終章 2

(とんでもない人だ。笑顔で当たりが柔らかいくせに言うことは過激派だ!)

 まさに笑顔やくざ。凄まじいものをいった。王族の一員? 弟嫁? まるで決定事項のように言って。

(私はまだ本人に何も言われてないし、返事もしてないっての!)

 がつがつと床を削る勢いで歩いていたエルセリスだったが、顔の熱がなかなか引かないので歩調を緩めた。こんな顔でオルヴェインに会うと何があったのかと問い詰められてしまうからだ。

 呼吸を整えて、勝手に逸る心臓を落ち着かせる。

 アルフリードに教えられた庭の門をくぐっていくと、影になったところにある長椅子に腰掛けたオルヴェインの後ろ姿を見つけた。

 さっき見たときはちゃんと整っていた髪はくしゃくしゃになっていた。わずらわしくなって崩したようだ。

 呼びかけようとして、声が詰まった。緊張しているのだ。

 まだ少し熱い頬をぴしゃりと軽く叩いた。

「オルヴェイン」

 振り返った彼が立ち上がろうとしたので、慌てて駆け寄って制止した。

「いい、いい。座って。……じゃなくて。座ってください、閣下」

「敬語はいい。閣下と呼ばれるよりも名前を呼ばれる方が好きだ」

 顔が赤くなるようなことをさらりと言った後、オルヴェインはエルセリスを隣に座らせて笑みを浮かべた。

「元気そうだな、もう身体はいいのか」

「そっちこそ。出てきて大丈夫なの?」

「医者はいつまでも休めと言うんだ。従ってるとどこまで休まされるかわからんから表彰式は長官として出席したいと言ったんだが、代理を立てろと言われてああなった」

 その条件を出したのはアルフリードだったのだろう。やりとりするふたりが目に浮かんで苦笑してしまう。しかしずっと笑ってはいられない。聞かなければならないことがあった。

「――教えてほしいことがあるんだ」

 その服の下に隠されているものが果たしてどうなったのか、エルセリスは見届けなければならない。

 頷いたオルヴェインは上着のボタンに手をかけた。

 上着を脱ぎ、下に着ていたシャツをはだける。

 その肌の上に、黒い痣はない。

「ありがとう。お前は俺を救ってくれた」

「……っ、本当に呪いは消えたんだね? もう大丈夫なんだよね?」

 こみ上げるものを飲み込みながら尋ねる。

「医者と学者たちはそう言った。痕跡はあるが死の呪いは消えているそうだ。これからそれが再び現れることがあるのか、封印塔の影響外に出ると症状が出るのかなんてことも確かめなきゃならないらしい。だが少なくとも、後数年の命というわけではなくなったみたいだ」

 届いた。ちゃんと、届いた。助けられた。

 目指すものにたどり着いた。

 言葉にならないエルセリスは深く俯いて涙をこらえていたが、オルヴェインはそれを隠すようにして腕を回した。背中に触れる手に促されて、エルセリスは彼の胸にそっと身を寄せる。

「あのとき一応意識はあったんだが身体がどうしても言うことをきかなくて。そのうち意識も途切れ途切れになって……我に返った瞬間、お前と剣を交えていてぞっとした。なんとか抵抗を試みたんだが……」

「わかってる。無事でよかったよ、お互いに」

 オルヴェインは長いため息をついた。

「本当にわかってるのか? 完全に意識を奪われていたら、俺は確実にお前を手にかけていたんだぞ」

「でも命を賭けたから祈りが届いた」

 そんな祈りを行える者は現代にそうはいない。静かな安寧を謳歌する人々は危険な祈りを行うことはないけれど、限られた機会を確実に掴み取ることができたのは自分ひとりの力ではなかった。

「だから、私こそありがとう」

 強く優しく美しい私でありたいと思ってきたエルセリスが望んだのは、みんなに愛されるものになること。自分のことを好きになってほしいというところから始まったそれは祈るための剣舞をも手段にした『居場所がほしい』という願いだった。

 いまの願いは違う。

 今度は、周囲も自分も蔑ろにすることない生き方をしながら《剣》の聖務官として名を残したい。今度こそ、いちばん最初に思い描くような、本当の意味で、強くて優しく美しい自分になりたい。

 いまの自分よりもより良い自分になって好きになる。難しいことだけれど目指す甲斐はあった。

 エルセリスの笑顔につられるみたいにしてオルヴェインも笑った。

「後悔を残さないでおこうと思っていたから、いま途方に暮れてるんだ。時間があると人はこんなにも呆然とするものなんだな」

「じゃあたくさん休んで、元気になって、めいっぱい仕事してよ」

「そうだな。クロティアの封印塔はこれから解呪の塔として機能できるようにするらしいし、こんな俺でも出来ることはあるだろう」

 くすくす笑う声が直接響いたのに驚いて離れた。

 シャツの間から覗く素肌が眩しくて目を逸らすと、オルヴェインは笑いながら服を身につけた。それでも面倒になったのか上着の前は開けたままだ。

「少し歩くか」

「あ、だったら行きたいところがあるんだ。入れるかわからないけど」

「俺が開けてやるよ。これでも第二王子だ」

 兄貴の部屋以外な、と付け加えられたところに力関係が見えた。

 昼中の王宮は静かだ。住人である王族はみんな政務や公務で出払っているし、ここで仕事をする人々は例外なく気配を殺す術に長けている。代わりにエルセリスたちの声がよく響く。

「あのときのウォリース聖務官はすごかったな。戻ってきてから履歴書を確かめたが、ものすごい経歴だったぞ」

「そうなんだよ。護身術やら剣術やら、いろんな武術の師範の資格があるんだって。でも本人は暴力が嫌いでああいう性格なんだよ。もったいないような、らしいようなって感じだよね」

「今期の聖務官は仲がいいと聞いていたが、お前は特にフェルトリンゲン聖務官と親しいんだな」

「うん、親友なんだ。嬉しいけどちょっと照れくさい。アトリーナは何でもできるし美人だし、聖務官としても実力があるから、私でいいのかなって」

「向こうも同じように思ってるんじゃないか? ああいうやつは気に入らないと近付きもしないだろう。現に俺がそうだ。まったく話しかけてこないぞ、あいつ」

「ええ? そうかなあ。警戒してるだけだと思うけど」

 まるで昔に戻ったように親しく言葉を交わし合って、エルセリスたちはその庭園に至った。幸いにも鍵は開いており、オルヴェインが鍵番を脅しつける必要はなかった。

 そこはかつて王妃のお茶会が開かれた庭園。エルセリスとオルヴェインの仲に亀裂を入れたあの事件が起こった場所だった。

(あれ、誰かいる……?)

 そう思ったときオルヴェインが動いた。焦った様子でその華奢な人に駆け寄っていく。

「母上。外に出ても大丈夫なのですか?」

「まあ、オルヴェイン」

 そこにいたのは庭園の主人である王妃だった。

 病に倒れて副都で療養中であり、公式の行事に姿を見せなくなって久しい人の姿に、エルセリスは驚いた。記憶にあるのはあのお茶会で見た楚々とした美しさだったが、いま見るとやはりずいぶん重やつれしたようだった。しかし噂で聞いていたような重篤な状態は脱したのだろう、ほっそりとした首を傾けて浮かべる微笑みは優しく柔らかだった。

「大丈夫よ、今日は具合がいいから。それに最近体力が戻ってきたようだとお医者様が言っていて、じきにこちらに戻ってこられるかもしれないから、久しぶりに歩いてみたかったのよ」

「そうなんですか?」

「ええ。心配をかけたわね」

 悲しみの混じるオルヴェインの表情と、王妃の微笑に浮かぶ喜びに、あっと声をあげそうになった。

 王妃が倒れたのは二年近く前。オルヴェインが死の呪いを受けたのもまた、二年前だったはず。国王と兄王子は塔の再活性化にすがったほどだったのだから、その母たる人の悲しみはもっと深かったことだろう。だからもしかして倒れた原因は病だけではなく。

 骨の目立つ腕を伸ばしてオルヴェインに触れていた王妃が、エルセリスに気付いた。

 微笑を浮かべてそっと近付いていくと、気付いたオルヴェインが礼儀を思い出して紹介してくれた。

「母上。ガーディラン伯爵令嬢エルセリス……ガーディラン聖務官です」

「ご無沙汰しております、王妃様。わたくしのことは憶えていらっしゃらないかもしれませんが、幼い頃にお目にかかったことがございます」

 王妃は目を見張り、溶けるように笑った。

「まあ、エルセリス。もちろん覚えていますよ。最後に会ったのはあなたが聖務官になる前の小さかった頃ね。あの可愛らしいお嬢さんがこんなに綺麗になって」

「恐縮です」

 気恥ずかしいが否定するのは失礼なので言葉少なに感謝を伝えると、楽しそうに笑われてしまった。

「お世辞ではないのよ。あなたのことは副都にいても聞こえていたし、立派に聖務官として勤めていることは知っていたけれど、実際に会ってみればその人の歩んだ道は感じ取れるもの。とても努力したのね。いまのあなたはとても素敵ですよ」

 エルセリスは息を詰まらせた。自然と頭が下がる。

「……ありがとう、ございます。まだまだ、いたらないところはたくさんあるのですが……」

「大丈夫よ。周りに感謝を忘れないで、大事なものを見失わずにいれば、おのずと正しい道を歩んでいるものだから」

 はい、と答える声は震えて、そうであればいいと強く願っていた。この言葉の通りに生きられたなら何を目指してもそれになれるのだと、より良い自分に必ず出会うことができるのだと信じようと思った。

「母上。そろそろ戻られた方がいいのでは」

 やりとりを見守っていたオルヴェインが声をかける。

「そうね。またベッドに逆戻りしてしまう前に戻るわ。エルセリス、あなたはゆっくりしていってちょうだいね」

「はい。ありがとうございます」

「また見舞いに行きます」

 王妃はにこりとした。

「ふたりで来てもいいのよ?」

 予想外の攻撃だった。

「……なっ……!?」

「母上!?」

 ほほほ、と軽やかな王妃の声が響く。

「あなたたちはいまでも仲良しなのねえ」

 これまでもこともこれからのこともまるごと受け入れて慈しんでくれる眼差しに、顔を赤くしたままエルセリスは答えた。

「……はい」

 自分でも気付かないうちに笑っていた。

「いろいろあったけれど、仲良しなんです。いちばんの」

 オルヴェインの驚いた顔をちらりと見上げて肩をすくめる。照れくさいけれど本当のことだ。

「先の楽しみができたわ。オルヴェインは難しい子だけれど、これからも仲良くしてあげてちょうだいね。また会える日を楽しみにしているわ」

 離れたところで様子を伺っていた侍女と合流したのを見届けていると、風の流れが変わった。大きく動いた大気が薔薇を揺らして回り、草木のさざめきは過去からの声になってエルセリスの心を運ぶ。

(本当にいろいろあったな。きっとこれからもいろいろあるんだろう)

 だがまずはひとつ、決着をつけなければならないことがある。

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