第89話 運命の選択 ~ Jabberwock IV

 松戸美園と面会して病院を出た直後にスマホに着信が入る。


 有里朱が画面を見ると、知らない番号からだった。


「誰だろう?」

『病院を出てすぐ、というのが気になるね』


 ロリスがそんなことを言ってくる。もちろん有里朱の脳内で。たしかに、このタイミングで見知らぬ人物からの着信というのは警戒してしまう。


『なにか嫌な予感がする。とりあえず、わかっているな? 有里朱』


 有里朱には一通り対処は教えてある。慎重に、そして確実に行動しなければ【J】を出し抜くことは出来ない。


「う、うん」


 有里朱はスマホをわざわざ左手に持ち替えると、左耳に当てて通話する。


「はじめまして美浜有里朱さん」


 スピーカーから流れてくるのは、ボイスチェンジャーで高音となった声。これでは相手の特定はできない。


「誰? あなたは」

「【J】とでも名乗っておこうか。田中央佳から話は聞いているんだろ?」


 少し前に【J】の正体を松戸美園から聞いたばかりだ。タイミングが良すぎる。


「流山海美さんね」


 一瞬、黙るがそれに対しての返答はなく用件だけを伝えてきた。


「キミに究極の選択を与えようと思う。若葉かなめと稲毛七璃のどちらが大切かな?」

「な、なに言ってるの? あなたは」


 少し動揺して感情的になりつつある有里朱。だが、それを抑え込もうという彼女の心の流れも見えてきた。昔の有里朱なら、我を失って錯乱していたかもしれない。だけど、今のこの子なら大丈夫だ。


「電話は切らずにそのまま駅に向かって歩いてくれ。他の人間に連絡をとろうとしたらゲームオーバーだよ」

「だから、何言ってるの!?」


 有里朱は感づいているのだろう。二人の身に何かが起こった事に。


「キミの後ろに宅女の子がいるだろう。ああ、一年生だからキミとは面識がなかったね。彼女はキミを監視している。電話を切ったり助けを求めようとしたら、即終了だ」


 有里朱が振り返る。数メートル後ろにスマホを持ってこちらを見つめている少女がいた。ショートカットの高校生くらいの子だ。知らない顔だが、彼女が監視役なのだろう。とはいえ、彼女も【J】に脅されるか洗脳されている可能性が高い。


 さらに電話相手は話を続ける。


「二人はこちらで預かっている。だけど、助けられるのは一人だよ」

「預かっているって……二人を誘拐したの?!」

「そうだよ」

「なんのために?」

「これはただの実験だよ。大切なトモダチが二人いて、どうしても一人を見捨てなければいけないのなら、人はどう選択するかだ」


 さすがに有里朱の心の負荷が尋常でない。正気を保つのがやっとだ。


『有里朱、だいじょうぶか? 耐えられないようなら俺たちが代わるぞ』

『そうだよアリス。ワタシならあんな奴に好きに言わせない』

「うん、へいきだよ。今度のことはわたしの力で解決したいの。孝允さんとロリスちゃんはあくまでも補佐役でいて」

『おまえがそう言うなら構わないが』

『けど、アリス、無理をしないでね』

「わかってる」


 時間にして約数秒、電話相手には気取られないだろう。


「そんな実験をして何が得られるの?」


 有里朱は、なんとか話を引き延ばそうと思考する。こんな大事なことをすぐに選択できるわけがないのだから。


「美浜有里朱という人間の行動原理だよ。ボクはキミに興味があるんだ」

「そのために、かなめちゃんとななりちゃんを誘拐したっての?!」

「キミは仲間の重要性をよく知っているだろ? そんなキミがどんな選択をするかが、ボクにはとても興味深いんだよ」

「学会で論文でも発表する気?」


 泣きそうになるのを必死にこらえながら、有里朱は強がってそう言った。いつ心が折れてもおかしくない。昔のこの子ならとっくに逃げ出している。


「ボクはそんな下世話なことには興味がないよ。ボク自身さえ満足できればいいからね。それより、答えは決まったかい? どちらを見捨てるんだ?」


 どちらを助けるではなく、どちらを見捨てるか・・・・・と問うてくる。慎重に言葉を選ばなくては、有里朱は一生後悔するだろう。


「そんな簡単に答えが出せるわけないでしょ。かなめちゃんもななりちゃんも、どっちも大切なんだから!」

「まあ、駅に着くまでに考えればいいよ。どちらを見捨てるかによって、キミの向かう方角は決まるからね」


 最寄りの駅まで五分もかからない。その間に有里朱は選択しなければならない。


 付き合いの長さではかなめの方が上だ。それにナナリーとは互恵関係だと最初に提示してある。


 だが、有里朱はそんな単純なことで決められるはずがない。彼女にとってはどちらが大切かなど、天秤にかけられるわけがなかった。ナナリーだって、有里朱にとっては大切な者の一人であるのだから。


 ただ、かなめは頭の回転も速く、かなり優秀だ。誘拐されて、どちらが自力で逃れられるかと問われれば、かなめの方に軍配は上がる。ナナリーを助ける方が、二人とも助かる確率は高い。


 だけど、それはあくまで確率の問題だ。確実に二人が助かるわけではない。そもそも、どこに二人は捕らえられていて、どんな状況なのかもわかっていないのだ。


「選択させるんだから、ヒントくらいくれてもいいよね?」


 有里朱は怒り狂いそうになる感情を抑えて、相手に対して冷静に問いかける。この状態で感情的になっても何も解決しない、ということを彼女自身が一番理解していた。


「ヒント? そうだね。答えられる範囲で正直に答えよう。キミがフェアに答えを出せるのなら」

「じゃあ、聞くよ。あなたはどちらにいるの? かなめちゃんの方? それともななりちゃんの方?」


 二手に分かれて何か行うのであれば、どちらかに付くのが定石だろう。


「なるほど、キミはボクの予想通りの事を聞いてくれる。そうだな、キミにとって厄介なのは【J】と名乗っているボクだ。厄介な相手と直接対決しようとする姿勢は敬意を抱くよ」

「ありがとう。じゃあ、その敬意ついでに答えてくれるかな?」

「あくまでヒントだから、直接答えを教えるわけにはいかないよ。そうだな、ボクがいる方は、さらにキミには試練が与えられる。それこそ、見捨てなかったことを後悔するくらいの」


 【J】が何を考えているのかがわからない。ただ、彼女のいる方にはさらなる試練があると言った。それは有里朱自身を苦しめるということだろう。


「その試練は裏切りに関係している?」

「ああ、そうだ。キミは頭が回るようだな。ボクがいる方の相手は、たぶんキミを裏切ることになるよ」

「その裏切りでわたしが傷つくと?」

「それはわからないよ。ただ、キミがどんな反応するのかが楽しみだ」

「ということは、傷つかない可能性もあるんだね?」

「まあね。ボクにも予想はつかないが、キミがどう足掻くのかも気になるところだから」

 有里朱が軽く吐息を漏らすと、内面の俺たちへと言葉を切り替える。


「ね、わたし、わかったんだけど、二人の意見も聞かせて」

『【J】が人質にとっている方か?』

「ええ、わたしはかなめちゃんだと思う」

『そうね。ワタシもそう思うわ。かなめは一時期、アリスをいじめる側に回っていたけど、あなたはそれをいじめと思っていないんでしょ?』

「ええ、そうよ。わたしはそれをかなめちゃんの裏切りと思っていない。同じようにかなめちゃんが【J】の側についたとしても、わたしは全然へいきだよ。だって、それには理由があるんだから」

『なるほど、だから【J】はおまえが傷つかない可能性もあるといったのか。それよりも、付き合いの浅いナナリーが裏切った方が、おまえは傷つくもんな。あいつ、おまえに懐いているし』

「うん。だから、【J】はかなめちゃんを手元において、何かを仕掛ける気よ」

『アリス、わかってる? それは完全に罠だよ。あなたを苦しめるための』


 ロリスのその忠告に、有里朱は迷わずにこう告げた。


「わたしはもう昔のわたしじゃない。それに、わたしはいろんな意味で一人じゃないから」


 迷いを断ち切ったような彼女の言葉。


 有里朱は再びスマホに向かって通話を始める。駅に着くまではなるべく話を引き延ばして答えを出さないようにした。


 そして目の前に駅が見えると、後ろの子が小突いてくる。早く決めろということだろう。


 ジロリと振り返ってその少女を睨むと、通話相手に向かってこう答えた。


「わかったわ。あなたは、かなめちゃんと一緒にいる。だから、そちらに向かう」

「へぇー、予想通りではあるかな。稲毛七璃を見捨てることになるけど、いいのかい?」

「かまわない」


 スマホを持たない方の右手に力が入る。悔しさで奥歯がギシッと軋んだ。


「あれれ? キミのオトモダチが聞いたら卒倒しそうな答えだね。美浜有里朱という人間は、そんなに簡単に他人を切り捨てられるんだ」

「ええそうよ。わたしが迷って、悩んで苦しむ姿を見たかったのだったら、それは見当外れね。わたしに対するリサーチ不足だったんじゃない?」


 これは彼女の演技だ。簡単に見捨てることは本心なんかではない。苦渋の決断だ。けど、それを相手に気取られないように必死で頑張っている。


 強くなったな、有里朱。


「ははは、これはまいったな。そうだな、キミを少し見くびっていたよ。わかった、後ろにいる子に、若葉かなめの所に行くと伝えればいいよ。その子がボクの所まで連れてってくれるはずだから」


 【J】はそう告げると電話を切る。


 振り返ると、有里朱を監視していた子が間近まで来ていた。彼女は同じくらいの背丈、ツリ目がちで気の強そうな子にも思える。脅されているって感じじゃないな。


「電話は終わったようね。さっさとスマホをしまって。他の人に連絡しようとしたら、二人とも死ぬことになるからね」


 有里朱は言われた通り、スマホをトートバッグの中へとしまう。


「それで、あなたはどちらを選択したの? お姉さまからは選択した方に連れてくように指示されてるんだけど」

「かなめちゃんの方よ」


 有里朱は目の前の少女をまっすぐ見つめるとそう告げた。


「あ、そうなの。稲毛七璃って子を見捨てるのね。かわいそうに。トモダチだったんじゃないの? でも、どっちかしか選べないのよね。ほんと、あなたとトモダチじゃなくてよかったわ。うふふ……」


 少女は嫌みったらしくわらうと、有里朱の左手首を掴んで進んでいく。そして「下手な真似をしたらゲームオーバーだからね」と【J】と同じような警告をした。


 その言葉を聞きながら、有里朱は左耳の中で少し緩いんだBluetoothの超小型イヤホンマイクをさらに押し込む。


 有里朱はスマホとタブレットの二台持ちだ。そしてスマホで通話中に、タブレットの方のLINF通話を起動させている。これは左耳のイヤホンマイクと連動しており、【J】との会話はすべてLINFのグループ通話相手に送られていた。


 通話先は、田中央美と鹿島みどり。そして、千葉孝義だ。


 もともとは、松戸美園との会話を皆に伝えるための仕組みだった。なので、すぐに連絡は付くだろう。今日はプレさんもミドリーも師匠も家にいるはずなのだから。


 彼女たちは頭の回転が速い。すぐに対応できるはず。


 有里朱は二人に頼ることを躊躇せずにかなめを選んだ。そして、自分のやるべきことも理解していたのだ。


 Jabberwock。『鏡の国のアリス』内に登場する架空の生物。その姿は恐ろしいドラゴンとも言われているが、原典とされる詩に明確な描写はされていない。


 まさに正体不明の化け物だ。そして、その頭文字である【J】を自ら名乗る少女。


 有里朱と【J】の直接対決が始まる。

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