第2話人と吸血鬼が出会う夜

明知は、自分の体に血がめぐっていることを感じていた。


自分の血ではなく、他人の――人間の血液である。口からすすった血液が、体内をくまなく循環している。


一歩踏み出すたびに、心臓がドクンと他人の血液を自分の体に流す。


その血は冷たい自分の体を温め、吸血鬼本来の力を呼び覚ます活力となっている。


 これは吸血鬼特有の感覚なのだろうか、と明知は夜の街を目にもとまらぬ速さで走りながら考えた。


夜の風が冷たいのは、おそらくは久々に体温の上昇を実感しているからだ。


吸血鬼の体温は冷たいが、血を吸った直後は人肌程度までは体温が上昇する。


もっとも、その上昇した体温はすぐに夜の風の冷たさでひやされていく。明知の長い髪の末端など、きっと今にも氷つきそうなほど冷たいであろう。


 街のネオンとは反対方向に進んでいくせいなのか、体の冷えはどんどんと悪化しているように感じられた。


無論、人口密集地とそうでない地域の気温差など微々たるものである。それでも、人がいない場所は心理的に寒く感じるものだ。


気温を感じにくい吸血鬼は、その心理的な寂しさを顕著に感じやすい。吸血鬼は味覚ですら、感情に支配されているのだ。


 寒さの中で、明知が走るのを止めないのは眼前に標的を捉えていたからである。


 明知は、吸血鬼である。


 まだ吸血鬼になって百年ほどの若輩者だが、残念ながら明知より上の世代はほとんどいない。


第一次世界大戦のときに人狼と共に人類に認知されたモンスターたちは、人間の戦争に巻き込まれそのほとんどが命を落とした。今現在生き残っているのは、ほとんどが大戦後に生まれたモンスターであり、人間とモンスターの共存社会しか知らない世代である。


明知も幼いころからモンスターを知っており、成人後に吸血鬼として生きる道を選択した。


 二十世紀の後半――もはやモンスターは人間の人生の選択の一つと化していた。


 明知の目が捉えていたのは、おそらくは人狼と思われる人影。その人狼が追っているのは、黒いバイクである。


黒いバイクは猛スピードで人狼と思われるモノから逃げており、一目で何かしらのトラブルに巻き込まれたのだろうと察することが出来た。


人通りの多い場所ならば人間が通報してくれただろうが、明知がバイクと人狼と思われる人影の追いかけっこを発見したのは人気のない道でのことだった。


国家予算の無駄としか思えない広い道路には車は一台も通っておらず、かつては営業していたらしいラブホテルだけが遠くにわびしく見えた。


「おい、まさか明知か!」


 後ろから声を掛けられる。


 全力で疾走している吸血鬼に話しかけられるのは間違いなく人間ではない。


振り向くと、思ったとおりそこには大柄な人狼がいた。人狼といっても外見上は彼はごく普通の大柄な男性であり、狼らしい特徴は見られない。


それでも明知が彼を人狼だと判断したのは普通の人間ではありえぬ脚力と過去の自己紹介からである。


 後ろを走る人狼は、知り合いであった。


「弦、ですか……」


 それが、知り合いの人狼の名前であった。


 明知より若干低い身長だが、体の厚みに関しては明知の倍に近い。


スポーツマンのような体格であった。明知と同じように走り、彼も人狼らしきモノとバイクを追っていた。


「悪いですが、あの人狼は逃げている人間に対して害を加えようとしています。私のほうで調停機関へと連れて行きます」


「ちょっとまて、アレは吸血鬼だろ!」


 弦の言葉に、明知は眉を寄せる。


 実のところ、明知も明確に人狼だと判断して前方の人影を追っていたわけではない。同族ではないと勘が告げており、ならば人狼であると考えた末に出した結論であった。


「まぁ、どちらでもいい。人間に手を出す馬鹿者は、早々に調停機関へと連れて行ってしまいましょう」


 知り合いとの軽口をすませ、再び明知は前を見る。心なしかバイクのスピードが若干落ちたような気がする。ガソリン切れではあるまい。


 旧世代のエネルギーは環境破壊が著しいとして、禁止されてすでに長い時間が経っている。今の走っているほとんどの車は、電気で動いている。


「まさか……電気切れ」


 追いかけられているなかでスピードが落ちていくなど、それしか考えられない。明知は舌打ちしたい気分であった。


この速さが明知の限界である。


これ以上の速さでは走れないし、人狼もどきもスピードを落とさない。このままでは、バイクが追いつかれるのも時間の問題であろう。


 バイクは、急に方向を変えた。


 何をする気なのかと明知が思った瞬間、バイクは廃業しているホテルに突っ込んでいった。


いつのまにか遠くに見えていたホテルの側までやってきていたことにも驚いたが、バイクがホテルに突っ込んだことにも明知は驚いた。


 ガラスが割れた音がするので、おそらくは出入り口のガラスを割ってバイクはホテル内に侵入したようである。

バイクが大破した音はしないので、たぶん運転手は無事のはずだ。


「やるな、あの人間」


 弦の言葉に、明知は首を振る。


「……いいや、バカですよ。普通、あんな考えなしの行動をやりますか。映画、漫画、小説といった娯楽を見すぎたバカ人間の行動ですよ」


 明知はあきれながらも、走るスピードは落とさない。人間がホテル内部に入った次の瞬間には、人狼モドキもホテルに入っていった。


ホテル内部に入ればバイクはもちろん使えず、一対一になれば人間は簡単に人狼モドキに殺されるであろう。


「急ぐぞ」


 弦と明知もホテルのなかに入ろうとした。ホテルの入り口はガラス張りだったらしいが、バイクが衝突した際に粉々に砕かれてしまっていた。


その向こう側に見えるのは乗り捨てられたバイクと荒れ果てたホテルの内装。概観を裏切ることなく、うらびれた廃墟の赴きがあった。


「この建物の地図が欲しい。提示しろ」


 弦がピアスに触れながら、虚空に向って呟く。親指の爪ほどしかないピアス型の機械は補助機といわれている機械であり、使用者の目だけに情報を提示させる携帯端末である。


本来はスマホやケータイの補助として発明されたが、その機能のほとんどは補助機へと移植され、今ではケータイやスマホの機能補助機と言う意味あいはなくなってしまった。


「前々から、思っていましたけど……その機械を使っていると転びませんか?地図とかが目の前に表示されるのでしょう」


 明知は使ったことはないが、ピアス型の補助機は自分の眼前に情報が提示される。未だに百年前の価値観で動くことが多い明知にとっては、転ばないほうがおかしい機械だ。


「視界は塞がない程度のもんだし、慣れてる。それより、早く行くぞ」


人間の影もモンスターの陰もなく、弦と明知はホテルのなかへと一歩を踏み出す。


 その瞬間――


「弦、下がりなさい!」


 明知は、叫んだ。


 弦が今まさに踏み出そうとした場所に、悪魔のような姿をしたモノが落ちてくる。


それは元は人間であったらしく、ジーンズにチェックのシャツというごく普通の格好をしていた。しかし、頭髪は不気味に伸びて、口からは唾液が滴っていた。


目は胡乱で、正気であるようには思えない。そして、明知は彼から不可解なことにとある気配を感じ取った。


「吸血鬼の気配が……」


「こっちは、人狼の気配がするぞ」


 弦は、明知とは違うものを感じ取ったらしい。


 人狼も吸血鬼も、人間が薬物あるいはモンスター血液によって転化したモンスターである。だが、人狼と吸血鬼の気配を持ち合わせるモンスターは現代ではいないはずである。


「グールなのかもしれません」


 明知の言葉に、弦は首をかしげる。


「聞いたことのないモンスターだな」


「第二次世界大戦前には見られていたモンスターらしいですが、現在では目撃されていない種ですね。私も始めて見るので判断のしようがありませんが……まぁ、暫定的にグールと判断しても問題はないかと」


 グールは、うなり声を上げながら明知たちに近づく。


 明知も弦もそれぞれ構えて、グールの出方を見ていた。


 グールが床を蹴り、明知の眼前に迫る。明知は息を吐きながら、グールの爪を避ける。人間のものと呼ぶには、いささか尖りすぎた爪は吸血鬼のものを明知に連想させた。


だが、吸血鬼の目ですら捉えるのに苦労する俊敏さは人狼のものである。


 しかも、ただの人狼ではなく、満月の人狼に匹敵する素早さだ。


 人狼の身体能力は、月の満ち欠けに左右される。満月になるほど強くなり、逆に月が欠けるほどに弱体化するのだ。


 明知は自分に伸ばされた腕を掴み、そのまま合気道の要領でグールを床に叩きつけようとする。


グールの間接が嫌な音をたてて曲がった。


本来ならば曲がらぬ方向に曲がった腕が明知の拘束を抜け出し、あっけに取られた明知の腹をグールは蹴り上げる。


 同族からも受けたことがない強力な蹴りに、明知の肉体が浮かび上がった。


「なにやってるんだ!」


 弦はグールにタックルし、明知とグールの距離を離す。地面に叩きつけられた明知はすぐに立ち上がり、全身にめぐる血を意識し、準備を整える。


 数秒で準備が終了し、明知はグールに向って音もなく接近する。その接近に気がついた弦はグールの腕を掴みあげて、空中に放り出した。


「王殺しっ!」


 明知の叫びと共に、彼の体から何十もの血の槍が皮膚を突き破って出現する。


その槍は、その全てが一つ残らずグールへと向って跳び、目標に突き刺さった。グールは床へと落ちて、ぴくりとも動かなくなる。


「相変わらず、その自爆攻撃はなんとかならないのか?見てるほうがおっかないぞ」


「……諸刃の剣と言ってください」


 自分の怪我の状態を確認しながら、明知は息を吐く。自分の血液で槍を作り出し、それが皮膚を突き破って出現するという攻撃手段。


明知に自分の血を飲ませた吸血鬼の親から受け継いだ特性であったが、痛みが当然あり、血も大量に消費するので、明知にとっては使いたくはない手段だ。


それでも今回は、早期に決着をつけたかったから使った。グールという正体不明の敵といつまでも対峙できるほど、明知の戦闘経験は豊富ではない。


「少し……休ませてください。ああ、あなたが抱きかかえて運んでくださるなら話は別ですけど」


「絶対に嫌だ。よし、さっきの人間を保護してさっさと帰るぞ」


 弦はバイクを運転していた人間を探しにいこうとし、グールに背を向けた。明知の目には、そのときグールがわずかに動いたように思えた。


「弦!」


 明知は痛みをこらえて立ち上がり、弦の背中に体当たりする。振り向いた弦が見た光景は、明知がグールに噛まれる瞬間であった。明知の腕の肉を食いちぎったグールは、ホテルの奥へと走って逃げていく。


「大丈夫か、明知!」


「……ちょっと時世の句でも読んでいるので、あなたはグールを追いかけてください」


「おまえ、見た目の割に余裕あるだろ。ああもう、回復したら勝手に逃げてろ。俺も人間を保護したら、適当に逃げる」


 弦は、グールを追ってホテルを奥へと走っていく。それを見送った明知は、食いちぎられた傷跡に手を当てる。人間であったならば失神していそうな痛みに明知は顔を歪め、ずるずると床に座りこんだ。


 体の外に流れだしていく血が、忌々しい。

 この血が肉体にあれば、明知はまだ立てる。だが、体外に出てしまえれば血は明知に力を与えない。弦一人では、グールに立ち向かっても勝てる見込みは薄いだろう。弦はそれを見越して逃げろと言っていたが、明知の肉体は動くまでは回復しそうにない。


 ――血を吸わなければ。


 ――人間の血を吸わなければ。


「欲しいんだろ」


 声が聞こえる。


 無意識に閉じていた瞳を開くと、そこにはライダースーツにヘルメットを被った人間がいた。


フルフェイスのヘルメットには暗いガラスがはめ込まれており、顔立ちは分からない。だが、左目だけが不気味に輝いているように思われた。


人間はライダースーツの胸元を大きく開き、明知の側ににじり寄る。近くで見るとよりいっそう、左目のきらめきが怪しい。


「あなたは……何者ですか?」


 吸血鬼である明知がたずねる。


「吸え」


 人間は、短くしか答えない。


 明知の嗅覚が、若く瑞々しい皮膚の匂いを感じ取った。そして、同時に甘い血液の匂いも鼻腔にとどく。


無意識に喉が鳴り、重い腕が人間の肩を引き寄せた。見知らぬ人間から血を吸う危険と抗うことのできない血の魅惑。


「――つっ」


 気がつくと、若い声が痛みに耐えていた。


 明知は人間の首筋に噛み付き、血をすすっていた。口のなかに鉄分の味が広がり、飲み込めば甘い味を感じる。


この甘さは、きっと吸血鬼しか感じない錯覚なのだろう。


少なくとも明知は、人間であったころは自分の血を甘いと思ったことはない。


吸血鬼になっても味覚には変化がないはずだから、血が甘いと感じるのは錯覚なのだ。


 大怪我をしているせいなのだろうか。


 口に含んでいる血が、今までのものよりもいっそう甘く感じられた。


「吸いすぎだ――ばか」


 人間は、明知を両手でぐっと遠ざける。


 一度は、明知はその声に従う。声や体格からして、人間は男性だ。


男性は女性よりも出血に免疫がない。吸血鬼が若い処女の血を好むといわれていたのは、若い女性が出血に耐えうる体力を持っていたからだ。


だから、吸血鬼が若い女性の血を好むというのはあくまで俗説なのである。


 明知も、人間のあるならば男性女性と区別なく愛人にして吸っていた。だが、男性の場合は女性よりも吸いすぎないようにしていた。血を見て気絶する男もいたから、傷口から血がたれることさえも注意した。


 それなのに、と明知は思う。


 今は、自制が効かない。


 目の前の人間の血が欲しくて、たまらなくなる。


「ばかっ!!」


 人間がよりいっそう強い声で、明知を拒絶した。


 明知は、はっとする。


 気がつけば、人間を組み強いてまでも無理やり血を飲もうとしていた。


「……すみません。あまりにも美味しかったもので。ほら、空腹は何にも勝る調味料というでしょう。空腹時でなければ、ここまでがっつきませんからね」


「貧血にしそうにしておいて、なに言い訳してるんだ!」


 人間は噛まれた首筋を押さえつつ、明知から離れる。無意識の状態とはいえ、止血すら施さなかった自分の無礼さに明知はため息をついた。


「左目さん、すみません」


「おい、左目って……俺のことかよ」


「はい、本名を知らないので」


 くすり、と明知は笑う。


 自らの体内に血がめぐり、肉体が活性化しているのを実感する。それに伴い、体内から発生した槍や食いちぎられた腕の肉が再生する。


「明知、俺たちの手には負えない!一度、逃げるぞ!!」


 ホテルの奥から、弦が飛び出してくる。


「明知、走れるか?」


「はい、彼のおかげで」


 明知は人間の体を抱きかかえ、弦と共に夜を疾走した。

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