E13 学校は怖い
明朝、九月十三日水曜日、七人でホテルビュー二荒神を後にしようとした。
六時に起きて身支度をし、楽しくホテルの和風の朝ごはんを食べた。
虹花に澄花まで、自分のことはできるようだと、ひなぎくは感心した。
もっとも、普通の小学三年生の実力は知らないが、十分に黒樹家の教えが行き届いていると思った。
ひなぎくは、ホテルのキーをフロントにお返しして、会計を済ませた。
「おお、全員いるか?」
ホテルは坂の上にあり、温泉郷を見下ろす。
方々から立ちのぼる湯けむりを朝日がかき分け、にじむ光も眩しい。
空気も澄み、実に清々しい。
誰もいないタクシープールに皆は移動した。
「えーと、蓮花さんがまだですね。後は、和くん、劉樹お兄ちゃん、虹花ちゃん、澄花ちゃん。皆、手荷物を持っているわ」
「ごめんなさーい。浴衣のレンタルを返すのを忘れてしまって」
バタバタと蓮花が慌てて来た。
ひなぎくが、ちまちまと手を振る。
「あの黒地に蝶のですか? お似合いでしたよ。ふふふ」
「こーら、女子は本当に無駄口が多いんだからん。かーわーいいー。それで、全員いるのか、ひなぎくちゃん」
黒樹は、パリでも時々かわいこぶりっこをして、女学生と混ざろうとしていた。
シリアスとコメディの混合教授として、黒樹はアール大学大学院でも変わっていた。
ひなぎくの近代美術史の専任教官だったので、色々な意味で複雑だ。
「はい。蓮花さん、和くん、劉樹お兄ちゃん、虹花ちゃん、澄花ちゃん。それから、プロフェッサー黒樹と私。皆いますよ」
ひなぎくの声は弾んでいた。
とても楽しくて仕方がないとにこにことしていた。
「ばいんばいんが怖いぞ、ひなぎくちゃん」
黒樹も流石にひなぎくの胸は触れないので、横から、ツンと腕をつついた。
「もう、開き直った言い方をしましょうか。Eカップでいいですよ。そんな気がするのでしょう?」
いつもの小声より小さく耳打ちした。
「それ、面白くなーい。Eカップだけではなくて、湯けむり美人とかも欲しいなー」
「好きにしてくださいな」
横を向いて、プウウっと頬を膨らませた。
「ああ、ひなぎくちゃんが、本当に怖くなった」
「んー、もう。怒っていませんから」
眉を寄せて、可愛い顔で否定した。
「よし、Eカップ湯けむり美人ひなぎくでどう?」
「えーと、何に使うのですか?」
「いやいや、アトリエの女将なら、呼称が欲しいと思ったのだよ」
ひなぎくだけでなく、和と蓮花も吹いてしまった。
「おーかーみー? 何でですか」
「プロデュースしないと。これからのアトリエは」
それは、一理あるとひなぎくは思った。
広告は大切だ。
でも、よく考えてみて、疑問を投げ掛けた。
「それ、ちょっと長くないですか。少し官能的ではないですか」
「ぶっ。官能的って、流石、Eカップ湯けむり美人ひなぎく。言葉が既に官能的って古いね」
子ども達に同意を求める黒樹。
「むう。素通りできないからかいになってませんか?」
「大真面目だ」
「お父様とひなぎくさんって、お笑いの人みたいね」
蓮花は日本通だが、お笑いの人ではないとひなぎくは思うが、もしかしたら、アトリエに必要なことかも知れなかった。
「これから、皆で、二荒神温泉郷にある物件を見て来よう。おー!」
手を挙げたのは、黒樹だけだった。
どうしてだろうと見回すと、子ども達の面々が並んでいた。
「僕たちの学校はどうなのぴく? お父さん」
随分と見上げて、すがった。
「おお、劉樹か。小学校は、いつから行きたい? 四月からか、九月の今からか」
「僕は、皆が心配だから。今すぐではなくてもいいぴくよ」
劉樹は心配していることがあった。
澄花のイジメの件と虹花の孤立の件だった。
とことん、妹のことを考えてばかりのお兄ちゃんなのだ。
「小学生は、そうは行くまい。今からでも本校に行ってみよう」
「分かりましたぴく」
「はい、パーパ」
「はい。パパ」
「劉樹と虹花と澄花をアトリエの下見の前に、二荒神小学校の本校に連れて行くからな」
「はい。楽しみですね。プロフェッサー黒樹」
ひなぎくもそれは大喜びだった。
来た時のように、タクシー二台を呼んで貰って、分乗した。
ひなぎくがゆっくりと車窓を眺めていたら、二十分程で、目的地の本校正門前に着いた。
「ここが、パパの出た本校だよ! 皆! 五人とも!」
声高らかに両手を広げて紹介する黒樹は、子ども達の顔ばかりを見ていた。
ひなぎくは、昭和の文字のつく木造に薄いガラスの入った古めの校舎を想像していたが、デザイナーが設計したような曲線を多用した綺麗な白木の建物だった。
「あらら……。俺の時とは、時代は変わったのかね。これもふるさとの温泉郷を復興する為かね」
校舎を見るなり、黒樹はこぼした。
やはり、黒樹の想像している通り、ふるさと興しの一環だった。
ノックをし、小窓から事務室を覗くと、副校長と名乗る
「皆さん、こちらへ。どうぞ掛けてください」
黒樹とひなぎくと小学生三人は、職員室の角にある四人掛けのソファーに呼ばれた。
椅子の数も足りないし、座るのは遠慮して立っていた。
副校長は、自分は上座に座って、お茶も一口飲んだ。
「あの、編入を考えているのですが。二荒神小学校では、いかがでしょうか」
父親の黒樹がしっかりと尋ねた。
「本校に三人も急にいらしても、間に合いませんよ。今から支度をするのですか? 校帽から各教科書やスキルに体操服までどうやって揃えるのですか? こちらも予備など置いていないのですよ。それから、我が校は吹奏楽に力を入れているので、参加して貰わないとなりません」
「ピ、ピアノなら、できるわ……」
澄花が弱々しくも自分のできることをアピールした。
「広い校庭や行事があれば町まで披露しに行くのに、ピアノは無理でしょう」
「ピアニカとかありますよね?」
ひなぎくも小学生の頃を思い出して、フォローを入れた。
「規定の楽器を規定通りに教わって、全力を尽くす。それが我が校の吹奏楽ですから、ついて行けるのかな? それから、金髪は染めて来てください。イジメの対象になりますから」
何か言おうとした。
何か言おうと皆思っていたが、黙るしかなかった。
「失礼、僕も仕事があるので。用事がありましたら、又、いらしてください」
お帰りはあちらの引き戸からと掌で示された。
五人ともタクシーの待つ正門までとぼとぼと歩んだ。
何を話したかは重要ではない。
何とも言い難いあの態度。
柔和な顔をして、
素晴らしくもノックアウトな門前払いをくらった。
劉樹と虹花と澄花、立ち尽くす子ども達に、ひなぎくも黒樹も心を乱された。
「くっ……。時代は変わったのかね。……分校にしようか」
「分校?」
劉樹もしょんぼりとだが、黒樹しか頼ることができない。
家事をいくらがんばってくれていても社会は大人が作っている。
本来なら、未来ある子どもにも人権はあるのだが。
黒樹は、国籍上の問題をクリアしていればいいのかと思っていた。
「少し遠いだけだ」
「そうなの? どこにあるの? パーパ―」
「
「パパ、私、日本の学校は行きたくない。家庭教師ではダメなの?」
「澄花!」
黒樹は、澄花を抱え上げ、頭を撫でた。
「そうか、澄花、ごめんよ。辛かったね」
「慌てることはないわ。今度又、ゆっくり決めましょう」
ひなぎくも頭を撫でた。
心を痛めたと思われる子ども達皆の頭を撫でた。
「和、自分で、志望校を決めて来なさい」
「はい。父さん」
大きく頷いた。
「蓮花は、受験ね。どこでも出してやるよ」
「ちょっと、相談に乗ってほしいの」
もじもじとした様子がおかしい。
「なぬ?」
この時の黒樹は、変顔一等賞だと、後々、子ども達に語り継がれて行くのだった。
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