魔法のジャム
ぴんと四肢を張った猫は、すまして黄色い花をつけた植物を見上げている。
「俺、あのガラス張りの美術館でも観たぞ、この猫。膝にこう抱かれて……」
コンフェッティは、そこに描かれていた姉に似た女性を思い出した。
「この猫が、あのミディとかいう猫だと?」
頷いたコンフェッティは、猫の近くに描かれた絵をひとつひとつじっくりと観察しはじめた。
星がたわわに実ったような、黄色い花と、礼拝堂の入り口を囲むように描かれた緑の植物。それは、ミントの葉のように見えた。ミントの葉が指し示すアーチの中心には「M」の文字が描かれていた。
「M……
コンフェッティは、Mの文字に手を伸ばした。
「あっ! 危ないです!」
ミニュイが叫んだ瞬間、コンフェッティの手は、パチンと音を立てた閃光に、衝撃とともに弾かれていた。
「なんだ?!」
ミニュイは後ろ足で立ち上がって、ミントの絵におそるおそる前足を近づけた。絵に触れるか触れないかの瞬間、やはり閃光が走り、前足は弾かれた。
「……拒まれているようですね。間違いないでしょう、これが、扉のはずです」
「拒む? 拒むって、なんだ。そんなの聞いたことないぞ」
「ええ、確かに、一般的ではないですね」
ミニュイは目を閉じた。
しばらくの沈黙ののち、目を見開く。
「……似た魔術のことを昔、祖母から聞いたことがあります。鍵になるものが必要だったはずです」
ミニュイは礼拝堂の中を見渡し、祭壇に飾られた茨の冠を持ち出し、触れてみたが、同じように弾かれてしまう。礼拝堂の中の、思いつく限りのものは扉にかざしてみたが、どれも思ったような効果は得られない。
やがて日が傾いたのか、入り口上のステンドグラスがいっそう輝きだした。
射し込んだ光は、正面の壁にあたり、奇しくも復活したキリストが上を差し示す指に、光があたってぽうっと浮かび上がった。
その不思議な光景を見ていたコンフェッティは、やおら外に飛び出して、緑の草を手に戻って来た。
「これでどうだ」
「いい香り……、ミントですか?」
コンフェッティは頷き、ミントの葉でMの文字をなぞる。
その筆致から、淡い光の粒が、蛍のように滲み出してくる。ミニュイはその奥に、最果てを感じ取った。
ミニュイは口を閉じるのも忘れて、ミントとコンフェッティを交互に見比べた。
「どうしてわかったんです……? ミントが鍵だなんて」
「天啓だ」
そう言ってコンフェッティは、キリストがぴんと立てた人差し指を指さし、さきほど『パリ☆魅惑の美術館ガイド』で仕入れた知識をひけらかす。
「この街の特産はミントだぞ。あの指の意味はな、『1番人気』『おすすめ』を考えろという、俺たちへのメッセージに違いない。さっさと済ませて早く土産物を買いに行けと」
「最後は絶対に違うと思います」ミニュイは眉をひそめた。
「ま、結果、見つかったんだからいいじゃないか。さっさと終わらせてカフェにでも入ろうぜ、喉が渇いた」
ミニュイはコンフェッティに軽く嫉妬した。
――この男はこんなにも不真面目極まりないなのに、時に憎たらしいほどに正鵠を射る。その才能を持ちながら、仕事に対しての意識の低さを思うと、腹の内にどす黒い思いが渦巻いた。
無事に扉を直した二人は、町の中心まで歩いてカフェを覗き込んだ。
昔ながらのカフェは暗褐色のソファが立ち並び、背もたれから上は鏡張りになっていた。赤ら顔で店主にからむ客や、一人静かにグラスを傾ける女性、一ヶ所に集まってチェスに興じる老人たちの様子が、鏡に映り込み、道路に面したガラス窓からはたいそう賑わっているように見える。
コンフェッティたちは、ガラス窓の前に据えられた小さな丸テーブルについた。犬連れはテラスに座る暗黙のルールはもちろんだが、パリまで便乗を許してくれたジャム屋が、道路から見つけやすいようにとの理由もあった。
コーヒーには、小さな正方形のミントチョコレートが添えられてきた。コンフェッティはその味にいたく感動して、ミントキャンディとミントチョコレートをそれぞれ3袋ずつ求めた。どちらもここミイ・ラ・フォレのミントを使っている、とカフェの店主は胸を張った。
道路は、さきほどから車も人も、ほとんど通らない。
街のすみずみに、ミニュイがミルクを舐める音が、響いているようだった。街の目抜き通りだというのに、立ち並ぶ商店もすべて営業中なのに、この静けさ。ミニュイはしみじみとその静寂を味わった。
「コクトーは、パリの喧騒を逃れてこの街に住んだそうですね。マントンにアトリエを構えた後はここに住み、友人の歌手の訃報を聞いた夜に息を引き取ったそうです。この街のあたたかい静けさはきっと彼を大いに慰めたでしょうね。詩人の感性も神経も、繊細にできていたでしょうし……」
コンフェッティは、早くもミントチョコレートを1袋空にしながら、マントンで観た作品を思い返した。
「確かにそんな雰囲気もあったな、けど、ぶっ飛んでるのも多かったぞ。俺は嫌いじゃないが」
「もしかしたらこの店で詩人もコーヒーを楽しんだかもしれないですね。ちょっと古い感じの、それこそコクトーたちが過ごしていた時代の面影あるカフェじゃないですか?」
コンフェッティは、そんな時代感など知りもしなかったが、さもわかった風に頷いておいた。ミニュイは満足げに椅子に飛び乗り、ガラス窓から中を覗きこむ。
「絵画のようですよね。ほらエドガー・ドガの『アブサン』って絵は、こんな感じのカフェじゃありませんでしたか」
ようやく知っている話題が出てきた、と、コンフェッティは安堵した。
「『アブサン』か……、その酒には、あんまりいい印象はない。ヴォルテール先生が真似して密造してたが、ありゃひどい酒だった」
「ドガの絵は、その酒をうつろな顔で覗きこむ女性の佇まいが描かれていて、なんとも哀愁漂う作品なんですよ。ほら、あそこにグラスを置いてる女性客がいるでしょう、ちょうどあんな風に――」
その黒い服の女性を見つめた時、コンフェッティは、息が止まるかと思った。
その横顔は、姉・アニスにあまりにも似ていた。
長い黒髪、緑色の瞳、通った鼻筋、そして赤い唇。
不躾な視線に、女性がコンフェッティに顔を向けたとき、派手に軋むタイヤ音が響き渡った。
丸テーブルすれすれに水色のワゴンが停まり、綿菓子頭が運転席から叫んだ。
「お待たせしました!」
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