことがある。
コンフェッティの鼻先にミントの香りが蘇る。ミイ・ラ・フォレの扉を前に、ミニュイが言っていた。このタイプの扉は、鍵を必要とするのだと――。
コンフェッティは、サンジェルマンの手の中にある、変わり果てた姿の相棒を見た。
「……鍵、か」
コンフェッティは、ミニュイの口うるさい小言を思い出す。ミニュイが「使命」と掲げたはずの思いが、こんな形で利用されるのかと思うと、胃の腑のあたりになにかが黒く淀むようだ。そこからせり上がってくる饐えたにおいは、コンフェッティに軽い吐き気を感じさせた。
サンジェルマンは、コンフェッティの呟きに口元を歪めると、手にした鍵の中ほどを手に持ち、鍵の先を、渦巻く表紙に向けた。
「君たちの旅を、辿ってみようじゃないか。まずは、モンパルナスの扉から始まったのだったな」
サンジェルマンは、鍵で、渦の上部にMの字を描いた。黒い焦げ跡のように描かれた文字は、直線の部分がだいぶ長く、不格好な生き物のようにも見える。
「そして、マントン。あの時には、私の屋敷にも来てもらったね。食事をともに楽しんだ」
サンジェルマンは、描かれたMの下に、さかさまにMの字を描く。上下につながったMの字が、いびつなリボンのように浮かび上がる。
「ミイ・ラ・フォレ、詩人の眠る礼拝堂の扉」
描いた文字に重ねて、今度は横に倒れたMを描く。鍵を押しあてるたびに、表紙からは細い煙が立ち上り、天に吸い込まれるように消えていく。
「それから、ここ、モン・サン・ミッシェル。類稀なる芸術家たちの交わりが生み出した、扉」
サンジェルマンが最後のMの字を描き終えると、黒く焦げたような線が、一閃を放った。
4つの重なり合ったMの字は、金と銀の線となって、八芒星を形作って、輝いている。
「美しいだろう。君たちが作ってくれた扉だよ。――正確には、錬金術の扉だ」
本の表紙に、刻印のように描かれた八芒星は、徐々に自ら光を放ち始める。
4つのMの中央に現れた正方形を、サンジェルマンは指さした。中心には、白く輝く穴がある。
「コンフェッティ君。4つのMの扉はそれぞれ純粋なる絵画とは違っていたはずだ。いずれも境界に位置する作品、そして芸術分野の垣根を越えて作品を産み出し続けた作家の手による作品だ。この『境界』を司るものたちが、あらたなエネルギーの流れを生み出すのだよ。この鍵だけが、この扉を開くことができる。私が何を望むか、君にはわかるかね」
「さあ、俺は興味ない」
そう言ってから、今は動かぬミニュイの非難の声が聞こえるような気がして、コンフェッティは俯いて苦笑した。だいぶ、ミニュイに感化されているようだ。
ミニュイだったら、どうするのだろう。
コンフェッティは、無表情になり果てた相棒の銀の顔を見つめて、思いめぐらした。
「今、見せてあげようじゃないか。稀代の錬金術師と呼ばれた私の腕前を」
サンジェルマンは、本に手をかけ、鍵をその正方形の中央に突き立てた。
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