◆ジュエルオーキッド
第10話 ジュエルオーキッド
火曜の昼下がり。
その人はふらりと店に現れた。
千秋さんと顔なじみの常連さんが。
土曜日曜と、ウィルオウィスプはお客さんで大賑わいだった。
平日の静けさが噓のように次々と植物が売れ、お客さんが絶え間なく訪れる。
接客の合間に、ネット経由で注文のあった鉢も同時進行で梱包していった。
日曜の夜に売り上げを計算し、私は確信した。
このお店はネットなしでは生き残れないタイプなんだな、と。
それなのにひと月も更新が止まっていたんだな、と焦りもした。
翌月曜は定休日。
すっかり疲れがとれたとは言えない火曜に、その人はやってきた。
「わぁ、春さんいらっしゃいませ! どうしたんですか急に」
「秋君、久しぶり。見てのとおり出張帰りだよ。ぎりぎり寄れそうだったから来ちゃった」
からんからん、とドアをくぐったのは、コートを羽織ったスーツ姿の男性。
千秋さんよりさらに長身で、黒縁メガネの柔和そうな人だ。
年齢は三十代前半くらいだろうか。
猫毛の黒髪は若干くたびれているものの、熟成した鈍色の色香が漂っている。
「抜き打ちは緊張するなぁ」
「厳しめにいくよ?」
千秋さんは春さんと呼んだ男性と笑い合う。
「そうだ。彼女が純さんの後任のすみれちゃんですよ。ほら、えすえぬえすで呟いて? くれてる」
「初めまして。笹森すみれです」
レジカウンターにいた私は部屋の中頃に出て、軽く頭を下げた。
「へぇ、そっかぁ。はじめまして。僕は
「よろしくお願いします。あれ? かやの……ってもしかして」
確か純さんの苗字も榧野だったような……。
「春さんは純さんの旦那さんだよ。僕から貴重な店員を奪った張本人」
やっぱり。
この人が榧野さんの言っていた夫君なのだ。
「突然だったんだよ。僕も不意打ちで慌ててさぁ。その節はほんっとに申し訳ない……」
「あはは、冗談ですよ。どうぞごゆっくりご覧ください」
二人とも榧野さんだし、純さん、春仁さんと呼ばせてもらおう。
なんて考えていると、春仁さんは視線でジャングルの入り口を指した。
「奥、見させてもらっても?」
「どうぞどうぞ」
お客さんは春仁さん一人だけ。
相変わらず虎鉄はストーブの前で丸くなっている。
私たちは店番を虎鉄に任せ、三人でジャングルへと足を踏み入れた。
「これはこれは。一段ともさもさになってるねぇ」
天井から垂れ下がるチランジアを見上げつつ、春仁さんは奥の水槽まで進む。
「ふふ……いいねぇ……素晴らしい……」
じっと、水中で揺れる水草を見つめ、ぶつぶつ呟く春仁さん。
やっぱりこの人もそっちの住人だ。
「春さん、引っ越しの際お魚たちは大丈夫でした?」
「うん、なんと驚異の全員生存。覚悟してた分、拍子抜けだよ」
「良いことじゃないですか。普段の飼育環境が悪いとそうはいきませんよ?」
「運だよ、運」
「あの、春仁さんは熱帯魚を飼われてるんですか?」
置いてけぼりが寂しくて、私も果敢に加わってみる。
「まあね。水槽五本ほど」
「五本も!?」
「あはは、驚かれちゃったよ秋君。これでも引っ越しで縮小したのにー」
春仁さんは五本くらいで驚かれても、といった具合で頭をかいた。
「六十センチ三本に三十センチキューブ二本、になったんでしたっけ」
「いや、待って。最近無濾過の小型水槽が四つ追加されたんだった」
待って、九本になってますよ春仁さん。
横幅六十センチの水槽に立方体をした三十センチのキューブ水槽。
加えて、水質を保つ濾過フィルターを使わない小さな水槽が四つ。
土日で鍛えられたので形状についてなら覚えている。
濾過フィルターを使わない水槽はお手軽だが、こまめに水替えしてやらなければならない、はずだ。多分。
「再び禁断の扉を開けてしまいましたね」
「一度得た悦楽を忘れられると思うなんて、僕も浅はかだったよ」
ディープな方向に転がり落ちる話題に、そろそろついていけない。
悦楽って。熱帯魚が悦楽って。
土日にも思い知らされたが、この店に来る人は大体ぶっ飛んでいる。
仰ぎ見ることしかできないくらいに、高みに上っていらっしゃる。
「春さんがアクアリウムで、純さんが植物。持ちつ持たれつの組み合わせですよねぇ。羨ましい」
「そう? まぁ、お互いのパーソナルスペースを侵さない相手と出会えたのは幸せなのかもね。出張中のエサやりはケーキと引き換えだけどさ」
千秋さんと春仁さんはまた二人揃って笑いだす。
素人には入り込む余地がなかった。
「今日も水草をご所望ですか?」
「うーん、そそられはするんだけど、今回は別件で来たんだよ。純さんに内緒でね」
「と言いますと」
「ええとさ、もうすぐ結婚記念日なんだよね。だから純さんにプレゼントを贈ろうと思って」
「植物をプレゼントに、ですか?」
またまた果敢に口を挟んでみる。
「うちの奥さんはジュエルはジュエルでも、葉っぱのジュエルオーキッドにしか興味なくて。だからいくつか取り置きしてもらいたいんだ。今度二人で来た時に、サプライズで渡したいなぁって、ね」
「純さん、絶対喜ばれますよ」
「なら嬉しいんだけど、どうかな」
春仁さんはほんわり目尻を下げて笑った。
私もその作戦にぜひとも加わりたい。
まだ直接お会いしていない純さんの驚く顔をじかに見てみたい。
しかも、結婚記念日にジュエルオーキッドだなんて。
純さんが喜ばないはずがない。
葉脈にラメを散りばめたようなあの輝きは、どんな美しい宝石にも勝る。
きっと、大切にされるだろう。
「榧野家らしいですねぇ。現在進行形で株分けしてる最中なので結構種類ありますよ。お好きなものをどうぞ。純さんの好みなら春さんが一番知ってますしね」
「ありがとう」
春仁さんは、中央のガラスケース前に移動し、中を覗き込んだ。
ジュエルオーキッドは、葉を楽しむ蘭の総称だ。
カトレアや胡蝶蘭のように豪華な花は咲かない。
ウィルオウィスプで売られているジュエルオーキッドは、手に乗るくらいの鉢にミズゴケを使ってちょこんと植えられているものばかり。
開店祝いの蘭とは程遠い小ぶりな株だ。
けれど、丸みを帯びた葉の輝きは、それらに負けず劣らずの美しさを誇る。
葉の表面にはクモの巣のような淡い葉脈が張り巡らされ、その一本一本が天の川のごとく光り輝いているのだ。
照明に翳してみると、そのきらきらは一層美しく光りを放つ。
名の通り、宝石を、星を宿す蘭。
こんなにロマンティックで耽美的な植物があっただなんて、と最近私も虜になっている。
「近頃ハマってるのなんだったっけかなぁ……あっ!」
鉢が並んだガラスケースを覗き込んでいた春仁さんは急に大声を出した。
「えー、うわ、秋君秋君。マコデスペトラがしれっとあるじゃない! 申請ついに通ったの?」
「気づかれました? 純さんがいなくなってすぐに許可おりたんですよー。いやぁ、長かったです」
「申請……?」
心底嬉しそうな千秋さんは、首を傾げた私に目を細めた。
「あ、ええと、マコデスペトラは国内にも自生しているんだ」
「えっ、そうなんですか!?」
原産は東南アジアだとばかり……。
「うん。西表島辺りに生えてるナンバンカモメランっていうのが同種。店のとはちょっと見た目が違うけどね」
「すっごい南の方ですけど、この子が育つ森があるんですね……」
素直に驚いた。
私は店で鉢に植わった姿しか知らない。
だけど、どこかの森ではこの子たちが生い茂っているのだ。
当たり前なのに、感動してしまう。
「でも乱獲で数が減ったせいで、種の保存法の国内希少野生動植物種、に指定されてね。ですよね春さん?」
「ナンバンカモメランは絶滅危惧IA類だったと思うよ」
流暢に長くて複雑なワードを喋るお二方。
さすが玄人さんだ。
ついていけない。
「ですよね。よかった。で、こうなると販売や譲渡に規制がかかっちゃって。届け出を行ってやっと国内で繁殖させた個体なら譲渡や売買が可能になるんだ」
「その登録申請が通ったので、今ここに並んでいるってことですか?」
「正解」
「ほう……」
私はまた賢くなれた。
ジュエルオーキッドの種類についてはいくつか知っていたが、種の保存法のことまでは知らなかった。まだまだだ。
「綺麗だよね、マコデスペトラ。入門種で育てやすくて美しいなんて、文句の付け所がないよね」
「わかります。葉っぱの色が瑞々しい萌葱色で、きらきらの葉脈も太めで、文句の付けどころがありませんよね」
思わず鼻息が荒くなる。
千秋さんは隣で「うんうん」と相槌を打ってくれていた。
「おっしゃる通り。笹森さんはうちの純さんと馬が合いそうだ」
「私、純さんは博識で歩く植物辞典みたいだなぁって尊敬してます」
「大袈裟だよ。でも奥さんが尊敬されてるってのは悪くないね」
春仁さんはうなじを掻きながら照れくさそうに口元を緩ませる。
純さん、大切にされてるなぁ。
こんな夫婦、憧れちゃうじゃないか。
「それじゃ秋君。これとこれと……あとこれ。取っといて」
指さされたのは、どれも美しく可憐な子ばかり。
「わかりました。売約済みのタグ、つけておきます」
「よろしく」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると春仁さんは「純さんから聞いていた通り、秋君は本当に真っ新で良い子を雇ったんだねぇ」と呟いた。
同時に、鈴の音を模した電子音がどこからともなく響く。
「あれ、誰だろう。ちょっと失礼するよ」
すると春仁さんはコートのポケットを探り、スマホを取り出した。
「へ!? ごめん、純さんからだ」
「安心してください。静かにしてます」
私もうなずき、ジャングルの入り口に移動した春仁さんを見守る。
深呼吸した春仁さんは意を決した様相で通話ボタンをタップした。
「も、もしもし? どうしたの?」
若干声が上ずっている。
この人、噓をつくのは苦手なタイプだな。
「うん。今駅前でごはん食べようかなって……お土産も買うって。うん、うん。……はぁっ!? 産卵!? 本当に!? うん、お願い! 今日の夜には帰るから! うん、うん! ありがとう! じゃあね」
通話は数分で終わった。が、最初とまるでテンションが違う。
「ついにですか! やりましたね!」
「やったよ! やっとこの時が来たよ! 念願叶ったりだよ!」
「産卵って、魚、ですか?」
「そう! ええとね、これ、この魚がついに産んだんだよ!」
嬉々として春仁さんはスマホを操作し、私にある写真を見せてくれた。
「わぁ……綺麗な魚……」
写っていたのは、黒と白の幾何学模様を全身に纏った魚だった。
底に腹をつけている、ナマズに似た魚だ。
だけど、体色はこの辺りの田んぼにいる奴らとは全く異なる。
ぼてっとした純白の体に墨でまっすぐ直線を描いたような神秘的な姿をしている。
「でしょ? 綺麗だよねぇ。あーこうしちゃいられない! 僕帰ります!」
「取り置きは承りましたよー。急いで帰らないとです」
「またお会いできる日を楽しみにしてますね」
「うん、また!」
春仁さんは駆け足で店を出て行った。
よっぽど魚の産卵は一大事みたいだ。
「すみれちゃん、純さんと通話するとき、気をつけてね。くれぐれもバレないように」
「心得てますよ」
心なしか、千秋さんも胸を躍らせているみたいだった。
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