第26話 あなたはわたしの○○ ~ Humpty Dumpty IV 【思井啓介視点】
思井啓介は薬を飲む。
ネットで知り合った友人がくれた頭痛薬だ。医者がくれたどんな薬よりもよく聞く。
昨日は最悪だった。
森で迷ったあげく穴に躓いてしばらく動けなかった。あの子を見失って、誰かに強盗されそうになったが、結局何も盗られていなかった。不思議な出来事である。夢かと思ったが、頭に被せられた麻布は手元にある。あれは夢なんかじゃなかった。
誰か邪魔が入ったのだろうか? あの子の
(あの子が幸せになるためにはオレが必要なんだ。友人の「J」だって言っていた。オレこそが彼女に相応しいと)
そういえば今日、変なメールが来た。そう啓介は思い出す。
一見SPAMっぽいのだが、日本語で短文である。広告や宣伝のURLすら書いてない。
そこに書いてあったのが【アナ&’#$◎*▽?ノ】だった。誤字なのか文字化けなのか、それとも何かのアナグラムなのか? いたずらにしては意味不明の文章だ。
そして、スマホの着信履歴。啓介が気付いていないのだからワン切りだったのだろうか? 非通知番号なので相手は不明だ。間違い電話なのかはわからない。だが彼は、何か嫌な予感を抱く。
――ピピピ
PCから電子音が鳴った。これは、マンションの入り口を撮影していたカメラが、人の動きを感知したのだ。
急いでPC画面を確認するが、画像が粗くて誰であるかを確認できない。
そこで、ベランダに設置した超望遠レンズ付きのカメラでマンションの出口付近を捉える。人影は十代くらいの少女。今、まさに出かけようとしている誰かだ。
ズームしてピントを合わせるとみると、啓介のよく知っているあの子だ。彼の理想の少女である美浜有里朱であった。
(今日こそ彼女をオレのものにしよう。あのマンションから助け出し、オレのところで住まわせてやればいい)
それが彼女にとっても一番の幸せだ。啓介はそう考える。
ふいにメールが着信した。
(誰だ?)
【アナ&ハワ$◎*▽モノ】
文字の一部が化けていた。だが、ただそれだけだった。送信者のメアドもよく知らないものだ。先ほどの文字化けメールと同じアドレスから送信されている。
啓介にはどうでもよかった。
**
彼女はどこに行くのだろう? 今はもう夜の八時を過ぎている。コンビニかなと啓介は思ったが、とっくに通り過ぎていた。
再びメールが着信。
【アナタハワ$◎*▽モノ】と文字化けの箇所が少なくなってきている。だが、どちらにせよ意味がわからない。
(有里朱ちゃんは学校に行くのだろうか? 方向としては学校に向かっていると考えられる。忘れ物かな? さすがに学校は警備員とかいるし、一緒に中には入れない)
さらにメールが着信。
【アナタハワ$シノ*モノ】
うぜえな、と啓介はスマホの電源を切る。「今はそれどころじゃないんだよ」と彼は舌打ちした。
あの子は学校を通り過ぎる。ここも目的地ではないのか? じゃあ、駅まで行くのか? 男は少女の行き先を推測する。
(繁華街で友だちと遊ぶのか? 男か?)
その考えを啓介は押し沈める。あの子は真面目で品のいい子だ。そんなふしだらなことなどしない。彼女は大事に育ててやらなければならない存在だ。
彼はそう思い込もうとしていた。
だが、駅への道ではなく右へと曲がり林道へ向かう。そういえば昨日も林道に向かっていたな。あそこに何があるんだ? 啓介は不審に思う。
林道は外灯がない。空の月は、三日月よりは僅かに太いが、それでも地上を照らすには十分ではない。暗闇とまではいかないが、足元に気をつけないと前には進めないだろう。昨日のように森の中に逃げ込まれたらおしまいだ。
(そうか、逃げる前に捕まえればいいんだ)
啓介は足を速め、そして駆け出した。
だが、昨日のようにあの子は逃げない。何か様子がいつもと違う。
(あれ? もしかしてオレの事、やっと受け入れてくれたのか?)
啓介は単純に嬉しかった。あの子と心を通わせることこそ、彼の幸せなのだから。
(オレの気持ちが通じたんだ。早く君と話したい。早く君を抱きしめたい)
焦る気持ちで足がもつれそうになるが、やっとの事で彼はあの子に追いついた。
「有里朱ちゃん!」
彼女は背を向けたまま立ち止まった。逃げる気配はない。啓介はほっとする。そして何か温かい気持ちが彼の心の奥からわき上がってきた。
「有里朱ちゃん! オレ、思井啓介っていうんだ。これからずっと君を守っていくよ!」「……ぇ」
何か喋ったような気がしたがよく聞こえない。
(そういえばこの子、ちょっと内気なところがあって恥ずかしがり屋なんだよな)
彼はそう思考する。彼女の性格は彼が一番よく知っているのだからと。
「ねえ、一緒に帰ろ。夜道は危ないよ」
「……ヶヶ」
泣いているのか? それとも笑っているのか?
「何か悲しいことがあったの?」
「……ヶヶヶヶ」
(あれ? 笑ってるのかな? だけど、有里朱ちゃんはそんな笑い方なんてしないと思うのだけど……)
「なあ、こっち向いてよ」
啓介は肩に触れ、やや強引にこちらを振り向かせる。
「……」
髪の毛で顔が見えない。あれ? 前髪こんなにあったっけ?
彼女が首を傾げるように不自然に横向きになると、髪で覆われていた顔が露出する。」
「ヶヶヶヶヶヶケケケケケケケケケッケケケケケケケッケ!!!!!!!!!」
それは血だらけで、片眼が潰れ、口からは舌が伸びきっていた。
思わず腰が抜ける。思考回路が働かない。何が起きている。「君は誰だ? 有里朱ちゃんじゃないぞ」と、啓介の思考は頭の中で空回りする。
「ケケケケケケケケケッケケケケケケケ!!」
髪を振り乱しながら、まるで舞を踊るようにオレの周りを回っていく。それは常人の動きではない。まるで、どこかの閉鎖病棟から逃げ出してきた精神病患者のようでもあった。
啓介の中で彼女の危険度が増していく。それは本能からのものであった。
予想通り、目の前の彼女はついに得物を取り出す。手に持っているのは……鉈のようなもの。
「アナ……………………ノ」
笑い声でなく、何か喋った。恐怖で身体が震えていく。
「アナ……ワタシ……モノ」
彼女から後ずさりする。逃げないとヤバイ。頭の中でずっと警鐘が鳴り響いている。この言葉もどこかで聞いたような気がすると、啓介は気付く。
(あれ? これ、メールで来てた文章か?)
「アナタハワタシノ…モノ」
おぼつかない足取りで、全身痙攣させながら近づいてくる。
(そんなに好かれても困る。オレは目の前の彼女を受け入れられない。足が震えて動かない。動けよ! こんちくしょう!)
彼女が近寄ってくる。鉈をクルクルと狂ったように回している。
そして啓介の耳元でこう言った。
「アナタハワタシノ“エモノ”。モウ、ニゲラレナイヨ!」
必死で転がる。彼女から少しでも離れるためだ。手をついて必死で立ち上がり、よろめきながら駆け出していく。
「ひえぇえええええええええええええええええ!!!!」
啓介は逃げ出す。本能がひたすら逃げろと警鐘を鳴らしているのだ。途中、何度も転びながらようやく国道まで出ると、近くにコンビニの明かりが見えた。とりあえず、あそこまで行って落ち着かせよう。彼はそう思う。
店で温かい缶コーヒーを買い、ほっと一息吐く。
(落ち着こう。何があったんだ? オレは有里朱ちゃんを追いかけていて……いつからあんな化け物に入れ替わったんだ?)
入れ替わった。もしくは初めからアレは有里朱ちゃんではなかったのではないかと彼は考え始める。
(本物の有里朱ちゃんは?)
啓介はスマホの電源ボタンをワンプッシュしてスリープを解く。が、画面は点灯しない。
(……そうか、電源オフにしていたのか)
今度は長押しでスマホの電源を入れる。これが起動できれば、彼の自宅にあるPCに繋がっているカメラからのマンション映像が見られる。もしかしたら有里朱ちゃんは部屋にまだいるのかもしれない。
スマホが起動すると同時に上部のLEDが点滅し、メールの通知表示が届く。
「なんだよ、こんな時に」
ワンタップで、メーラーを起動。受信メールを表示させた。
送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:00
送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:03
送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:06
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送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:39
送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:40
送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:41
「ぐはぁっ! なんだよこれ!」
そうやってタイトルを眺めている間にも新着メールが届いていく。不気味な文字列がスマホに表示され続ける。
送信者【精神病院のアリス】title【アナタハワタシノエモノ】20:42
「くそ!」
スマホの電源を再び落とす。これは家に帰るしかない、そう思い。啓介はひとけの無い道を駆け出していく。
時々恐怖で後ろを振り返るが、後を付いてきている気配はなかった。
家に着くと、ドアの鍵をすぐに閉める。そして啓介はPCの映像を確認しつつ、今度はベランダに出て望遠カメラを覗く。
だが、有里朱の部屋にはカーテンが閉まっていて電気が付いている。彼女は母子家庭で母親はまだ帰ってくる時間じゃない。ということは、部屋にまだいたのか、彼はそう結論づける。
その時、急に部屋の電話が鳴った。スマホではなく、固定電話である。
実家と勤め先以外はほとんどかかってこないのだ。何かあったと思い、啓介は電話に恐る恐る出る。
「もしもし」
「……」
初めにピーガラガラという意味不明なダイヤルアップ接続音。その後に子供の声で英語の歌が流れてくる。どこかで聞いた曲だと彼は感慨深くなる。懐かしいメロディラインは、幼い頃を思い起こさせるようだ。
不安を煽るような、それでいてどこか道化た歌詞。
Twinkle, twinkle, little bat,
How I wonder what you at!
Up above the world so high,
Like a diamond in the sky.
「これは『キラキラ星』じゃないのか?」
曲のタイトルに気付いた瞬間に、低いくぐもった女の声がしてきた。
「みぃーつけた!」
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