E25 飯山教会の子ども

 飯山教会へご案内いただいた。

 こちらで七人もいたものだから、女子チームと男子チームに分かれて、神父のワゴン車で、二往復していただいた。

 ひなぎくは、甘えてしまって、恐縮している。


「ありがたいですな」

「本当に本当に、ありがとうございます。申し訳ございません」


 皆で、お礼をした。

 ひなぎくは頭が脚にちょんとつく程体を曲げた。

 体は、高校までバレエを習っていたので、柔らかい。

 お辞儀としてはおかしいが、気持ちを伝えたかった。


「まあまあ、頭を上げなさって。たいしたことをしていませんから」


 飯森神父は、体を起こしたひなぎくの背を優しく撫でた。

 黒樹は、あからさまに嫉妬が顔に出てしまったので、ホーイッチニーと、不愉快鬼しずまれ体操をして、心の乱れを静めた。

 そんな時に、ひなぎくは、気が利かないから困ったものだ。

 新しいステップを踊っているとしか思わなかった。

 黒樹の真意が分かっていない。

 この鈍感さが、蓮花には鼻についた。


 ひなぎくは、下のガレージから、どんな教会か楽しみにして坂を臨む。

 カサカサと踏み音を感じて坂を登ると、銀杏や楓の木立の中に、ぽっと、教会があった。

 今は、手入れをしていないので雑草も増えてしまったが、綺麗にすれば飯山教会前バス停付近からここまでの石畳が出て来て、しっかりとした足元になりそうだ。

 見れば、蓋をしてあるが古井戸があった。

 戦火も逃れ、かなり昔からあるのだろう。

 飯山教会は外から見ると、縦長の窓の多い木目の美しい木造建築だった。


 神父が鍵を回して、二荒神教会よりは小ぶりな扉を開けた。

 中は、教会の外でひゅういと唸る風に当たるよりは、あたたかかった。

 奥様が、中の明りをぽぽっと灯したら、ぴんっとした空気に気持ちを引き締められる。


 向こうを見ると、教会の突き当たりが気になった。

 あれは、ルネッサンス期の美術を代表する一人、『ラファエロ』ではないか。

 丸く穴があって分かったのだが、キリストの生誕を描いた、ラファエロ・サンティの『小椅子こいす聖母せいぼ』のような絵が掛かっていたのだろう。

 小さなキリストをマリアが抱き、洗礼者ヨハネが敬虔けいけんな表情で見つめている絵だ。

 大きな三角の構図で安定感もあり、評判は悪くない。

 しかし、今、正面はガラガラだ。

 おそらく、すっかり片付けたのだろう。


 建物を見渡すと、ひなぎくが幼い頃、長崎で見た教会に似ていた。

 苦労して建てられたことが伺えた。


 こんな、好機はない。

 勇気を出して、言ってみよう。

 掌を汗ばみながら、口をゆっくりと開いた。


「ここをお借りしてもよろしいでしょうか?」


 言い淀まずに伝えられ、ほっとした。

 

「ええ、使っておりませんし、必要なものはもう運んであるので、大丈夫ですよ」


 飯森の奥様が、目を細くして微笑んだ。


「それでしたら、ワークショップ充実の美術館、アトリエデイジーの為にお借りしたいのですが、どうでしょうか。崇高な建物で、開放感もあり、理想的なのです」


「ええ、どうぞ」


 飯森の奥様は落ち着いている。


「あの、これは……?」


 コツンとひなぎくの足に何かが当たった。

 教会の窓辺に布張りの大きめのクッションを見つけて、ここに不似合いだから気になった。


「それは、私達にとっての新しいベビー用品ですよ」


 ひなぎくは、ドキリとした。

 ベビー用品とは、お子さんに恵まれなかったと伺ったばかりなのに不思議だからだ。


「私達は、一度、赤ちゃんを授かったのです。天からの赤ちゃんなのですよ」


 飯森の奥様は、涙も見せずに遠い昔を振り返っていた。

 ひなぎくは、天からのと言う響きに鼓動が激しくなった。


「自分達の産んだ子ではありませんでしたが、この教会の前に……。忘れもしません、その年はうるう年のうるう日でした。つまりは、二月二十九日ですね」


 意外な展開に、ひなぎくはかたまった。

 それを耳にした、黒樹も尋常ではなかった。


「寒く、雪も降っていましたから、急いで、教会に連れ戻りました」


 この辺りは盆地で雪もあり雷もあると、パリの頃に、黒樹から聞き及んでいた。


「今、産み落としたのではなく、生後一か月位の子でした」


「……! す、捨て子ですね」


 激情にかられた。

 こんなことが、現実にあるなんて。


「しいなと平仮名で書いたベビー服を着ていました」


 ひなぎくは、今にも泣き出しそうにわなわなとした。


「では、飯森しいなちゃんになさったのですか?」


 飯森の奥様が首を横に振り、手を組みながら、暫く祈っていた。

 瞼を起こして、潤んだ瞳を見せた。


「雪の中に置かれていたせいか、私の胸の中で……。胸の中で……」


「辛かったな。その時、自分もいてやれなくて」


 神父が、俯きながら哀しみ色に包まれた。

 奥様も念願の子どもを得たばかりの喜びと救わなくてはならないと思う命と救えなかった悲鳴を上げたくなる苦しみとを走馬燈のように思い出した。


「生の喜びと哀しみ、病の苦しみと闘い、死のあわれみと暗闇。小さすぎる子どもにあった、大切なもう灯せない命に煩悶し、立ち直る日は来ないと思っています」


 奥様が、そこまで話すと、車にも乗っていた彼女を呼んだ。


「この子、同じ響きの名前にしたのですよ。シイナ、おいで」


 わん!


「シイナ、シイナ。可愛いわねー」


 わふ!

 わんわんわん。


 シイナは、頭をふしゅふしゅに可愛がられた。


「何ていう犬なの?」


「澄花ちゃん、シイナちゃんだって。撫でてあげたら?」


 そう言いながら、ひなぎくはもう泣きながら撫でていた。


「よしよし。可愛いわねー」


 すると、くるりと、先程の大きめのクッションに丸くなった。


「うううん、ひなぎくさん。ミニチュアダックスフンドとか、トイプードルとか、そういうの。どれでもないから」


 シイナは、全体にうすだいだい色のもさっとした毛で、尻尾もふさふさ、耳は垂れて、目はくりっとしているが、前髪が少し長い中型犬だ。


「これは、雑種、ミックスよ。お嬢さん」


 奥様が、しゃがんで澄花の目線でお話ししてくれて、ひなぎくは、優しさを感じ取った。


「おばさま、ありがとうございます」


 スカートをつまみ、すっとお辞儀をした。


「可愛らしいお嬢さんねえ。皆さん、お二人のお子さん?」


「えええ!」


 ひなぎくだけ、がくっと膝が曲がった。

 いくつに見えるのだろうか。


「ええ、蓮花などは、白咲ひなぎくさんが、小学生の時の子ですわ。和は中学生、劉樹は高校生、虹花と澄花は、大学生の時だな。長い付き合いだなー。うんうん」


 黒樹は、愉快になったらしく、口髭をつんつんさせていた。


「ん? ひなぎくちゃん?」


「そう言う、どっきりなお話しは止めましょう。皆、お互いに傷つくでしょう」


「いずれ、はっきりさせなければならないことだ」


 ひなぎくは、黒樹のリアリストが気遣いの足りなさに感じられる。

 価値観の違いだとは思っても、しっくり来ない所がある。

 だから、黒樹に離婚歴があるのかも知れないとうがった見方をしてしまう程だ。


「すみません、今、しいなちゃんのことを伺ったばかりなのに」


 飯森神父と奥様に深々と謝った。


「過ぎ去ってしまったともしびは、祈るしかありません。私達は、祈り続けます」


「このクッションは、シイナが来なくなれば使いませんので、持ち帰りますね。ベビー用品と言ったのは、ここにしいなちゃんがいたからなのです。しんみりさせてしまって、すみません。一度、一瞬でも親になったのならば、どんな些細な想い出でもおざなりにできないのです」


「そうですか。ここをお借りしても大丈夫ですか?」


「いい機会です。心づもりもできています。ね、あなた」


 神父と奥様は優しく笑った。


 ひなぎくは、色々と揺れている。

 だが、決めた。

 ここを温泉対策をしたリフォームを加えて、アトリエデイジーを始動させるができた。

 描いていた青写真は、固まって来た。

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