第16話 贈りもの
「そのさ……赤ちゃんできたみたい、なんだ」
ジャズの音色だけが聴覚を支配する中、掠れ消えてしまいそうな声が時を溶かした。
「まだ全然人の形もしていない初期の初期で、大きくなる保証はないの。もしかしたら前みたいに消えちゃうかもしれない。でもね、私がお返しできるのはこれだけしか――もぅ、泣くなよー春君ったらぁ」
不安で掻き消えそうな声の主を笑顔にさせたのは、春仁さんの涙だった。
「だって……」
眼鏡の奥の瞳から雫が滴り落ちる。
この五年間、共に歩み積み重ねてきた二人の想い。
私には想像にも及ばない尊いものが溢れて伝染していく。
「笑ってよー、泣かれると純さんまでつられるじゃんか」
「ありがとう。……ごめん」
「あはは、あー、ダメだ涙出る」
純さんは目元を拭い、春仁さんの背中を強く叩いた。
「……私は幸せ者だよねぇ。だって、五年経っても結婚記念日を祝ってもらえるんだもん」
千秋さんと私は微動だにせず二人を見守る。
仲睦まじい二人の空気を穢したくない。
例え祝福の言葉でも今は邪魔になってしまうから。
「すみれおねえちゃん」
不意に女の子の声が聞こえ、左の袖を引かれた。
驚いてそちらを向くと、まこちゃんがプレゼントを持って佇んでいる。
どうして?
ドアは閉まったまま。開閉音もしなかった。
どうして、まこちゃんはジャングルに入れたの?
「ま――」
名前を呼び掛けた私に、まこちゃんは「しーっ」と人差指を唇に添えて制止する。
「まこ、もうお母さんのところに戻らなきゃ。すみれおねえちゃんが代わりにプレゼント渡してね」
まこちゃんは穏やかに笑う。
私は差し出されたプレゼントを確かに受け取った。
「またね」
目を疑う光景がまた、繰り広げられる。
まこちゃんは慰めあう夫婦の元へと駆けだした。
そして、純さんの腰に優しく腕を回し、ぴっとりと顔を添える。
すると、幼い体躯が蛍の光に似た淡い色に包まれていった。
「……え?」
私が静かに驚いている間にも段々と仄明るい輪郭が崩れていく。
そして、満ち足りた笑みを湛えたまこちゃんは、純さんの体内へ溶け込むかのように消えてしまった。
「ねぇ、春君。私、もう一つ、連れて帰りたい子がいるの」
ぽかんとしている私の眼前で、純さんは春仁さんを見上げる。
「どの子?」
「この子。マコデスペトラ。私を虜にした初めの子。ジュエルオーキッドの素晴らしさを教えてくれたきっかけの子。忘れないように連れて帰りたいなって。ほら、まだ私の棚空きがあるし」
「いいよ。秋君、お願い」
春仁さんの頼みに、千秋さんはにっこりと顔を綻ばせる。
「じゃあ、その子は僕たちからのプレゼントにしておきますね」
「やーん、店長ったら太っ腹。その意気で全部プレゼントにしない?」
「イヤです」
「けちー」
「こちらも商売ですので?」
千秋さんはにやりとおどけて見せた。
「はいはい赤字怖いもんねー。わかるよー、超わかる! でもありがと。純さん嬉しいよ」
結局、結婚記念日のプレゼントは計四つとなった。
鉢が転ばないよう、私が丁寧に紙袋に詰め、まだ目の赤い純さんに手渡す。
渡した途端にまた抱き締められて「あーふかふか! 春君とは大違い!」と純さんは快活に笑った。
「春仁さん」
熱烈な両腕から解放された私は、絶対に破ってはならない約束を実行に移す。
「春仁さんにもプレゼントを用意してるんです。受け取っていただけませんか?」
「僕に?」
「はい、これです」
必ず果たさなければならない。
だって、これはどんなものより強い祈りが籠っているから。
誰にも穢せない心が宿っているから。
私は一度ゆっくり瞬きして、まこちゃんに手渡された袋を見せた。
「わぁ! ちょっと春君、こうして包装するとお菓子みたいじゃない?」
最初に反応したのは純さんだった。
「美味しそうに見えるね。やしゃぶし、だよね?」
「そうです。私とまこちゃんで集めました」
「うそ、噂のまこちゃん? こんな風にしてくれたんだぁ。これ、使うのもったいないよ春君」
「今日もお二人に会うのを楽しみにしたんですよ。でももう、お母さんとお父さんのところに帰っちゃいました」
「残念。会いたかったのになぁ」
悔しそうな純さんに春仁さんは目尻を下げる。
千秋さんも朗らかな笑みを湛え、お店には桜の季節のような清々しい空気が満ちていた。
「いつか会えますよ。近い将来、必ず」
緑の手を持つ素敵な女性の元へ、緑の手を持った女の子が、必ず。
「だね」
袋は春仁さんの手に渡った。
「大切に使わせてもらいます」
そう言って、本当に嬉しそうに春仁さんは手触りを確かめる。
「これからどうされるんですか?」
纏わりつく虎徹を脚の間に挟みながら、千秋さんがおしどり夫婦に尋ねた。
「隣町の温泉旅館を予約してるんだ。そこで一泊してアパートに帰る予定」
「満喫してきてくださいね」
「満喫しまくるよー! でも稚魚用の自動給餌機が空になるまでに帰らなきゃ、春君が泡吹いて倒れるからね」
「吹きませんー」
口を尖らせてんの抗議は「はいはい、ごめんよ」と軽くあしらわれるのだった。
「すみれちゃんも懲りずに連絡してよ? くだらないことでもしょうもないことでも、お話しさせてね」
純さんが腕を広げ、私たちはきつく抱擁を交わした。
「じゃあ、バイバーイ」
「また来ます」
「お元気で!」
「楽しいからってあんまりはっちゃけすぎたらダメだよー」
「合点承知の助! またね店長!」
手を振りあって、寄り添い合う夫婦を見送る。
結婚記念日のサプライズは、こうして幕を閉じたのだった。
*****
「まこちゃん、お父さんに目元が似てるって今更思いました」
「驚いたでしょ? 和音ちゃんの時とまた違った感じに」
榧野夫妻の乗った車が発進したあと。
私たちはぬるくなったコーヒーをすすりながら、淡々と言葉を交わした。
「驚いたってもんじゃないですよ。和音さんもまこちゃんも、どうしてこの店に来てくれたのかなって、頭の中がぐるぐるしてます」
俗にいう霊感は私にはない。
今までだってその手の類とは関わり合いなく生きてきた。
あけび様は特別として、ウィルオウィスプで働くまで、こんな珍奇な現象には遭遇したためしがない。
目だってまわしたくなる。
「さぁ。引き寄せられる要因があるから、じゃないかな。僕はお喋りの相手がいて楽しいけどね」
「猫又だし、あけび様が怪しい……」
あの子たちを引き寄せられるのは、妖怪の彼女くらいだろう。
「あけび様も一端を担ってるけれど、それだけじゃないかも。様々な因果が重なって不可思議が引き起こされるんだよ」
「まこちゃん、私にもおばあちゃんにも、千秋さんにまで見えてたんですよね。千秋さんこそ驚かないんですか?」
「僕は元々あちら側に親しみがあるんだ。だからちょっとやそっとじゃ驚けないんだよね。今に始まったことじゃないしさ。すみれちゃんも、妖力の強いあけび様に感化されて見えるようになったんじゃない?」
「やっぱりあけび様かぁ。本人は絶対調子に乗るから言いませんけど、貴重な体験をさせてもらえました」
今日は少し高いお酒を買って帰ろう。
なんて思えるくらいには。
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